藤枝東高物語(89) 後輩、長谷部の功績に思うこと2011年02月11日の日記から |
藤枝東高物語(90) 3連勝で予選リーグ突破2011年02月12日の日記から |
成田空港で祝福の花束を受けるザッケローニ・日本代表監督(TVニュースより) |
校 名 | 校旗 | 勝点 | 勝数 | 分数 | 負数 | 点差 | 昨年度新人大会 決勝T成績 |
清 水 商 | 9 | 3 | 0 | 0 | +19 | ベスト8 | |
藤 枝 東 | 9 | 3 | 0 | 0 | +16 | ベスト8 | |
清 水 東 | 9 | 3 | 0 | 0 | +15 | 1回戦敗退 | |
磐 田 東 | 7 | 2 | 1 | 0 | +9 | ベスト4 | |
常 葉 橘 | 7 | 2 | 1 | 0 | +7 | ベスト8 | |
静 岡 北 | 7 | 2 | 1 | 0 | +6 | ベスト4 | |
伊豆総合 | 7 | 2 | 1 | 0 | +4 | 予選敗退 | |
藤枝明誠 | 6 | 2 | 0 | 0 | +5 | 準優勝 |
アジアカップで感動の優勝を果たした日本代表は成田と関空に別れて帰国、熱烈な歓迎を受けましたがテレビで観る限りやや盛り上げりに欠けていたように思われました。その理由は、本田、長友、川島、長谷部等の欧州組と怪我で療養中の香川が居なかったことに尽きるようです。従ってザッケローニ監督の記者会見が凱旋帰国の総括となりました。 |
成田空港で記者会見するザッケローニ・日本代表監督(TVニュースより) |
記者会見の内容は、このとおりでしたが、嬉しかったのは昨日の日記でも触れましたように、ザッケローニ監督が私の高校後輩の長谷部選手のことを、チームを一体にしたことなどから本大会のMVPに匹敵すると称賛したことでした。そこで、今日はアジアカップを中心に彼について特集してみたいと思います。 彼がどちらかと言えばあまり陽の当らない道を歩んできたことは意外と知られておりません。藤枝東時代は県選抜には選ばれたものの、1年下の成岡(現磐田)、大井(現磐田)のように日本代表に選ばれることもないまま、プロからオファーもないまま、たまたま県選抜の彼のプレーを見た浦和のスカウトの誘いに乗って入団したものの日本代表クラスひしめく浦和では出場機会に恵まれませんでした。 漸く2003年にレギュラーの座を確保し、日本ユース代表に選ばれたものの、代表には徳永悠平、6今野泰幸、林大悟、谷澤達也、茂木弘人、成岡 翔等の錚々たるMF陣が居り大熊清監督が長谷部を控えとする方針を示したことから球団の勧めもあって代表辞退しております。この年はJ1ベストイレブンに選ばれるなどチームでは不動のボランチに成長したのに全国的な知名度は低く、2005年に初めてジーコ監督のもとで日本代表に選ばれたのも、故障した今野泰幸の代役でしかなく2006年ドイツW杯メンバーには選ばれませんでした。 そして2007年、オシム監督に日本代表に選ばれ、数試合に出場しましたが間もなく代表から外されてしまいました。その理由は、彼のボランチ、ドリブル突破力等の技量は評価できるもののフィジカルに面に欠けることが判ったからとのことでした。このように、日本代表に近づいても直ぐに遠のいていく繰り返しで、なかなか陽の当る道に出ることができませんでした。(註:そのオシム元監督は最近の長谷部について、フィジカルにも強くなり今ではトップ下もこなせるボランチと絶賛しております) そこで彼は、2008年1月に浦和からドイツ・ブンデスリーガのウォルフスブルクに移籍、同年4月27日のアウェーのレヴァークーゼン戦でブンデスリーガ初ゴールを記録したのを契機にMFのレギュラーを獲得し、翌2009年の最終戦のブレーメン戦で相手ボールを奪ってゴール前に送ったパスを、新司令塔のミシモビッチが先制ゴールしたのをきっかけに勝利するなど、ウォルフスブルクのリーグ初優勝に大きく貢献したのでした。 ブンデスリーガには、欧州でも特に大柄で屈強な選手が多く、球際の激しい競り合いに揉まれていくうちに長谷部は逞しくなり、体重も増加し、かってのフィジカル面の弱さは逆に強さに進展しておりました。