90年前の日本の地中海派兵(1)
90年前の日本の地中海派兵(2)


マルタ島英国軍墓地にある駆逐艦「榊」戦没者の慰霊碑

若者たちの歴史認識の低さに驚くことが有ります。先日、あるカラオケスナックで私が、帰還することのない海上特攻の戦艦大和に乗り組んで死地に赴く我が子を思う父の悲哀をテーマにした谷村新司の名曲「群青」を唄った時、たまたま隣り合わせた若者たちにこの曲のことを尋ねられ、説明したのですがなかなか判って貰えないのです。そして、そのグループの若い女の子に「日本ってアメリカと戦争したんですか?」と尋ね返されて私は絶句しました。

飛鳥時代、日本が韓国(百済)救援を目的として韓国に出兵して韓国(新羅)、中国(唐)連合軍に惨敗(白村江の戦い)したこと、戦国時代にも日本が韓国に出兵し韓国(朝鮮)、中国(明)連合軍と交戦(文禄慶長の役)し緒戦は現在の北朝鮮まで攻め入ったものの不慣れな寒さや日本の国内事情から撤兵を余儀なくされ停戦はしたものの実質的には敗戦しております。太平洋戦争で米国など連合軍に敗戦したことも含めて、何故かその事実を知らない人が多いように思われてなりません。

ところが、日露戦争で日本がロシア(帝政ロシア)に勝ってポーツマス条約を締結して樺太を獲得したこと、日清戦争で日本が中国(清)に勝って下関条約を締結して台湾などを獲得したことなどは、意外にも知ってる方が多いように見受けられます。これは日本の歴史教科書の記述内容による影響なのでしょうか、それとも自分にとって都合の悪いことは無視したりして覚えようとしない国民性によるものでしょうか。

自国の軍隊を海外に派遣するのに、四つの語句が使われるようです。下にいくほどに、派遣が積極性、自主性を帯びていきます。尚、これらの語句の解釈は岩波の国語辞典を引用しました。

・派兵:軍隊を派遣すること
・出兵:軍隊を差し向けること
・進攻:進んで行って攻めること
・侵攻:攻め入ってその国に害をすること

日本の教科書では、このうち、「出兵」と「進攻」が主に採用され、明らかな侵略を目的としているにもかかわらず、「侵攻」を採用していないとして、中国や韓国は日本を非難しているのは周知のとおりです。確かに、上述の記事でも「白村江の戦い」は韓国(百済)からの救援要請に応じた戦いですから「出兵」でもいいと思いますが、秀吉の領土拡大の野望による文禄慶長の役は、明らかに「侵攻」を採用するのが正しいと私は思います。ただ、中国、韓国側が自国の教科書で現在の日本に対しても野蛮国を強調したり、被害を拡大表現するなどして歴史や現実を湾曲しているために素直な気持ちで歴史認識出来ない事情が日本側にあるように思います。

ところで、現在、インド洋での給油を目的とした日本の海外派兵が問題となっておりますが、日本が置かれた立場では、自衛隊の海外派遣は「派兵」以外は有り得ませんし、戦前も日本軍の「派兵」は無かったものと思っておりましたら、90年前に英国からの要請で地中海に派兵を求められ、日本政府はそれに応じて駆逐艦からなる艦隊を地中海に派遣し、多くの人命を救助し英国等連合軍の対独勝利に貢献していることを知りました。この日記ではこの件を広く知って頂くために今日を第1回として、「90年前の日本の地中海派兵」を連載していきたいと思います。私がこのことを取り上げるきっかけになった有るお話をこのサイトの記事を参照させて頂いて下記に掲載します。

4年前、日本のある23人の団体がマルタ島観光に行った時のことでした。マルタ島の北側に位置するゴゾ島に渡るためにマルタ島の港で連絡船を待っていました。夕闇せまる頃になって連絡船が来ましたが、40人乗りの連絡船に、23人以外に100人近い乗船希望者が居り、この連絡船に乗船しないと明朝まで待つしかないことから、波が高いため接岸、離岸を繰り返して安定した隙間の接岸時に争うように乗船しようとする人波で大混乱になりました。

ところが、この混乱の中で日本人23人は一人ずつ、大勢の見守る中で、ボートから手を引かれ岸の方から知らぬ人らに支えられながら全員が前後して無事に乗船できたのです。この混乱の最中に、船長がマルタ語で「このボートは、23人の日本人を優先して乗せるから、彼らが乗り終わるまで、乗らないように!」と必死に繰り返し叫んでいたことが後になって判ったのでした。

それは、90年前に英国からの要請で地中海で輸送船の護衛任務に当たった日本の駆逐艦「榊」の犠牲的行為により多くの人命が救われたことを、現在も尚マルタ島の人たちは知っていたのです。ですから、この勇敢な日本軍人の祖国から来た日本人に敬意を表するために船長はこのような行動を取り、他の乗客たちもこの行動を理解し、日本人を安全に優先させて乗船させることに協力を惜しまなかったのです。「榊」などの日本の駆逐艦の犠牲的行動で英国輸送船「トランシルバニア号」の3,000人近い乗員が救われたことから英国海軍は、マルタ島・カルカーラ英国軍墓地の一角に駆逐艦「榊」戦没者78名の名を刻んで慰霊碑を建て、現在でも地元の人たちよる供花が絶えないとのことです。


海自・江田島基地に保存されている「明石」のメインマスト

昨日の日記で、90年前の1917年に日本が日英同盟により英国から地中海派兵を要請されたことから、駆逐艦8隻からなる特務艦隊を派兵したことを掲載しましたが、その時の日本を取り巻く情勢は次のとおりでした。

