藤枝東高物語(11)
山口氏の殿堂入りを祝す (該当日記無し)
藤枝東高物語(12)
静岡トリオのこと(1)(2007年11月30日の日記から))


表彰式での山口芳忠氏(右から3人目、中央は高円宮妃殿下)

日本サッカー協会(JFA)は、2002 FIFAワールドカップを記念して、 日本のサッカーに多大な貢献を果たした功労者を選出し東京都文京区にあるJFAハウス内にある日本サッカーミュージアムでレリーフを展示(殿堂入り)して栄誉を称える制度を2005年に創設し、過去3回に渡って37名が選出され殿堂入りを果たしております。その第4回目の功労者5名の発表が昨年8月10日行なわれ、その中に母校後輩の山口芳忠氏の名前が有りました。母校OBが日本のサッカー殿堂入りするのは、初めてのことですので、ここで取り上げて記録に留めておきたいと思います。

サッカー王国静岡から殿堂入りしたのは、杉山隆一氏(清水東出身)に次いで、山口芳忠氏が二人目で、42名のうち東京、兵庫、広島、神奈川でその殆どが占められおります。静岡県出身者には藤枝東OBで、ベルリン五輪で優勝候補のスウェーデン戦で相手GKの股下を抜く逆転ゴールを決め「ベルリンの奇跡」と謳われる歴史的快挙を演出した故松永行氏、その弟で第一回アジア大会で活躍した松永碩氏、同じくその弟で日本代表として日本初のW杯に挑んだ1954年の韓国との第2戦に出場した故松永信夫、更にはベルリン五輪でFWコンビとして活躍された浜松市出身の加茂兄弟の兄で元日本代表監督の加茂健氏、藤枝東の黄金時代を築き独特のサッカー理論を展開した故長池実氏など日本のサカー発展に貢献した方々が多く居られるのに殿堂入りしていないのは不思議に思われます。

多分、その理由は選考基準に、特別選考を除き、「満60歳以上(選考時)の者、ただし物故者はこれに含まない」の項目が有るのと、投票者の大半を占めるメディア関係者が東京に偏在しているからと思われます。加茂氏は今後選考される可能性は残されていると思いますが、故松永行氏と故長池実氏は特別選考で殿堂入りされることを切に希望するものです。 殿堂入りされた山口芳忠氏には、国立での決勝戦観戦の折、入場券が売り切れて途方にくれていた同行の友人に特別に入場券を手配して頂くなどお世話になりました。彼の選考理由については、JFAから公式のメッセージが発行されておりますので下記にそのまま転載させて頂きました。

若かりし頃の山口芳忠氏
山口芳忠
1944年9月28日、静岡県生まれ

県立藤枝東高校、中央大学を経て、日立入り。 高校時代にユース代表候補に選出され、1962年第4回、1963年第5回アジアユース大会に出場。中央大学では主将として1966年度関東大学リーグ優勝。
大学在学中に本格的にFWからBKに転向し、1964年日本代表入り。

東京オリンピック・ガーナ戦で代表初キャップを獲得し、堅実な守備とタイトで激しいマーク、正確な技術を持ち味としたBKとして活躍。
1964年東京、1968年メキシコ両オリンピックに出場し、左FBとしてチームの躍進を支えた。メキシコオリンピック・フランス戦では、DFナネカンを抑え、オリンピック初のベスト4進出の力となり、銅メダル獲得に貢献した。 アジア競技大会(1966年第5回大会では3位)、FIFAワールドカップメキシコ、西ドイツ両大会予選、ミュンヘンオリンピック予選などに出場し、1974年まで日本代表として活躍。Aマッチ出場49試合。 JSL(日立)では121試合出場、15得点(1967〜75年)。1972年度JSL1部優勝、1972年度、75年度天皇杯全日本選手権優勝。1974年度主将。
年間優秀11人賞7回連続受賞(1968〜74年)。

日本ジュニア代表、ユニバーシアード日本代表、日本代表B等の監督をつとめ、1988年、日本代表Bチームを率いてマラハリムカップ優勝。1989年バルセロナオリンピックを目指すチームの監督に就任し、アジア最終予選に進出した。 柏レイソルでは、1993年度監督。その後育成部門の責任者として、ユースの育成に尽力。2000年には中央大学の監督に就任し、2005年まで指揮を執った。