この点を見抜いた岡田監督に日本代表に迎えられ、左サイドの遠藤とのコンビで岡田監督の期待に応え、押しも押されぬ日本屈指のボランチとして活躍するようになり、漸く陽の当る道に出ることができました。 2010年W杯杯前哨戦のセルビア戦、韓国戦を続けて完敗した岡田ジャパンに対する風当たりが強くなり、チーム内にも不協和音が漂い始め危機感を感じた岡田監督は、本田を中心に若手とベテランを融合させて戦う路線に切り替えることで危機を乗り越える決心をしました。そのために岡田監督はベテランと若手の緩衝役が務められるキャプテンの必要性を感じました。 そんな岡田監督に、年上の中村に批判されても、年下の長友に苛められても動ぜず、練習などで率先して先頭に立つ、それでいてブンデスリーガ優勝チームの堂々たるレギュラーの長谷部の姿が過りました。本田や長友等若手と仲がよく、チームキャプテンの川口も一目置く長谷部ならベテランと若手の緩衝役が務められるのではと思ったからでした。 W杯前哨戦、イングランド戦の前に岡田監督からこのことを伝えられて長谷部は驚いて言葉をを失ったと言われます。それでも、その理由を尋ねたところ「ズルズルと今までの流れを引きずるわけにはいかない。ここで流れを変えるためには、お前がチームを引っ張っていくことが必要だ、中堅どころでチームを引っ張り、チームメートも信頼しているお前ならできる・・・。」と答えたとのことです。 このイングランド戦で、結果は1:2の敗戦で最高ではなかったものの悪い流れが断ち切れたとの感触を岡田監督は得たようでした。そして、1:2で負けはしましたが、W杯最後の前哨戦になった次のカメルーン戦で長谷部の腕にはキャプテンマークが巻かれておりました。試合を重ねるごとに増すピッチ上の存在感に加え、明るく声を出し、誰とでもオープンマインドで話せる彼の人間性を、中沢、闘莉王、遠藤、松井、大久保、阿部等の先輩レギュラーたちも理解し、新しいタイプのリーダーとして認めていくようになりました。 長谷部がこの大役を受け入れたのは、岡田監督の考えに同調したことは勿論ですが、融合のための緩衝役を担うことに自信が有ったのではないかと思います。当サイトの日記「長谷部選手と「ニーチェの言葉」でも触れておりますように、彼はチームの在るべき姿を心に描いていたこともあり、引き受けるからには代役ではなく主役になることを自分に言い聞かせながら強い意思をもってW杯に臨んで見事に岡田監督の期待に応えました。 ザッカローニ監督が、岡田監督と同じように長谷部を選手としてだけでなくキャプテンとして如何に重視していたかは、準々決勝のカタール戦を二日前に控えた19日の晩、ホテル近くの日本料理店で長谷部の誕生パーティーがチーム初めての外食として盛大に開かれたことで理解することが出来ます。 このパーティーには、ザッケローニ監督、コーチ、選手、スタッフのチーム全員が参加し、パーティーの最後にグイードGKコーチがイタリア語でバースデーソングを歌って全員で若きキャプテンの27歳の誕生を祝ったのでした。以下、本大会での長谷部選手について印象に残るシーンを画像で振り返ってみたいと思います。 |
ヨルダン戦で後半、中央突破して攻め上がる長谷部 (その後、後半ロスタイム、長谷部の左クロスを吉田が頭で合わて同点に) |
シリア戦で川島へレッドカードを出したトーキ主審に抗議する長谷部 (レフリーとコンタクトをとるのもキャプテンの任務のひとつで 「このシ−ンは多くの人たちが観てますよ、あなたのためにもよく考えて下さい」 と冷静に話し合い判定は覆らなかったものの後にシリア側にレッドを出す伏線に) |
カタール戦の前半34分、強烈なミドルシュートを放つ長谷部 (GKがこのシュートの勢いに押されて弾き後方に反らし日本FK獲得) |
韓国戦後半4分 大きく左足でクリアした際、左足をつって倒れた長谷部 (このクリアが無ければ危ない場面だった) |
試合開始前のオーストラリアチーム主将とのペナント交換風景 (試合前の相手チームとのペナント交換もキャプテンの大切な任務のひとつ) |
4回目のアジアカップ優勝記念の背番号17の長谷部専用のユニフォーム (KHALIFAはスタジアム名、星四つは4回目のアジアカップ優勝を表す) |
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