エジプト古代史を変えた男性たち(8)
(エジプト人として最後のファラオのネクタネボ2世)

このネクタネボ2世を敢えてエジプト古代史を変えたファラオ10傑に選んだのは、彼が優れていたとか、立派な業績をあげたとか言った建設的な意味ではなく、単に彼がエジプト人最後の王朝の最期のファラオだったと言う消極的な意味でしかありません。むしろ、ファラオとしては凡庸で、それが故に自分の手で連綿と3000年以上続いてきたエジプト人による古代エジプト王国の幕を閉じてしまったと言えると思います。

アケメネス王朝ペルシャ王のカンピュセス2世がエジプトを征服して26王朝を開いたことは2月23日の日記で述べましたが、本国で謀反が起こったため急遽帰国する途中無念の死を遂げ、その跡を継いだ後のペルシャ大王ダレイオス1世の非凡な能力により、エジプトはアケメネス王朝の支配をその後120年間に渡って受けることになりました。

ペルシャ帝国にとってエジプトは属領の一部でしかなく、歴代のペルシャ王はエジプト王を兼ねていましたが、エジプトがアジア、ヨーロッパを結ぶルートから離れ地理的にさほど重要な戦略拠点ではなかったこともあって、ペルシャ王がエジプトに常駐するほど全力を傾注したとは思われません。

かって、ヒクソス、アッシリア等、エジプトを征服した異民族にも同様の事情がありエジプト支配の時代は長続きしなかったことを考えると、このダレイオス王朝による120年に及ぶ支配は異例の長さで、エジプト人勢力の抵抗力が低下したか、ダレイオス王朝側の政策がよかったかのいずれかですが私は前者だと考えております。

しかし流石の大帝国ペルシャも、アルタクセルクセス2世の頃、コリント戦争などによりその支配力は低下し、エジプトに手を回す余裕が無くなってきた間隙を26王朝の末裔と思われるサイス出身のアミルタイオスの反撃により27王朝は崩壊し、28王朝がアミルタイオスによって開かれました。しかしこの王朝は、サイスの隣メンデスに新王都を建設したネフェリテスに倒されて、僅か4年で幕を閉ネフェリテスが29王朝を開きました。

この頃、ペルシャは各地で内乱が起こりその鎮圧でエジプトまで手が回らず、28、29王朝を倒す余裕はありませんでした。この29王朝も2代目プサムティス王が暗殺され、暗殺者のハコリス王も周囲から正当性を疑われて短命に終わり、ネフェリテス2世が即位しますが暗殺され、デルタ地帯のセベンニトス出身の将軍、ネクタネボ1世が30王朝を開きました。彼もペルシアの侵入に備えて約20数万の外人部隊を率いて侵入したペルシア軍に一時は敗北したもののメンデス近郊の激戦で盛り返して撃退し一時期的にしてもエジプトに平穏を取り戻しました。

このように、30王朝はやや余裕が出来たこともあって、各地で神殿の建設や修復を行っております。中でも「ナイルの真珠」と称されるほど美しい景観の島だったフィエラ島のイシス神殿はネクタネボ1世、ナイル川中州のエレファンティネ島内にあるクヌム神殿はその息子のネクタネボ2世によって建設されております。

しかし、ネクタネボ1世の息子のネクタネボ2世の時代になると、ペルシャ帝国はマケドニアのアレキサンダー大王に押されて窮地にたち、これまで軽視していたエジプトに活路を求めて侵攻してきたためネクタネボ2世としては抗すべくもなく、メンフィス、ヌビアのナパタと敗走を重ねてエチオピアまで逃げ延びそこで消息を絶ち、ここに30王朝は開祖後僅か40年のBC343年に崩壊し、同時にナルメル王以来、3000年間に及んだ古代エジプト王国の最期のエジプト人ファラオとなり、エジプト人による古代エジプト王国は幕を閉じました。

こうしてエジプトを征服したペルシャ王、アルタクセルクセス3世が31王朝を開祖して5年後に暗殺され、アルセス王の後を継いだダレイオス3世は、BC333年に精鋭を集め、シリアへの入り口にあたるイッソスでアレキサンダー大王率いるギリシャ軍を迎え撃ちましたが敗退しダレイオス3世は負傷してペルシア帝国東北部のバクトリアに逃れました。しかしこの地の地方長官によって殺害され、BC330年、31王朝は僅か10年で幕を閉じ、同時に アケメネス朝ペルシャ帝国も崩壊し、エジプトを含むオリエントはアレキサンダー大王による大帝国によって統一されていきました。 この時、アレクサンダー大王はダレイオス3世の死を悼み、彼の母や妃を手厚く保護した上、ペルシア王に相応しい葬儀を執り行い更にダレイオス3世を殺害した地方長官を捕らえて八つ裂きにして仇を討ったと伝えられております。       

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