90年前の日本の地中海派兵(3)
90年前の日本の地中海派兵(4)


日本の駆逐艦の救助を待つトランシルヴァニア号上の兵士たち

10月08日の日記「90年前の日本の地中海派兵(2)」で、日本が90年前に地中海に海外派兵して国際貢献を果たすべく、佐藤少将指揮のもと巡洋艦「明石」を旗艦とする8隻の駆逐艦からなる第二特務艦隊を編成してシンガポール経由で地中海・マルタ島にある英軍基地に1917年4月13日も到着したところまで掲載しました。今日から、明日にかけてその活躍ぶりを関連資料を収集の上、纏めてみたいと思います。

第二特務艦隊はここを基地として、英国地中海艦隊司令官キャルソープ中将のもとで、英仏運送船の護衛にあたることになりました。当時英仏伊等連合国の各国艦隊は、地中海の制海権を握り、オーストリアとトルコの艦隊をそれぞれの母港に封鎖しておりましたが、ドイツの潜水艇は厳重な封鎖線を突破して、連合国側の輸送船を手当たり次第に撃沈しておりました。特に日本艦隊がマルタ島に到着した4月は、連合国艦船の被害は22万トンにも及び日本艦隊に到着後直ちに護衛を要請するほどに事態は切迫しておりました。

対潜護衛任務の成否は、今日のように高性能レーダーが無いため、如何にして目視で潜望鏡を発見するかにありました。僅か700トン足らずの駆逐艦での不眠不休に近い状態での荒波の地中海での見張りは過酷を極めました。着任当初こそ、英国海軍の将兵たちは小柄な日本の将兵たちを見て、重要な対潜護衛が勤まるのか危惧を抱いておりましたが、その後の日本艦隊の輝かしい成果を目の当たりにして、一ヶ月を経ずして、規律の行き届いた、英国流の海軍教育を受けた日本海軍将兵を、本家本元の英国海軍将兵は敬意をもって迎えるようになり、輸送船の船長の多くが日本の護衛を望み、第二特務艦隊の護衛でなければ、出港しないという船長が出るほどに信頼されるようになりました。

第二特務艦隊の地中海での対潜護衛によって、不利だった西部戦線への兵員、武器の補強が可能となり、大戦を勝利に導くことに大きな貢献したことは多くの欧州研究家によって立証され、日本海軍史上屈指の誇るべき成果であったのにもかかわらず知る人が少ないのは残念なことです。第二特務艦隊の具体的な実績は、護衛した艦艇の数が英国軍艦21隻を含めて延べ計788隻、兵員にして約70万人に及び、護衛区間としてはマルタ島基地を中心に、主にアレキサンドリア-マルセイユ間、アレキサンドリア-タラント間、マルタ-サロニカ間でした。

また、船舶の護衛とともに被害を受けた艦船の救助活動も重要な任務でしたが、敵潜水艦から攻撃される危険に曝されながらの荒海での救助作業は危険極まりないものでしたが、日本の将兵たちは自らの危険も省みず、自分の衣類や寝場所まで明け渡し、空腹と不眠のまま最寄りの港まで救助した人たちを運んでいったのでした。中でも英国貨客船トランシルヴァニア号の救助作業は欧州の人たちに感動を与え、その功績が讃えられ、救助に当たった日本の駆逐艦「松」と「榊」の士官は英国の国王ジョージ5世から叙勲されております。

マルタ島に来て、まだ1ケ月も経たない1917年5月3日、駆逐艦「松」と「榊」はドイツ潜水艦の攻撃を受けたイギリス輸送船トランシルヴァニア号の救助活動に当たり、潜水艦の二次攻撃の魚雷攻撃をかわしながら、3,266名中約1,800人の英国陸軍将兵と看護婦の救助に成功したのでした。この救助作業が高く評価されたのは、英国艦船が二次攻撃を受けて遭難し6,000名ものの死者を出したことから二次攻撃される恐れがが有る場合は救助作業しないことになっていたのに、日本の駆逐艦は敢然と二次攻撃をかわして救助に当たったからでした。

こうした成果が認められて、第二特務艦隊には更に駆逐艦4隻と装甲巡洋艦「日進」が増派され、更に英国からの艦船4隻が貸与され、最大規模では18隻の大艦隊になったのでした。第二特務艦隊は終戦まで任務についておりましたが、その後のことについては後日また取り上げることにし、明日は、トランシルヴァニア号の救助に当たった駆逐艦「榊」がオーストリア潜水艦の魚雷攻撃を受けて59名の乗組員が戦死したことを取り上げることにします。


第二特務艦隊所属の二等駆逐艦「榊」(700トン)

駆逐艦「松」「榊」の両艦は「トランシルヴァニア号」の救助活動を終えた後、ギリシャに対する軍事輸送の増加に応じてエーゲ海への派遣を命じられ、1917年5月29日にマルタ島の基地を出港し、P&O社商船「マルタ」と英病院船「グールカ」をクレタ島南西海域まで護衛し、5月31日、クレタ島南西海域で英艦スループに「マルタ」の護衛を引き継がせた後、引き続き英病院船を護衛、潜水艦出没の警報が出されているギリシャ-クレタ島間の海峡を夜を待って通過しクレタ島西北部ののスーダ(ギリシャ)に入港しました。

