バリ島及びインドネシアの歴史

★バリ島の歴史:

バリ島が歴史に登場するのは9世紀後半のことですが、紀元前.300年頃から既に人が居住していたと言われています。 その後ジャワのヒンズー教王国から多くの影響からの文化(ヒンズーダルマ)を形成してきます。神、宗教がバリの伝統的な生活、伝統文化のの根幹をなし、インドネシアの他の地域と全く異なる文化を育んできました。17世紀に入ると、オランダがジャワに東インド会社を設立、ヨーロッパ諸国の支配を受ける時代へと入っていきます。1920年代には、欧米の芸術文化、近代画法等がバリに伝わり、影響を受け、世界的に「芸術の島・バリ島」として、認知され、人々の興味を集めます。1949年にインドネシア独立と同時にバリ州として成立しました。

★インドネシアの歴史:
1.ジャワ原人の登場:
紀元前5000年頃、東南アジア大陸からスマトラ方面へ石器文化を持った原モンゴロイド(黄色人種)も入ってきますが、現在のインドネシア人の直接の先祖は、紀元前1500年以降、インドネシア方面に南下してきた「アウストロネシア語族」という南方モンゴロイド集団です。 うち、「インドネシア語派」の「西インドネシア語群」は、根栽農耕と海洋通商文化を携えて前500年以降、ジャワやスマトラに広まって、現在のジャワ人、スンダ人、マレー人などの祖先となっております。

2.インドネシア国家の誕生:
東南アジアには紀元後1世紀頃からインド商人が多数移住して4世紀にはサンスクリット語とヒンドゥー教を奉ずるインド型の初期国家が誕生します。 ジャワでも遅くとも5世紀には国家が成立、「タルマ国」のプールナヴァルマン王が碑文を残しています。 同じ頃カリマンタン東部でも、ムーラヴァルマン王がインドネシア最古の文字記録と言われる「クテイ碑文」を書いています。 6世紀末には、同じインド型国家でもヒンドゥー教ではなく大乗仏教を保護する国が登場し後にシュリーヴィジャヤ王国になります。

3.シュリーヴィジャヤ王国の出現:
7世紀後半、スマトラ島を中心に忽然とインドネシア史上、マジャパヒト王国と並んで有名な古代王国「シュリーヴィジャヤ」」と言う大帝国が出現します。 マレー族が築いた海上貿易帝国で、大乗仏教を奉じましたが、活動の大半は経済的利益の追求に費やされました。 8世紀後半にはマレー半島北部まで勢力を拡大しますが、その発展はシャイレーンドラ朝の勃興で中断されます。

4.シャイレーンドラ王国の出現とシュリーヴィジャヤ王国の復活:
8世紀後半、中部ジャワに突如出現したシャイレーンドラ朝は、周辺国を征服して一大軍事国家を築き、有名な大乗仏教遺跡ボロブドゥールを建てます。 しかし9世紀前半には早くも勢力を失い、その後スマトラにはシュリーヴィジャヤ王国が復活、中部ジャワには新興勢力サンジャヤ朝が勃興します。

5.ヒンドゥー・ジャワ文化の形成
9世紀半ば以降、中部ジャワで権力を握ったサンジャヤ朝は、大乗仏教遺跡ボロブドゥールを建てたシャイレーンドラ朝の向こうを張って華麗なヒンドゥー遺跡プランバナンを築きました。 ところが10世紀前半、メラピ山の大噴火により中部ジャワは壊滅、ジャワ族のサンジャヤ朝は東ジャワへ落ち延びます。  東ジャワに移ったジャワ族の文化は大きく変容を遂げます。中部ジャワであれほど巨大石造建築にこだわった人々が、東ジャワでは一転して、演劇や文学、音楽のような観念的な世界に没頭するのです。  ここで形成された「ワヤン」などのヒンドゥー・ジャワ文化は、その後現在に至るまでジャワ独特の民族文化として保持されます。
6.イスラム教の拡大:
西インド起源のイスラム教が東南アジアに最初に定着したのは、13世紀末のスマトラ島北端でした。 しかしイスラム教が東南アジア各地に広がり始めるのは、マレー人が14世紀末に建てた貿易大国マラッカ王国が15世紀後半にイスラム化してからです。  マラッカはイスラム布教の基地となり、マラッカの貿易路に沿ってイスラム教は広まってゆきました。  ジャワ島北岸に誕生したイスラム港市国家群は、1480年代以降激しくマジャパヒト王国を切り崩してゆきます。  沿岸諸国のうち最も優勢だった中部ジャワのドゥマクは、16世紀初めには西ジャワを征服、16世紀後半には中部ジャワ内陸部へ進出します。  間もなくドゥマクが内紛で分裂すると、中部ジャワにはマタラーム王国が独立、大発展し、1590年代には中・東部ジャワを支配、西ジャワにも進出する勢いを示しました

