講座集 第8章 北朝鮮と原爆
−(2)米国で原爆製造開始−

(1)で述べたように、1930年代後半にかけて、ナチスからの迫害から逃れて米国に亡命した欧州の物理学者が中心になってウランの核分裂に関する理論が実験によって次々と実証され、原爆の原理が確立されてきましたが、まだ米国では原爆を製造しようとする動きはみられませんでした。米国が国家プロジェクトを組んで秘密裏に原爆を製造を計画したのは1942年6月の「マンハッタン計画」からでした。それには次の事情が有ったからではないかと思います。

1.アインシュタインからルーズベルト大統領に手紙が届いた
2.英国から原爆製造が可能との報告書が同大統領に届いた
3.終戦後、ソ連に先手を打って有利に展開するために原爆が必要

ナチスからの迫害を逃れて米国に亡命していた欧州の学者たちはナチスの恐ろしさを知っていただけに、もしナチスが原爆を保有したら大変なことになると考えており、特にレオ・ジラードにはその思いが強く、何とかして米国がナチスに先んじて原爆を保有してナチスの原爆保有を抑制する必要性を痛感していました。そこで、アインシュタインに米国に原爆製造を促すためにルーズベルト大統領に手紙を書くように依頼したのでした。

アインシュタインは、1933年にナチスの迫害を逃れて米国に亡命する前の1930年に米国訪問の折りに彼の 平和思想を実現するために「2%運動」を米国民に提唱して国民の熱狂的な支持を得ましたが米国政府からは冷ややかに見られており、そんな経緯もあってその手紙は次の2.のタイミングまで陽の目をみなかったものと思われます。この「2%運動」は「兵役を指名された人の2%が拒否すればその人たちを収容する刑務所のスペースがないから政府は無力化します」との反政府活動ですから無理もないことです。

アインシュタインは、1922年に訪日して大好きになった日本に原爆が投下されるのは忍びないとして、原爆の使用に反対するレオ・ジラードたちの原爆投下反対の請願書にサインしたのですが、この請願書は読まれないままルーズベルト大統領は死亡しました。

平和主義者だったアインシュタインは、兵役拒否の「2%運動」を自ら否定し、大量破壊兵器の製造に手を貸すと言う矛盾した行動を取ったことに対する批判も有り、平和主義の同志だったロマン・ロランは「・・・アインシュタインの知性は自然科学の分野では天才的であるが、それ以外ではあいまい矛盾している。」と批判しております。 また、1922年の訪日の折りにガイドを務めた雑誌「改造」の編集者の篠原正瑛氏の「・・・・偉大な科学者として、原爆製造に重要な役割を演じられたあなたは、日本国民の精神的苦痛を救う資格がある」との手紙に対して怒りのあまり常軌を逸してその手紙の裏に「人を批判するときは、よく相手のことを調べてからにすべきだ」と書いて送り返したとのことです。

ウランの核分裂により莫大なエネルギーが得られることをを最初に指摘したオットー・フリッシュはナチスからの迫害を逃れて英国に渡り、1941年にドイツから帰化していた理論物理学者のルドルフ・パイエルスとともにウランが核分裂の連鎖反応を起こす臨界量を求める計算を行い、ウラン235に高速中性子を衝突させれば、臨界量は爆弾の搭載できる程度の量で済み、臨界量以下のウラン235の球を2つの部分に分け、爆発させたい時に速やかに合体させると、1秒以内に爆発させることが出来、その威力はウラン235、5Kgでダイナマイト数千トン に匹敵するとの報告書を作成し、ここにウラン型原爆の基本原理が具体的に確立しました。

英国政府経由で送られてきたこの報告書を読んだルーズベルト大統領は直ちに最高政策集団を作って科学者たちの核兵器に関する政治的・軍事的発言権を封じておいて、機密の国家プロジェクトを作り、原爆の開発に着手しました。1941年7月のことでした。

(注)アインシュタイン関連の情報は koshiro さんのHPから引用させて頂きました。


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