講座集 第8章 北朝鮮と原爆
−(4)ウラン型原爆のデザイン−

こうして米国はウラン型原爆に必要な高濃縮ウランを確保出来ましたので、後はこれを如何に爆弾にするかが問題になりました。基本デザインは100%近い高濃縮ウランを臨界量以下に小分けしておいて、投下後に火薬の爆発により圧縮・合体させて臨界量以上にして核爆発させることでほぼ決まっていたようですが、この臨界量を計算によって見極めることが難しかったようです。

臨界量についてはオットー・フリッシュ等の計算結果から、数十キロぐらいとの見当はついておりましたので、これを正確に知る必要が有りました、しかし散々苦労して得られたウラン235は原発1発分しか無かったので実爆弾の状態で事前に実験することは出来ません。どうして、米国が爆弾に装着した状態での臨界量を知り得たかは謎のままですが、1999年10月2日付けの毎日新聞朝刊(東京版)は次のような事実が有ったと報じております。

カナダ生まれの科学者ルイス・スローチンは、2本のドライバーを使ってウラン235が詰まった二つの半球を近づけ、臨界点に達したところで引き離し、連鎖反応を中絶するテストを続けた。彼はこのことを「竜の尾っぽをくすぐる」と呼んでいましたが、ある時二つの半球がぶつかり、室内に青い光が充満し、彼は両手で半球を引き離し、連鎖反応を抑えたもののその9日後に死亡したと言うのです。このくだりは、ロベルト・ユンク著「千の太陽よりも明るく」の原爆開発のエピソードから引用されたようですが、充分有りうることと思います。

この青い光こそ、1999年9月30日に東海村のJCOで起きた臨界事故で作業員が見たのと同じで、「チェレンコフの光」と呼ばれ、中性子が水中で減速をするときに発する光で、まさに臨界を告げる光でもあります。この光をまともに見た人で生存者は皆無と言われている程に強烈な放射線に被爆されます。当時の米国でもそこまでの知識は無くかったためにこのような自殺的行為が行われたものと思われます。

こうした犠牲的行為により、正確な臨界量が知られましたが、具体的な数値は高度の国家機密になるため公表されておりません。12キロから60キロの間で伝えられておりますが、その範囲にあることは間違いないようです。 ウラン235の臨界量はその純度と中性子反射材の有無によって変わることが判っており、純度100%で反射材が有れば最小の1キロ、実用的な90%で反射材有れば18キロ、無ければ54キロ程度であることが判っているからです。

その構造が、この図のようになっていることは間違いないようです。中空の鉄製パイプの両端に臨界量の半分に相当する高濃縮ウラン235を充填し、その周囲を発生した中性子が外部に逃げないようにベリリウムやボロニウムの反射材で覆い、高性能火薬と時限起爆装置がこのパイプの端に装着され全体が砲弾型の鉄製容器に収納されると言う、極めてシンプルな構造になっております。

1944年9月に ポール・チベッツ陸軍中佐が原爆投下のための飛行隊「第五〇九混成部隊(B 29爆撃機14機、将校・下士官合わせて1767人)」の隊長に任命され、12月に編成を終え、ユタ州の砂漠にあるウェンドバー基地で訓練開始し、翌1945年5月に発進基地のテニアン島へ移動して、原爆「リトルボーイ」の到着を待っていました。

一方、同年の4月25日にスチムソン長官とグローブス少将が4カ月以内に原爆完成との報告をトルーマン大統領に行い、その通り、8月1日に「リトルボーイ」は組み立てが完了して直ちにテニアン島に空輸され、運命の 8月6日の午前8時15分17秒、広島上空570メートルで炸裂したのでした。少しでも多くの日本人の命を救うのが目的との謳い文句のもとで・・・・・。


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