エジプト古代史を変えた男性たち(9)
(最期の王朝を開いたプトレマイオス1世)

先回述べましたように、エジプト人王朝最期の30王朝を倒した、31王朝のペルシャ王もアレキサンダー大王に破れ僅か40年で幕を閉じ、大王はBC332年にエジプトに凱旋し、マケドニア王朝を開祖しました。再びの異民族王朝にも関わらずエジプトの人たちは大王を解放者として大歓迎し正規のエジプトのファラオとして認めたのでした。

大王が、エジプトの地中海寄りのシーワオアシスにあるアンモン神殿へファラオとして神託を授かりに訪れた際に通りかかったのが現在のエジプト第二の大都会アレキサンドリアで、当時はラホティスという名の小さな漁村だったのですが、大王は戦略的に絶好の立地条件と考えて街作りを始めめました。

一方、大王はエジプトのことは身内に任せて、バビロンを新帝国の首都に定めてアラビア遠征の出発を間近にしたBC323年マラリアと推定される熱病に罹り闘病11日目にして32才の若さで世を去りました。大王の急死により帝国はその跡目を巡って大混乱に陥り、部将達はそれぞれに我こそ後継者と名乗りあげ勢力争いが始まり、この争いに巻き込まれた大王の王家の人々は全員暗殺され、結局BC301年のイプソスの戦いの結果、帝国は次の4王国に分割されて落ち着きました。

・インダス川から小アジア東部を支配するセレウコス朝シリア
・小アジア西部からトラキアを支配するリシマコス朝
・エジプトからシリア南部を支配するプトレマイオス朝エジプト
・ギリシア北部を支配するカッサンドロス朝マケドニア

大王と同郷で幼馴染のマケドニア貴族のラゴス将軍の息子で大王の信頼の厚かったプトレマイオス1世(前367頃〜前283)は大王の死後、エジプトに赴き大王が任命した総督を追い払いエジプトを支配下におさめ、更にキプロス島も手中にしました。ところが、BC306年にキプロス島を攻撃してきたデメトリオス艦隊との海戦で壊滅的な打撃を受けて惨敗し、残ったわずか8隻の軍艦とともにアレキサンドリアに逃げ帰ります。

しかしその後、後継者争いが一段落してプトレマイオス1世はエジプトの王となり、キプロス島を再占領して東地中海の制海権を獲得します。これによってエジプト王国はヘレニズム帝国中最大の富を誇る強国になりました。 BC304年には、ファラオを名乗ってプトレマイオス朝(BC304〜BC30)を開祖し、以後東地中海に領土を広め、大王の意志を受け継いでアレクサンドリアの街づくりを押し進め王朝の基礎を築きました。こうして、プトレマイオス朝エジプトは、ヘレニズム諸国の中でもっとも繁栄し、その首都アレクサンドリアはヘレニズム時代を通してもっとも繁栄した都市となりました。

そして大王が好きだったこのラホティスと言う街は彼の名前に因んでアレキサンドリアと名付けられプトレマイオス朝の中心都市として栄え、古代世界七不思議の一つであるファロス島の大灯台、古代世界の三大図書館の一つであるアレキサンドリア図書館は有名です。アレキサンダー大王の遺体はをプトレマイオス1世がマケドニアに運ばれる途中のダマスクスで略奪しアレキサンドリアの何処かに手厚く埋葬したと言われ現在でも考古学者達が懸命に探しております。発見されたら今世紀最大の発見になると現地ガイドさんが興奮して話していました。

プトレマイオス1世はアレキサンダー大王の後継者として優位にたち、パレスチナと下シリアをも得て繁栄し、30王朝の最後の王ネクタネボ2世の娘と結婚しましたが、エウリディーチェと結婚すると追放し、エウリディーチェの侍女ベレニケ1世、太守アルタバゾスの娘のアルタカマとも結婚し、ベレニケ1世との間に生まれた子供がプトレマイオス2世として跡目相続しております。

プトレマイオス1世から3世までの治世は、国王が行政の頂点に君臨して、マケドニア人が、ギリシア人を地方行政官として派遣するという行政機構が整備され、厳格な土地政策のもとで、租税として納められた穀物が国庫を潤しました。特にエジプト産の小麦は安価なため、量に輸出され、首都アレクサンドリアは交易や文化の中心として栄華を極めました。 しかし、プトレマイオス4世の代に至って徐々に衰退の一途を辿っていくことは、この「エジプトト古代史を変えた男性達」シリーズ最終編(10)で触れたいと思います。

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