・日露戦争に勝利した日本海軍の軍事力は高く評価されていた。
・その3年前に日英同盟により日本はドイツに宣戦布告していた。
・ドイツが地中海でUボートによる無制限攻撃を開始していた。
・そのため英国の生命線である地中海の制海権が侵されていた。
・英国は日本の海外派兵で英国の権益が損なわれるのを恐れていた。
・日本は見返りのない海外派兵は拒否すべきとの考えが主流だった。
・日本は海外派兵する場合、インド洋までが限界と考えていた。

1914年、日英同盟に基づき、英国はドイツの東洋艦隊を撃滅する必要から日本へ連合国側に立っての参戦を要請しておりましたが日本政府は、海外派兵で本土の防備が手薄になること、将来の対米戦争を想定した場合の海軍力の損失を恐れ、更に明治以来の親独派が主流の陸軍の意向も有って海外派兵には消極的でした。また、国内世論も何の権益も得られない海外派兵への反対の声が強く新聞紙上で激論が交わされており、参戦はしても海外派兵には消極的な態度をとっておりました。

しかし、欧州戦線での戦況が連合国側にやや不利になるにつれ、英仏伊露等、連合国の主要国から日本への海外派兵要請回数が増加し、日本が要請を拒むならその年の同10月に開催予定の連合国戦争指導会議に於いて、日本の非協力体制を非難する決議が採択することが示唆されておりました。この状況は、日本の海外派兵によるインド洋での給油活動が、英米仏伊加等から高く評価されその継続を強く要請されているのに一脈通ずるところが有るようにも思われます。

一方、日本海軍は見返りにより独領の南洋群島を獲得出来れば海軍の南進政策への布石が築かれるとして地中海派兵要請を受け入れる用意が有ることから、日本政府は1917年に、日本陸軍の欧州派兵はしない代わりに日本海軍の地中海派兵を行うことにし、その見返りに山東半島及び赤道以北の独領の南洋群島の利権を日本が獲得することを保証する内容の秘密契約を結ぶことに成功しました。

連合国が、日本陸軍の欧州派兵を断念するだけでなく、極東及び南洋のドイツ利権を日本に与えてまでも日本艦隊の地中海派兵を必要としていた状況を日本側は読み切っていたことになります。当時、西部戦線等欧州大陸での戦況は連合国側に不利でこの戦況を盛り返すには英国や新たに参戦した米国からジブラルタル海峡を経て地中海経由で兵員、武器、弾薬等を欧州大陸に補給することが絶対に必要でした。

ところが、ドイツの地中海でのUボートによる無制限攻撃によりこの補給がままならず、連合国側の輸送船が連日のように、ドイツやオーストリアの潜水艦からの魚雷攻撃で撃沈されており、何としても輸送船の対潜護衛が必要になっておりましたが、連合国側にはその余裕が無く、日本海軍に護衛を委ねるしかない状況にあったことが、日本に地中海派兵を要請する最大の理由でした。こうして、ついに日本海軍史上初となる地中海派兵が実現することになったのです。

実は英国からの海外派兵要請は地中海にとどまらず、インド洋、豪州東岸へ派兵も含まれておりました。そこで日本海軍は1917年2月7日、三つの特務艦隊の編成を行い、巡洋艦を主体とする第一特務艦隊、第三特務艦隊をそれぞれシンガポール方面、豪州東岸方面に、駆逐艦を主体とする第二特務艦隊を地中海方面に派兵することにしました。このうち、第一特務艦隊、第三特務艦隊の任務は哨戒でしたが、第二特務艦隊の任務は地中海でドイツ、オーストリアの潜水艦と戦闘を交えることを前提とする輸送船の護衛で、最も重要な任務とされておりました。

この第二特務艦隊は、二等巡洋艦「明石」を旗艦とし第10駆逐隊の二等駆逐艦「梅」「楠」「桂」「楓」及び第11駆逐隊の二等駆逐艦「杉」「柏」「松」「榊」の計8隻の駆逐艦から編成され、司令官に佐藤皐蔵少将が任ぜられました。編成の指令を受けた時、「明石」と第10駆逐隊の駆逐艦4隻はシンガポールを中心に既に哨戒任務を遂行しており、第11駆逐隊の4隻の駆逐艦は佐世保軍港にあり、指令を受けて1917年3月17日に旗艦「明石」と第10駆逐隊と合流すべく佐世保軍港を出航し3月6日、シンガポールに着きました。

一方、佐藤少将は2月19日に第一特務艦隊の巡洋艦「矢矧」に乗り込んで呉軍港を出航し3月1日にシンガポールに着いており、第11駆逐隊の4隻の駆逐艦と合流した3月6日に旗艦「明石」に座乗することで、第二特務艦隊の編成が終了し、3月11日に全ての準備を終え、アジア地域で活動する連合軍将兵の郵便物、保存食料、武器弾薬を満載して、途中、ドイツの武装商船の探索行動に参加しながら、地中海のマルタ島の英国海軍基地に向けて出航し、4月13日に同基地に到着したのでした。

日本の軍艦が戦闘を目的にして地中海に入ることは日本海軍始まって以来の快挙であり、佐藤少将以下将兵たちの士気はすこぶる高かったと当時の新聞は報じております。上の画像は、その旗艦「明石」のメインマストです。第二特務艦隊の艦船は全て廃艦、または改造後に撃沈されておりますので、このメインマストが第二特務艦隊を偲ぶ唯一の貴重な記念品と言われております。


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