エジプト古代史を変えた男性たち(7)
(ペルシャ王としてエジプト王になったカンビュセス2世)

古代エジプト人は実に鷹揚な民族だと思います。異民族に侵略されて支配を受けても連綿として続くエジプト王家の王名にその名を連ねて後世に伝承しているからです。日本で言えば朝鮮半島や中国大陸の異民族に侵略された場合、その異民族を天皇家として認めることになりますから我々の常識では考えられません。

古代エジプトの歴史を変えたファラオ10傑に、敢えて異民族のカンピュセス2世を挙げたのは、彼が27王朝を開くことで実質的にエジプト人支配を終焉し、異民族支配の時代が始まったと考えられるからです。彼は自国ペルシャで謀反が起こったためファラオを部下のダリウスに譲位して急遽エジプトに帰りましたが、その後一時的に名ばかりのエジプト人王朝が樹立されたもののその後は二度とエジプト人王朝は実現しないまま古代エジプト王国は崩壊してしまいました。

エジプトから紅海、シナイ半島を隔てた現在のイラクが位置するメソポタニア地方はエジプトより早く古代文明が発祥しており、最初に古代エジプ王朝が開かれたBC5000年よりも2000年前のBC7000頃に既に、農耕が開始されていることはイラク東北部のジャルモ遺跡などで立証されております。この地域及びペルシャ(イラン)、小アジア(トルコ)、フェニキア(レバノン)、パレスチナ(イスラエル、PLO)、シリア、エジプトはオリエントと呼ばれ、東西の接点に当たるため様々な民族が興亡を繰り返しており、エジプトもその影響を受けておりますのでその関係を少しここで整理しておきたいと思います。

ナルメルがエジプトを統一して第1王朝を開祖したBC3000年頃、メソポタニア地方でシュメール人が既に都市国家を作っておりましたが、BC2400頃 アッカド人(セム語族)に征服されアッカド王国に代わったものの、BC1700 頃復活してウル第三王朝が栄えたのも束の間、アムル人(セム語族)がこれを滅ぼし、バビロン にバビロニア王国建国を建国し、全盛期は6代のハンムラビ王(位BC1724〜1682)の時代に有名な「ハンムラビ法典」が制されております。丁度、この頃インドに侵入した印欧語族のアーリア人に追われたヒクソス(セム語族)がエジプト(第二中間期・14王朝の時代)に侵入してヒクソス王朝を開いておりました。

しかし、このバビロニア王国もBC1595に小アジア地方から勢力を伸ばしてきた インド・ヨーロッパ語族のヒッタイトに滅ばされ、更に同じ印欧語族のカッシートがバビロニア、ミタンニがメソポタニア北部を支配しながら抗争を繰り返しておりましたが、前8世紀から前7世紀にかけてエジプトう含むオリエント全域をセム語族のアッシリア帝国が統一しました。ところが、あまりに過酷な圧政を行ったため各地で反乱が頻発し、首都ニネヴェはBC609に滅亡してしまいました。

アッシリア滅亡後、オリエントには、メソポタミアからシリアにかけてのいわゆる「肥沃な三日月地帯」を中心に建国した新バビロニア王国(カルデア王国)、小アジアに建国したリディア王国、イラン高原を中心にできたメディア王国そして、エジプト(第26王朝)の4ケ王国に分立されます。しかし、ここで同じ民族系統に属するメディアに服属してイラン高原西南部に定住していた印欧語族のバサルカダイ部族の王アケメネスが前7世紀はじめに頭角を現してアケメネス朝ペルシャ帝国を建設し、キュロス2世(位559〜530B.C.)の頃、メディアに反旗を翻して征服し、更にリディア、新バビロニアを次々と征服し、更にキュロス2世の子カンピュセス2世が父が果たせなかったがジプトを征服して27王朝を開いてファラオになり、世界史上希にみる大帝国の基礎を築きました。

エジプトを征服したカンビュセス2世は、行きがけの駄賃とばかりにエジプトの南隣のエチオピアまで 手に入れようと考えたのが、実は彼の命取りになってしまいました。まずはスパイを派遣して敵情視察すべく親善大使を装った一団に贈物を持たせてエチオピアに派遣したのですが、エチオピア人に散々馬鹿にされて逃げ帰ってきたため、カンビュセス2世は怒り狂って本気でエチオピア征服をすべく自ら大軍を率いて進軍したのですが、頭に血が上って常軌を失ったため殆ど糧食の準備をしなかったため瞬く間に糧食は尽き、軍需品輸送用の家畜まで殺して食べる有様になってしまいました。

ここで引き返せばよかったのですが、強引に行軍を続けさせたため家畜も殺し尽くし、道草で飢えをしのいで砂漠地帯にさしかかると、10人一組で籤を引き、当たった者を殺してその肉を食べると言う、「カンビュセスの籤」が行われるに至って漸くカンビュセス2世は諦め退却してしまいました。更に嫉妬心の強いカンビュセス2世は聡明で人望の厚かった弟のバルディアを本国のペルシャに帰させた後に弟が謀反を起こす夢を見て刺客を送って殺してしまいました。

実は、その頃本国のペルシャで留守を任せていたメディア人マゴス僧のガウマタが実弟がカンビュセス2世の弟のバルディアにそっくりで同名だったのを利用して謀反を企てます。カンビュセス2世が実弟を暗殺したことは秘密にされていたのでガウマタは勿論、周囲の人たちもンビュセス2世の実弟が生きていると信じていた上、エチオピア遠征の失敗で人望が落ちていることもあってこの企ては一応成功します。

この謀反の知らせを聞いたカンビュセス2世は烈火のごとく怒り、一刻も早く本国に戻ろうと馬に飛び乗った際に 彼の剣の鞘がはずれて刃が腿に刺ささってしまいこの傷が元でカンビュセス2世は20日ほど後には死の床 についてしまいました。死に瀕した彼は信頼できる臣下を集めて実弟を間違って殺害した事実を告げ、マゴス僧達を倒し再び権力をペルシャ人の手に取り戻すように後事を託して亡くなりました。

この結果謀反は成功したかに思えたのですが、カンビュセス2世の臣下だった7人の侍たちがこの謀反に立ち向かい、マゴス僧たちを一人残らず殺して謀反を防ぐことに成功しました。実はこの7人の侍の中に、ダレイオスと言う名のファルス地方の総督の息子がおりました。当時まだ28歳の槍持ちの身分で血筋はキュロスと同じくアケメネス家の傍系の出身でした。

このダレイオスが結局、カンビュセス2世の後を継いでペルシャ国王になり、ダレイオス1世大王として、アジア、ヨーロッパ、アフリカに跨る世界史上最大の規模を誇るペルシャ帝国を築き、エジプトにその後120年続くダレイオス朝(27王朝)を開祖したのです。こうして、アケメネス朝は危うくカンビュセス2世の失態で滅亡寸前でこの有能なダレイオス1世によって復権して、アレキサンダー大王に滅ばされるまでの200年間、ペルシャ帝国としてオリエントに君臨し続けたのでした。
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