雑感記 第25章 サダム・フセインの息子たち

サダム・フセインの息子たち(1) サダム・フセインの息子たち(2)

サッカーファンにとって、10年前の「ドーハの悲劇」は思い出すのも嫌な出来事ですが、その出来事に先日米軍によって殺害されたサダム・フセインの長男のウダイ・フセインが深く関わっていたことはよく知られております。当時、ウダイ・フセイン氏はイラクサッカー協会の会長として94年米国W杯に向けてイラク代表チームを取り仕切っておりました。

日本は1次予選を順当に勝ち上がり、6チームによる総当たりのリーグ戦で、会場はカタールの首都ドーハ。初戦はサウジアラビアと引き分け、イランには1-2敗れ、北朝鮮に3-0で勝利、韓国戦は後半、三浦知が1点を取って逃げきって勝利、最終のイラク戦は、90分間を経過して日本が三浦と中山雅史のゴールで2-1とリード、そのまま終われば初のW杯の切符を手に出来るとあって、私も翌日が出勤日と言うのに眠い眼を擦りながら深夜遅くまでテレビに釘付けになっておりました。

しかし、ロスタイム、もアップ寸前で最後のワンプレー、イラクのショートコーナーから中央に蹴り込まれたボールは、まさかのヘディングシュートとなって日本ゴールを揺らし、切符は半ば諦めていた韓国にわたってしまいました。テレビ画面にはショックのあまりピッチ座り込んだ日本エレブンの姿が映しだされました。

実はそのスタジアムにウダイ・フセインが居たと言われております。川淵三郎キャプテンもその姿を見掛けたと証言しております。イラクとしては、この日本戦は勝ってもW杯の切符は手にすることは出来ない、いわば消化試合だったわけですがイラク・イレブンにとってはどうしても負けられない事情が有ったのでした。

それはそれまで、一度も負けていない日本に負けることはイラクにとって屈辱的であり、もし負けたら、ウダイ・フセイン氏の命令で刑務所に入れられてムチ打ちと強制労働が待っているからでした。それまでにも、イラクが国際試合で負けると帰国した選手がウダイ・フセインに袋叩きに遭っていることはよく知られておりましたので、日本側もその辺りの事情は知っていたと思いますが、イラクにCKを取られる伏線となった武田選手のミスパス、一瞬とは言えゴール前で作ったスキと言い、あまりにも不用意でした。 しかし、この試合で日本と引き分けたにも関わらず、イラク選手は帰国後、ウダイ・フセインによって拷問を受けたと言われております。

イラク駐留米軍を率いるサンチェス司令官は23日夜(日本時間23日未明)、バグダッドで緊急記者会見し、同日の北部モスルでの戦闘で殺害した旧フセイン政権幹部の遺体がフセイン元大統領の長男で米軍手配リスト・ナンバー3のウダイ(39)と、二男でナンバー2のクサイ(37)の両氏と確認したと発表しました。

ウダイ、クサイ両兄弟には3000万ドルの懸賞金を支払うことでその行方を追っていたところ、彼等がモスル北方に潜伏中との通報が二人のイラク人から有ったことから陸軍第101空挺師団を主体とする米軍がはここを包囲し、拘束を試みたが抵抗を受けたため上空からはヘリによるミサイル攻撃、地上からは砲撃を加えてそこに立て籠もっていた4人全員を殺害したと言われております。

イラクの人たちがウダイ、クサイ両兄弟の死亡を大歓迎したのも、この両兄弟の残虐行為をよく知っているからと思われます。もし、父親の後をこの兄弟のいずれかが継いだとすればフセイン一族による圧政が更に強まり北朝鮮の二の舞になることを恐れていたようですので、その点ではイラク国民にとって両兄弟の死亡は朗報だったようです。

ドーハの悲劇は今年の10月で10周年を迎えます。これを記念として、イラクサッカー協会が再結成されたら、すぐにでもあの時のメンバーで代表戦OBマッチを組みたい」と日本協会・川淵三郎キャプテンがその復興プランを具体的に披露しておりますが、ウダイ・フセインの死によってこのプランが具体化することを望みたいものです。

ところで、あの時の日本メンバーをリストアップしてみました。

松永成立、 前川和也、 大嶽直人、 柱谷哲二、 井原正巳、 堀池巧 、都並敏史、 勝矢寿延、 大野俊三、 三浦泰年、 武田修宏、 澤登正朗、 吉田光範、 森保一、 北澤豪、 長谷川健太、 福田正博、 ラモス瑠偉、 中山雅史、 三浦和良、 黒崎比差支、 高木琢也。

この中で、日本代表に選ばれそうなのは、我が後輩、 中山雅史選手、ただ一人だけになってしまいました。 彼が現役の日本代表として、カタールの地でOB戦に出場できることを夢見ております。

サダム・フセインとその息子たち(左ウダイ、右クサイ)
吉田豊氏のHPから転載)

サダム・フセインには第一夫人のサジダさん、第二夫人のサミラさん、第三夫人(名前不詳)の3人の妻と不特定多数の愛人がいましたが、実子として認知されているのは第一夫人のサジダさんとの間に出来た二人の兄弟と3人の姉妹の5人だけと言われております。サミラ第2夫人については、フセインが80年代後半、イラク航空幹部の妻だった時に見初め、強引に離婚させて奪い取り、サジダ第1夫人が横暴な夫との同居を嫌って家出した後、フセインと長らく同居していたとされ、バグダッド陥落直前の4月上旬に母国を脱出し現在は息子とともにロンドンに亡命しております。

第一夫人のサジダさんは3人の娘さんとシリア経由でロシアに亡命し、更に娘二人と英国に亡命を申請したものの英国政府から拒否されております。サジダさんとサミラさんは米英軍が指名手配したフセイン政権幹部55人のリストには含まれていないものの何らかの影響力を有することから英米政府筋から監視されているようです。

第一夫人のサジダさんとの子供だけを認知しているのは、サジダさんの父親で母方の叔父であるハイララ・タルファ氏に貧乏だった青年時代に資金援助してもらった負い目が有るのではないかと思われます。

長男ウダイ氏はスポーツ大臣でサッカー選手でもありますが、イラク・オリンピック委員会の会長を務めた97年、サッカーW杯フランス大会アジア予選でイラクが敗退した時に選手にむち打ち刑を命ずるなど横暴な性格の持ち主として知られております。

88年には父サダムのお気に入りの護衛官を殺害したことで父の怒りを買って失脚したものの許されて経営者として力をつけておりましたが、ジュネーブのイラク大使館に勤務していた時に求婚した女性を振られた腹いせに殺害したり女性への陵辱などの悪い噂が後を絶たず、96年には一族内の抗争もあって暗殺未遂に遭い左足の一部を失っております。今回、本人と特定されたのはこれが決め手となったようです。

次男のクサイ氏は長男よりは物静かな面が有り父サダムの信頼も厚く、共和国防衛隊などイラクの軍事・治安部門を総括し将来の後継者としてナンバー2の地位にあるようです。しかし、反体制派への容赦ない弾圧で知られ、98年にはシーア派教徒数百人を即決裁判で処刑したり、反体制派が多い村落を根こそぎ破壊したりするなど、残虐な性格をも持ち合わせているようです。母親のサジダさんがウダイ氏、父がクサイ氏を寵愛しているのが何かサダムとサジダ夫人との不仲を物語っているようで興味が有ります。

両兄弟の死亡により、米英軍が指名手配したフセイン政権幹部55人の殆どは死亡または拘束され、残るかサダム・フセインただ一人になりました。

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