雑感記・第21章 家康の伊勢湾横断逃亡作戦(1)


自宅から30分ぐらい歩いたところに、常楽寺と言う市内で一番大きなお寺があります。 田舎のお寺にしては、境内に超世院以下4ケ所に塔頭が有り如何にも格式が高そうなので調べてみて驚きました。 このお寺を含め私が住んでいる街とその周辺のお寺や城に徳川家康が天下を取る前に4回も逃げ隠れして九死に一生を得ていることが判ったからです。

半田市内にある常楽寺

JR名古屋駅から名鉄河和線・成岩駅下車、南西に徒歩10分

NHK大河ドラマ「利家とまつ」の1月27日放送分の「桶狭間の戦い」で今川義元が織田信長軍の奇襲攻撃で落命するシーンが有りましたが、その今川軍のさむらい大将だったのが徳川家康で、桶狭間の戦いに敗れた永禄3年(1560)に家康の生母「於大の方」が家康を生んだ後に離婚させられて再嫁した阿久比の坂部城主・久松俊勝の元に逃げ隠れたのがまず1回目です。 ここで家康は16年振りに生母と再会しました。

織田信長に仕える久松家としては立場上、長くかくまうことは出来なかったので家康はやむなく坂部城から8キロぐらい南にあるこの常楽寺に逃げ延びたのが2回目です。 常楽寺の典空和尚は、「於大の方」の妹の子の弟で家康とは従兄弟に当たることからここでも、生母に繋がる人々に助けられて危機を脱したとことになります。

3回目はその22年後の天正10年(1582)の本能寺の変の直後に、家康は明智光秀軍の追手から逃れるべく再び常楽寺に逃げのびているのです。 今日の日記はこの3回目の家康の逃走劇について触れてみたいと思います。

天正10年6月、京都の本能寺で織田信長が明智光秀に討たれたの一報を受けて、信長の命により堺に兵を進めていた家康は半信半疑ながらも京へ上り明智方と戦うべく昼頃、堺を発ちました。 しかし、途中で得た情報で対抗するのは無理と判断し伊賀越えして岡崎への帰着を決断しました。 ところが既に帰路は光秀の手勢で固められており、思うように進めません。
家康主従五十余名は昼夜をかけて伊賀越えして伊勢の白子(三重県白子町)に夕暮近くに着きました。初夏の山路を30時間余で34里(約133キロ)走ったことは41歳の男盛りの家康とは言え驚異的なことで、これが世に言う「伊賀越え」です。

疲労困惑の身を休む間もなく、薪荷を積込んだ伊勢大湊の廻船業者角屋七郎次郎所有の船の荷を降ろさせ、これに便乗し伊勢湾を渡り対岸の知多半島に向かったのです。 上陸点として、大野(愛知県常滑市)、富貴(愛知県武豊町)、大浜(愛知県碧南市)の3説が有りますが私は大野説を 採ります。
その理由は、下図から判るように大野コースが最も近い上、岡崎への玄関口の大浜までも海路で近いので最も有利だからです。


富貴コースは知多半島を回り込んで知多湾まで行くため大野コースの3倍以上の距離になる上、大浜までも遠いのでまず有り得ないと思われます。大浜コースはそのまま陸路、岡崎に出られる点で有利ですが白子からの海路が長すぎるのと大野説を裏付ける古文書の存在から大野説が有力と考えられます。

私は大野の海岸付近でよく船釣りをしますので判るのですが、対岸の白子は霞んで肉眼では見えない程遠く、ましてや手漕ぎと思われる小さな蒔船での夜の航行は無謀に近い危険な行動としか思えないのです。

この夏の夜の決死の家康主従の伊勢湾横断逃走劇は、いわば歴史の節目となるドラマチックな実話ですが、あまり世には知られていないのが残念ですので、以下私の想像を交え物語風にその時の様子を描写してみました。



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