6.オランダ人の到来:
16世紀末ジャワに到達したオランダ人は1602年オランダ東インド会社(VOC)を設立、バタヴィア市(今のジャカルタ)を建設しました。  バタヴィアのVOCはマタラーム王国の攻撃に耐え、イギリスやポルトガルを蹴落として、1640年前後には東洋貿易で独占的な地位を確保しました。  17世紀後半には諸王国の内紛に乗じ、西スマトラ、南スラウェシ、マタラーム王国などで権益や領土を増やしてゆきます。

7.オランダによる植民地支配:
19世紀前半、パドリ戦争 (1821−37) とジャワ戦争 (1825−30) という2大反乱を鎮圧したオランダは、悪名高い「強制栽培制度」を導入、インドネシアから莫大な富を搾り取り、なおも外島の植民地化を進めていきます。  これが1870年に廃止される頃にはオランダ民間資本の進出が進み、インフラや近代的統治機構・教育制度の整備が進められます。  その一方で、アチェ戦争 (1873−1904) のような苛烈な征服戦争が相変わらず続けられました。 20世紀初頭、オランダ領東インドが成立すると同時に、「東インド」----1920年代には「インドネシア」という言葉が定着----の独立運動が始まります。  最初は理解を示していたオランダも、1926年末〜1927年初に共産党の蜂起が起こると態度を変え、活動家を容赦なく取り締まるようになりました。  スカルノ、ハッタといった人々も1933〜34年頃逮捕されます。

8.独立運動と日本軍進駐:
 彼らを監獄から連れ出したのは、1942年3月に進駐してきた日本軍でした。  日本軍は太平洋戦争遂行のため、インドネシアの資源、人間を必要としていました。そのため「戦後独立」の約束をスカルノらと交わし、彼らの協力を得たのです。  日本軍は全国住民組織、軍隊など、オランダが決して教えなかったことを教え、インドネシア人に大きな刺激を与えました。  反面、経済無策、食糧強制徴用、「ロームシャ(労務者)」強制労働などの暴政も敷きました。

9.ンドネシア共和国の独立:
1945年8月17日、スカルノはインドネシア共和国の独立を宣言しましたが、正式に独立が承認されるのは、再支配をめざすオランダとの戦争後、1949年のことです。  しかし独立後も内外で反乱が続き、議会政治も腐敗を重ねたので、1955年に最初の総選挙が行われました。ところが総選挙は逆に対立を激化させ、議会は空転、地方反乱やクーデターが頻発。1958年には西スマトラや北スラウェシで軍閥化した地方師団長が一部中央政治家と結んで「暫定臨時政府」を樹立し、インドネシアは分裂の危機に陥りました。  国軍の力で何とか反乱を鎮圧したスカルノは、勢いをかって1959年7月、強大な大統領権限を規定した「1945年憲法」の復活を宣言、翌年議会を解散して「指導される民主主義」という一種の大統領独裁制を開始しました。  この体制は国軍と共産党の微妙なバランスの上に成立していました。  しかし、1963年のマレーシア連邦結成を「新植民地主義の陰謀」と非難、対決政策を開始したスカルノは、西側諸国と対立して共産圏に接近し、国内でも共産党にテコ入れして均衡を崩しました。  急成長する共産党と国軍との対立が頂点に達した1965年10月1日早朝、国軍内の左派勢力が6将軍1士官を殺害するクーデター未遂事件(9月30日事件)を起こしました。  この事件をきっかけに、スハルト率いる治安秩序回復作戦司令部は共産党の解体に乗り出し、3ヶ月の間に約50万人に達する大虐殺となりました。  政治の主導権を失ったスカルノ大統領は、1966年3月、スハルトに大統領権限を委譲するのです。

