藤枝東高物語(5)
ゴンの150得点達成を祝す (2005年5月1日の日記より)
藤枝東高物語(6)
長谷部のA代表初アシストを祝す (2006年2月22日の日記より)


150得点目のゴールを決めたゴン

一昨日の清原選手の500号ホームランに続いて、今日の磐田対柏戦で磐田の中山選手がJリーグ史上初の通算150得点の大記録を達成しましした。初ゴールは94年のヴ川崎(現東京ヴ)戦で、98年に36ゴール、00年には20ゴールで得点王、98年には年間最優秀選手賞を獲得、ベストイレブンにも4度選出され、98年前期には、セ大阪戦で1試合最多得点タイ記録となる5ゴールを決めるなど4試合連続でハットトリック(1試合3得点以上)を達成し、世界サッカー史上初の記録として99年にギネスブックに登録されました。また、国際AマッチにW杯の98年フランス、02年日韓大会など53試合に出場し、歴代6位の通算21点をマークしております。

清原選手の記録とどちらが凄いかは言わずもがなと思いますので敢えて触れるのは控えて、ここでは記録以外のことで比較してみたいと思います。両選手にはある共通点が有るように思います。まず、最初の共通点は37歳の同年齢です。清原選手は1967年8月18日 、中山選手は1967年9月23日のそれぞれの生まれですから1ケ月ほど清原選手が早く生まれております。

第二の共通点は怪我との戦いです。清原選手は背筋痛、中山選手は腰痛とそれぞれの持病との戦いで、ここ数年は満足に出場できず、出場できても清原選手は代打、中山選手は後半の途中からの出場が精一杯でした。サッカーは野球と違って試合中はフルに走り回るのですから野球とはくらべものにならないほど運動量が多いことを考えると、FWとし出場して得点するのは本当に凄いことだと思います。

第三の共通点は、夫人がタレント出身の美女と言うことです。清原夫人は、1985年に柴田くに子、工藤静香とともに3人で結成された「ミス・セブンティーン」で芸能界入りした木村亜希さん(36)、中山夫人は映画女優出身の生田智子さん(38) で、人も羨む美女です。

共通点は以上で、いずれも本質的なことでは有りません。大きな違いは清原選手は日本を背負ってプレーしたことはありませんが、中山選手はジュビロ磐田と言うよりも、W杯などの国際大会で日本を背負ってプレーしていたと言う印象があります。中山選手は、高校時代から現在に至る選手生活の中で思い出に残る試合を三つ訊ねられたら、間違いなく次の3試合を挙げることと思います。

・1984年度高校選手権準決勝で島原商にPK負けた試合:
・1993年W杯予選でイラクと引分けたドーハの悲劇の試合:
・1998年W杯予選でイランに勝ったジョホールパルの歓喜の試合

1984年度の高校選手権の静岡県大会で、2年生の中山選手を擁する藤枝東は全国レベルの強豪東海大一高を破って代表校となり、無失点のまま勝ち進んで島原商と準決勝と対戦し、0:0のままPK戦に臨み2:4で破れ、その結果、中山選手が高校選手権の全国の桧舞台でプレーする機会は二度と有りませんでした。それだけに中山選手としては無念だったことと思います。

ドーハの悲劇は、特に彼にとって生涯忘れることのできない試合だったと思います。実はこの試合の主役を演じた3人の日本代表選手はいずれも、静岡県出身の同期生で、夫々の母校は常に全国大会で勝つより難しいと言われた静岡県代表を目指して死闘を演じていました。その3人とは藤枝東の中山雅史(ゴン)、清水東の武田修宏(ノブ)、静岡学園の三浦知良(カズ)の3選手でした。この3人は中学時代からその素質が注目され、高校入学した時点で高校三羽烏とうたわれたのですが、カズが退学してブラジルに渡ってからはゴン、ノブが当時の静岡県の高校サッカーを背負ってお互いに闘志をむき出しにしておりました。

この試合、日本は前半にカズの先制点でリードしたものの前半終了間際に追いつかれたが、ゴンの勝越し点で2-1と日本が再びリードして迎えた後半ロスタイム、ノブの痛恨のパスミスでピンチを招いてCKを許した揚句に意表をつかれてイラクに同点ゴールされ、W杯本大会初出場を逃してしまったのでした。もし、そのまま勝っていたら中山選手は日本のMVPとして更に輝いていたと思われるだけに悲しくも残念な試合でした。

