雑感記 第15章 アフガニスタンとタリバン

地理的にはヒマラヤの一角を占めるヒンズークシ山脈と砂漠という恵まれ ない条件の反面、北を旧ソ連のウズベクスタン等の諸国、西をイラン、東 を僅かに中国、南をパキスタンに接し、東西を結ぶシルクロードの通過点として、 経済的、軍事的に中央アジアの要衝であるアフガニスタンは、紀元前か ら大国に侵略される歴史を繰り返しております。

最近はイスラム原理主義勢力が拠点化しつつあることに加え、この国の 重要資源である天然ガスや中央アジア産の石油のパイプライン施設に ロシア、米国、日本等の権益が絡んで複雑な国際情勢をはらんでおります。

紀元前には、ペルシャ・アケメネス王朝のダーレイオス一世とマケドニア のアレキサンダー大王、3世紀には同じくササン朝ペルシャ、13世紀には 蒙古のチンギス・ハーン、14世紀にはモンゴル系のチムール帝国、16世 紀にはペルシャ系のサファビー朝、17世紀にはインドのムガール帝国の 侵略を次々に受け、18世紀になって漸くアフガン人(イラン、セムの混血) による独立王朝が成立したものの19世紀にはイギリスとロシアの干渉を受 けた後1919年に独立して立憲君主制が敷かれ、73年のクーデターまで続きます。

支配者たちがこの地に留まらなかったのは、やはりこの厳しい地理と気候 が原因だったように思われます。
しかしその時々の支配者によって混血が進んだ結果、トルコ系、ペルシャ 系、モンゴル系等の多民族国家となり、過半数を占めるパシュトゥン人、タジク人、ウズベク人 、そしてモンゴル系と思われるハザラ人等が住み、殆どがイスラム教を信奉しております。

73年7月17日、国王ザヒル・シャーが眼の治療のためイタリアを訪れて いた間に彼の甥のダウド将軍がクーデターを起こし、共和制へ移行させた のですがこの新政府の閣僚の過半数を共産党党員が占めたため実質的 に共産政権となり国内に反共・反政府ゲリラが多数組織されました。
そして、78年にソ連はこのゲリラ活動でソ連の権益が損なわれることを名目 に、10万の兵力に最新式の兵器を備えてアフガニスタンに侵攻しましたが、 その真意は次のとおりだったと思われます。

1:インド洋に進出して冬になっても凍らない不凍港の確保。
2:中東の石油の権益。
3:アメリカの同盟国のパキスタンに脅威を与えること。

危機感を感じた米国は武器とゲリラ戦術を、パキスタンは軍事施設を、サウ ジアラビアは資金を惜しみなくゲリラ組織に提供し、全世界からイスラム教徒 が義勇兵を志願してアフガニスタンに集まってきました。 その中に、ビン・ラディン氏や最近暗殺されたマスード将軍もいたわけですから、この時点では米国はビン・ラディン氏 を支援していたことになります。

それでなくても、3000m以上の山々が連なる地形と極寒の冬季に手を焼い ていたソ連はこの思わぬ援軍に劣勢を強いられ89年に撤退を余儀なくされ、10年に及ぶ侵攻から手を引きました。

ソ連への抵抗は「イスラムを守るための聖戦」、「ジハード」、これに参戦した 元市民、義勇兵は「ムジャヒディン(=イスラム聖戦士)」と呼ばれ、とりわけ その中でもイスラム協会のラバニ氏と後のタリバンへの対抗勢力の北部同盟 指導者で先週暗殺されたマスード将軍、イスラム党のヘクマティアル氏が重要人物 でした。



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