韓国遠征時のFW武田とDF中山(ともに高校3年の17歳)

中山選手は藤枝市に隣接する岡部町の岡部中学、三浦選手は静岡市の城内中学、武田選手は浜松市の丸塚中学の出身で小・中学生の頃からサッカー選手として知られておりました。そして、1982年(昭和57年)に、中山選手は藤枝東、三浦選手は静岡学園、武田選手は清水東と夫々静岡県のサッカー名門校に入学しましたが、この時点では武田選手の知名度が高く、中山、三浦両選手はさほどでもありませんでした。

ただ、三浦選手は中学時代、進学志望校を問われて「ブラジル」と書いて先生から叱られたエピソードが残っているほどに、ブラジルに行ってサッカーをすることに憧れておりましたので、取りあえずは自宅から通えるサッカー名門校の静岡学園に入学しましたが、ブラジルへの思いが熱く1年で退学し、単身でブラジルに渡ってしまいましたので、高校生としての花形トリオは残念ながら実現しませんでした。

従って、1982年(昭和57年)から1985年にかけて、中山・武田の両選手が静岡県の高校サッカー界の花形選手として県内に留まらず全国にその名を知られるほどの大活躍をすることになりました。中でも武田選手は小学1年からサッカーを始め、中学3年で16歳以下の全日本代表になり、1981年に全国準優勝、翌1982年に全国優勝の黄金時代の清水東高入学の1983年に一年生ながら彼の活躍で全国準優勝するなどして、ライバル中山選手を大きくリードしておりました。

一方、中山選手は小学4年からサッカーを始め、小学6年で県大会優秀選手、地域リーグ優勝し、岡部中学3年の時、東海選抜で全国優勝を経験したものの地区大会で予選敗退したのを契機にコーラス部を掛け持ちしテナーを担当して東日本大会で優秀校になるなどサッカー以外でも活躍しております。藤枝東には一般入試で進学し、同級生にスピッツのリーダー田村明浩、2学年上に俳優の別所哲也が在籍しており、このあたりの事情は今年、名古屋で開催された母校の同窓会で田村明浩君の友人からも聞きました。

藤枝東2年生選手の時、全国大会に出場して憧れの国立の舞台で準決勝島原商にPK戦で敗退したものの、4試合とも無失点を記録し、彼自身もベストイレブン、大会得点王(5点)に輝くなどして、漸くライバル武田選手と肩を並べられるようになりました。しかし、FWとしては武田選手の方が上との見方から県選抜チームでは武田選手が主将・FWを務め、中山選手がDFにまわり鳥取国体で優勝して韓国遠征しておりますので、武田選手の方が一枚上でした。上の写真は、静岡第一テレビの映像から画像に修正した韓国遠征の際の武田・中山両選手のスナップです。武田選手はこの縁なのか、一時、静岡第一テレビに籍を置いたことが有りました。

一方、三浦選手は1982年にブラジルに単身渡航しCAジュベントス留学を皮切りにブラジルを渡り歩き、1985年に静岡放送主催の国際親善試合のSBSカップ・国際ユースサッカートーナメントにキンゼ・デ・ジャウーの一員として静岡に凱旋し静岡高校選抜と対戦し、選抜チームの武田、中山両選手と再会したのでした。そして、翌1986年、武田選手は読売クラブに入団、中山選手は筑波大に進学、三浦選手はサントスFC(カンピオナート・ブラジレイロ=ブラジル全国選手権の古豪)とプロ契約を果たすなど、夫々の道を歩んでいったのでした。

そして、この3人の静岡県出身の選手は、ゴン(中山選手)、カズ(三浦選手)、ノブ(武田選手)と愛称されるトリオと呼ばれるようになり、それから8年後の1994年にW杯アジア予選に日本代表として参加することで再会を果たし、勝てば日本初のW杯出場が決まる最終戦のイラク戦が行われるドーハのアル・アリスタジアムのピッチに夫々に思いを秘めて立ったのでした。カズの先制点、同点にされた1:1の後のゴンの勝ち越し点で、ロスタイムに突入し歓喜の瞬間を迎えようとしておりました。しかし、ノブのサッカー人生の中で忘れることの出来ないプレーがその数十秒後に起るとは・・・・・。 今日は、ここまでにし、次回(2)でその続きを取り上げたいと思います。


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