1998年、マレーシアのジョホールバルで行われたW杯最終予選のイラン戦では、カズとノブの姿はピッチにはありませんでしたが、元気に走り回るゴンの姿がありました。前半の中山選手の先制ゴールで喜んだのも束の間、後半にイランの猛攻により2失点、ドーハの悲劇がちらつくような いやなムードがスタンドを包みましたが、後半14分城が同点のヘディングシュートでVゴール方式の延長戦に突入しました。

この時点で既に中山選手の姿はピッチ上には有りませんでしたが、岡田監督の采配で投入された野人岡野の決勝ゴールで夢のW杯初出場を決めた時、岡田監督とともに諸手を上げて喜ぶ中山選手の姿が画面に踊っておりました。彼にとって人生で最も嬉しかった瞬間だったと思います。そして、試合終了後に記者から母校の藤枝東が高校選手権静岡県大会で優勝したことを聞かされ声を出して喜んだと報じられておりますのでこの日はまさに彼にとっては人生最良の日だったように思います。ゴンはピッチにいるだけで存在感があり、他のイレブンにゴールへの集中力を高めてくれます。中山選手には、誰も経験したことのない40台Jリーガーを目指して今後とも頑張って欲しいものです。


藤枝東高時代の長谷部選手

これまで、AFC(アジアサッカー連盟)により4年に一度、オリンピックの年にAFCアジアカップ大会が開催されておりました。前回は中国の主催で行なわれ、日本が中国側サポーターの激しいブーイングや妨害行為を受け苦戦しながらも連覇したことはまだ記憶に新しいところです。ところが、オリンピックの年に同時開催するとオリンピックに関心が移って盛り上がりに欠けるのではとの思惑から、今年から1年前倒してオリンピックの前年に開催するように変更されました。

その結果、次のAFCアジアカップ大会は、北京オリンピックの前年の2007年の7月7日から29日にかけて、インドネシア、マレーシア、タイ、ベトナムの4カ国共同で開催されることになり、優勝国にはコンフェデレーションズカップの出場権が与えられます。この本大会の最終予選が24ケ国が6組に分かれ今年の2/22から来年の1/15にかけて争われ、各組の上位2ケ国が本大会に出場します。

日本は、インド、イエメン、サウジアラビアとともにA組に属して最終予選を戦うことになっております。順当にいけばW杯出場国の日本とサウジアラビアが上位2位を確保して予選通過するものと思われますが、その第1回戦が今夜、日産スタジアム(旧横浜国際総合競技場:昨年3月1日より5年間、日産自動車が横浜市にネーミングライツ取得料として1.47億円を支払ってこの名前を使用中)でインド代表との間で行なわれ、日本代表が6-0で快勝しました。

FIFAランク15の日本に対して127のインドでは本来なら勝負にならないはずなのに、前半32分まで0:0、インドが善戦しているというよりも日本の凡戦が目立つ試合展開でした。特にDFラインに日本代表らしからぬパスミスが多く見られたのは残念でした。前半は中沢から加地、中沢から三都主のパスミス、後半ロスタイムだけで宮本から三都主、小笠原から巻、中沢から加地へのイージーなパスミスはW杯では許されないだけに気になりました。

前半32分、相手DFが頭でクリアしようとしたボールが自陣ゴールの上に舞上がって自陣ゴール前に落ちたボールを 小野が倒れこみながら押し込んで先制ゴールをあげました。どちらかと言えばオウンゴールに近いゴールでは有りましたが、何はともあれジーコにとっての100点目はこうしてもたらされました。練習相手にもなりそうもないインドを相手に前半で1点しか取れなかったこの試合内容は今後の反省課題とすべきでしょう。

後半は極端に運動量が落ちたインドから5点を、巻(後13分) 、福西(23分)、久保(34分)、佐藤(38分)、久保(48分)が次々にゴールしましたが、そのきっかけとなったのは巻のゴールでした。記録上は巻のゴールとなっておりますが、実際にゴールしたのは代表初スタメンの長谷部でした。たまたま、巻のお腹に触ってゴールしたためルール上巻のゴールになっただけのことで、巻にはタナボタ、長谷部にとっては悔しいゴールでした。

彼は昨年末に日本代表に選ばれて以来、天皇杯決勝戦で大活躍し目下売り出し中の若手選手で、ドリブル突破が最大の持ち味ですが、この日は左サイドの攻撃的MFでありながら、ある時は右サイド、ある時はFWそしてある時はDFと縦横無尽に移動して後半の得点に何らかの形で絡むことが多かったように思いました。ジーコ監督も彼を高く評価しておりますが、果たしてW杯出場メンバーに選ばれるでしょうか。




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