10.スハルト政権の誕生:
1966年に成立したスハルトの「新秩序(オルデ・バルー)」は、スカルノ時代とはがらりと異なるものでした。  その政策は、一言で言えば「反共」「開発独裁」です。  反共の旗を掲げて西側先進国から巨額の援助を受け取り、大型開発プロジェクトで経済成長を実現して政権を維持する、という「開発独裁」は、年平均6.7%経済成長、米の自給、貧困層縮小など、目覚ましい成果を上げました。1973年と1979年に起こった石油ショックも莫大な原油収入を国庫にもたらしました。1976年には東ティモールを併合、国際社会の非難を浴びます。  総選挙のたびに全軍人・公務員を翼賛政治組織「ゴルカル」に投票させて政治基盤を固めたスハルトは、イスラム原理主義の高まりを恐れ、1983年、キリスト教徒ベニー・ムルダニを国軍司令官とし、パンチャシラ(建国五原則)教育を徹底してイスラム教徒を政治から遠ざけました。しかしベニーが政権を脅かす勢力になったため、彼を1988年に解任、イスラムに再接近を開始します。  この間成長した華人財閥は、金融自由化で大量の外資を借り入れ不動産投機に走りましたが、1997年秋、アジア通貨危機の到来と共にバブルははじけ、インドネシアは未曾有の経済危機に叩き込まれます。  物価高騰と米不足は、大統領一族の特権や華人政商との癒着への怒りを呼び、抗議行動と暴動が荒れ狂う中、スハルトは1998年5月21日に辞任を表明、32年に及んだ長期政権の幕を引いたのです。

11.ハビビ、ワヒド政権への移行:
1998年5月21日、スハルトから突然政権を受け継いだハビビ大統領は、ウィラント国軍司令官と協力して、スハルト派を追い、政治犯釈放、言論自由化、東ティモールやアチェ、イリアンジャヤからの撤兵など、改革路線を順調に進むかに見えました。しかし9月以降、スハルト汚職調査引き延ばし、デモ弾圧発言など、ハビビ政権は反動化の兆しを見せ、11月には国会へ向かった学生デモ隊が治安部隊と衝突、16人が死亡。このスマンギ事件に続いて北ジャカルタで宗教暴動が発生、翌1999年1月にはアンボンに飛び火して、9月までに300人以上が死亡する大暴動へと発展。アチェでも同年初から独立を求める住民と国軍の間で武力衝突が相次ぎ、独立に向けた住民投票の実施が決まった東ティモールでも併合派と独立派の間で衝突が再開するなど、社会不安が再燃しました。その間、政権内ではハビビ=穏健イスラム派と、ウィラント=国軍派の間で亀裂が深まりました。

1999年6月7日に行われた総選挙では、メガワティ率いる闘争民主党が得票率約35%で圧勝。しかしゴルカルも2位に付き、「ナフダトゥール・ウラマ (NU)」議長アブドゥルラフマン・ワヒド (グス・ドゥル) の民族覚醒党(PKB)、「ムハマディア」総裁アミン・ライスの国民信託党(PAN)を押さえて強みを発揮。また開発統一党 (PPP) などイスラム勢力が政治的発言力を強めたのも特徴です。8月30日には東ティモールの独立の是非を問う住民投票が行われ、78.5%の圧倒的多数で独立が承認されましたが、併合維持派が独立派住民への攻撃を強化、事態を収拾できないインドネシア政府は国際的非難にさらされ、9月12日に国連多国籍軍の受け入れを余儀なくされました。東ティモールでの失態とバリ銀行への公的資金注入に絡むスキャンダルで10月の国民協議会の不信任を受けたハビビ大統領は、次期大統領選への出馬を断念。10月20日に行われた同選挙では、イスラム系中道会派が擁立したグス・ドゥルがメガワティを破り、第4代のインドネシア大統領に就任しました。一方メガワティは翌10月21日に副大統領に選出され、グス=メガによる「兄妹」政権が誕生。さらに国民協議会議長にはアミン・ライス、国会議長にはゴルカル党総裁アクバル・タンジュンが就く等、挙国一致的な政権が生まれました。この総花的な新政権がどこまで過去の癒着を断ち切り、改革を断行できるかが焦点です。


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