雑感記・第21章 家康の伊勢湾横断逃亡作戦(2)


家康は危機の度に巧みな対策で凌いでおりますが、これは日頃から情報収集、人脈確保等による危機管理が充分行き届いていたものと思われます。 伊賀越えの際の明智方の動向、知多半島の勢力分布等の事前情報や母方人脈の利用が無かったらこの作戦は成功しなかったと思います。
しかし、その家康も私の生まれ故郷の焼津の漁師が献上した鯛の天麩羅を母校の藤枝東高の近くにある田中城で食べたのが原因で死亡したと伝えられておりますので老後は危機管理を抜かったようです。

大久保彦左衛門の書いた「三河物語」でも上陸地点は大野となっており、また大野の平野彦左衛門宅及び常滑の衣川八兵衛宅に泊まったとの記録が言い伝えられていること、更に当時大野は伊勢から三河への一般的ルートで、明応8(1499)年に公家の飛鳥井雅康が伊勢〜大野〜緒川(現知多郡東浦町)〜大浜のルートで、天文13年(1544)には連歌師宗牧が伊勢〜常滑〜成岩(愛知県半田市)〜大浜のルートで、それぞれ渡っている記録があることからも大野説にまず間違いないと思います。

多分深夜に大野の湊の江に着いたものと思われますが、報せを受けた町方衆が篝火を赤々と焚き出迎えに出て、 俄かの休息所が各所に設けられ、家康は大野の東龍寺でしばし休息しました。 実はこの寺の住職の洞山和尚は家康の母「於大の方」の妹の子で、幼くして父母を失ったため、暫く於大に養われたことから家康とは浅からぬ因縁が有りましたがそれでも家康が安心できなかったのは大野城に佐治、常滑城には明智に味方した水野の手勢がいたからでした。

そこで、家康は当座の軍用金の必要を感じ、寺に集まってきた町方有力者にその調達を要請したのですが 突然の出来事でまだ事態を理解できずにいる一同は、不安の眼差しでお互いの動向を探りあったのでした。 その時、寺憎案内されてきた一人の女性の顔を見て家康は生母「於大の方」と一瞬錯覚して驚きのあまり立ち上がってしまいました。

この女性こそ、「於大の方」の実姉の「お上の方」でした。彼女は三河形原の松平家忠に嫁いだものの父水野虫政の死後、「於大の方」と同じ理由で離縁となり、後に大野の光明寺住職浄祐に再縁していたのでした。 懐かしい叔母との再会に22年前の坂部での実母との再会の思い出が脳裏を過ぎり、家康は拳で眼を拭いながら喜び合ったものと思われます。

一同がこの光景に感激していたところへ、「無事家康殿を岡崎に送り届け、大野の町方衆の意気込みを見せましょうぞ」との「お上の方」の一言で東龍寺檀家頭の薬屋市左ヱ門はじめほとんど全員が軍用金を調達し差し出したのでした。 更に、夜半になって知多半島の東にある岩滑城(愛知県半田市)より「於大の方」の妹の子である家康とは従兄弟同志の中山勝尚が父勝時は二条城で壮烈な最期を遂げているのも知らずに二十五騎を従え馳せ参じてきましたので一気に家康勢は活気付いていきました。

中山勝尚等の助勢を交えた家康一行は闇の中を先鋒隊に案内されながら、常滑と半田を結ぶ板山街道を一路、 多屋から板山を越え成岩の常楽寺(愛知県半田市)に漸く着いたのでした。 常楽寺の典空和尚は大野の東龍寺の洞山和尚の弟で家康とは従兄弟でしたので、ここでも家康は丁重なもてなしを受けたのでした。

このように、家康は1回目は実母、2回目は母方の従兄弟の典空和尚、3回目も母方の従兄弟の洞山和尚と母方の叔母、4回目がまた典空和尚と、全て実母「於大の方」に纏わる人たちに助けられて危機を脱したといっていいと思います。 後に天下を取った家康がこの人たちの恩に報いたのは言うまでもありません。

常楽寺は文明16年(1484)法然上人第8世法孫空観栄覚上人によって開創されました。常楽寺の前身は天台宗仏性寺で、今の常楽寺より西北500米の地にあったと言われています。

家康は常楽寺には先に述べたように永禄3年(1560)と今回の天正10年(1582)そして天正17年(1589)の3回逗留して縁が深かったことも有って朱印50石を賜り、また尾張徳川家歴代の藩主も参詣しております。

常楽寺にはこの時に家康から下賜されたと伝えられる馬の鞍鐙をはじめ家康縁りの品々が寺宝として保存されております。本尊は国指定重要有形文化財の木造阿弥陀如来立像です。



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