英病院船の護衛任務はスーダまででしたが、英国側から引き続きサロニカまで護衛するよう依頼を受けたため、6月4日に両艦はスーダを出港したものの、航路上に潜水艦出没の警報が出されたためスーダに戻って夜まで待機し再出港し6月6日に早朝サロニカに入港し、英病院船の護衛任務を終了しました。両艦は6月9日、護衛する船舶は無いまま、第二特務艦隊司令部からの指令により敵国トルコのダーダネルス海峡封鎖艦隊の根拠地となっていたミュドロス港と、エーゲ海とイオニア海を結ぶコリント運河を視察すべくサロニカを出港しました。

ところが、英国側からコリント水道の通過は、ギリシャ内紛により極めて危険につき回避するように助言を受けたため、両艦は改めて第二特務艦隊司令部の指示に基づいてミロを経由してマルタ島に帰還することにし、6月10日にミロに入港後、比較的短時間の寄港で済ませて、ミロを出港し運命の海域に向かいました。結果的にこれが仇となってしまいました。「榊」がサロニカを出港して被雷に至るまでの経路は下図のとおりです。

駆逐艦「榊」被雷に至る経路
(いぎしちじさんの「HSC江戸屋敷の部屋」から引用させて頂きました)

6月11日、両艦はミロを出港してから数百メートルの間隔を」おいて並んで航行しておりました。「榊」は左舷横約2百メートルの近距離に敵潜水艇の潜望鏡を見つけ直ちに砲撃を開始したものの、その寸前に発射された魚雷を避けきれず左舷艦橋下の12cm砲の直下に被雷し、積載していた砲弾を誘爆させて凄まじい爆発が起り艦橋は吹き飛び、船体は少し前方に傾き煙に包まれたまま停止しました。僚艦の「松」は、「榊」の周囲を不規則に旋回しながら敵潜の航跡らしきものを見つけては爆雷を投じて「榊」を敵の第二波攻撃から守りました。

両艦と途中すれちがった英駆逐艦「リブル」が連絡を受けて、真っ先に現場に駆けつけ、敵潜から第二波攻撃を受ける危険をも省みず「榊」の横に停止してボートを降ろし、士官と水兵を「榊」に乗船させたのです。英士官は、「艦の損害甚大と判断するので、生存者全員を移乗させて、艦を放棄しよう」と提案したのですが、この時点で「榊」を指揮していた吉田大尉はこの提案を拒否しました。英国人の士官には艦首が吹き飛ぶほどの損害を受けた駆逐艦は放棄して新しい駆逐艦を作った方が合理的との割り切りが有ったものと思われますが、日本人の士官として、まだ浮いている艦を放棄することなど思いもよらなかったことと思われます。

英士官は吉田大尉の意図を理解し、まずボートで負傷者を「リブル」に収容後、「榊」を曳き綱を使って曳航作業を開始しました。そして、続いて駆けつけた英駆逐艦「ジェド」、仏水雷艇「アーチェ」に守られて、「リブル」は約6ノットの遅い速度でスーダに向けて「榊」を曳航していきました。更に、更に英国船「パートリッジ二世」と掃海艇「ガゼル」が救援に到着し、こうして、日英仏による駆逐艦「榊」救援・曳航作戦が展開されたのでした。日本の一駆逐艦のためにこれだけの艦艇が救援に駆けつけたのは、日本艦隊の地中海での活躍に英仏海軍が敬意を抱いていた証拠と私は思います。

途中、曳航索が切断しましたが「リブル」はその都度曳航索を取り付けなおし、6月11日夜遅く無事に、クレタ島のスーダ港に到着しました。この英仏による「榊」救援作業の手際よさは、その後日本でも賞賛されております。スーダ港で夜を徹して「榊」艦首のの破損部分を片付けていくと、59名の悲惨な屍体が次々と発見されました。翌日6月12日の昼から始めた59名の殉職者の火葬は夜になっても続きました。

そして、この59名の遺骨はマルタ島英軍基地内の墓地に埋葬されました。そして、翌1918年、英国海軍は、日本海軍の地中海での献身的な活躍に敬意を表し、殉職した「榊」乗組員59人に加え、地中海で殉死した他の第二特務艦隊乗組員19名と合わせて78名の遺骨を、マルタ島バレッタ港を望む、カルカーラの丘の英国海軍墓地に収め、そのの一隅に大理石の墓碑を建立して殉職者を慰霊したのでした。尚、損傷した「榊」は修理されて無事日本に帰還したのですが、その後の経緯は後日、改めて「90年前の日本の地中海派兵(5)」として取り上げる予定にしております。現在、インド洋上で外国艦艇に燃料補給して国際貢献している海上自衛隊員の苦労をねぎらうとともに、90年前に地中海上で成し遂げた彼等の先輩たちの国際貢献に改めて敬意を表したいと思います。


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