雑感記 第16章 ビン・ラディンの生い立ちから現在に至るまで 

1.生い立ち、そしてアフガニスタンでゲリラ活動

あの憂いを含んだ端正にしてインテリジェシーな顔付きは如何にも日本の女性にもてそうな Osama Bin Laden

Osama はオサマ、オサーマ、ウサマ、また Laden は
ラディン、ラデン、ラーデンなどと表記されますが日本の殆どのメディアでは、オサマ・ビン・ラディン、略してビン・ラディンと表示してます。 「ビン」はアラビア語で「何々家の息子」つまり「ラディン家を先祖とする息子」を意味しますから、ビン・ラディンは苗字に相当し
ますので個人を呼ぶ場合はオサマが正しいと思いま
すが、ここでは ビン・ラディン氏で統一しておきます。

彼は1958年前後に、サウジアラビア最大のゼネコンの ビン・ラディン・グループの総帥で資産50億ドルとも言われる富豪のムハンマド・ビン・ラディン氏の52人の息子のうち17番目の息子として(米国・ABCによる)、リアドで生まれております。

ビン・ラディン氏の母親については、パレスチナ人、シリア人、アラビア半島中央部出身の奴隷の3説がマスコミから報道されておりますが、そのいずれにしても父ムハンマドの10人の妻の中では唯一の存在(例えば唯一のパレスチナ人と言う意味)で、異腹の兄弟が居なかったことが彼の人格形成に大きな影響を与えたように思われます。 その母親は少なくとも1996年までは生存しており、反政府活動を行う息子を説得するため、スーダンまで訪ねたのを最後にその後の消息は判っておりません。 また、彼の妻はシリア人1人、サウジ人2人で子供の数は15人程度と言われております。

父親のムハンマドはイエメンの貧民地帯のハドラマウト出身で、煉瓦積み職人から身を興し独立して建設会社を設立しました。
この地帯からはサウジアラビアに出向いて一旗揚げる人が多く、ビン・ザグルとかビン・マフフーズと言ったハドラマウト系財閥が多いのはそのような事情によるものです。。

ビン・ラディンはその代表的な財閥のひとつで、国王に取り入り、聖地の宗教施設建築等の政府の公共事業を次々に受注して急成長を遂げております。

ムハンマドは敬虔なイスラム教信者で、自家用機に乗って朝はエルサレム、昼はマディーナ、夜はマッカで礼拝したと言われておりますが、ビン・ラディン氏が10歳前後の1996年に自家用機の事故で死亡し、現在はビン・ラディン氏の兄バクル・ビン・ラディン氏がグループを率いております。ビン・ラディン氏は父親の死亡により約3億ドルの遺産を相続したと言われますが、その後は一家の名誉を傷つけたとしてビン・ラディン家から勘当されております。

ビン・ラディン氏は10代後半にはベイルートで遊びまくったようですが、ジェッダの高校を卒業後、名門アブドゥルアジーズ国王大学に入学し経営と経済学を学んでおりますが、一説では土木工学も学んだと言われております。
16才頃からイスラム原理主義に傾倒し、79年のソ連のアフガニスタン侵攻後、アラブ各国から集まったイスラム義勇兵(ムジャヒディン)の一人としてアフガニスタンに渡り、難民援助、道路建設、兵器調達等に豊富な資金を提供したため脚光を浴びて一躍有名になり英雄視されるようになりました。

その当時はソ連の侵攻と共産圏の拡大を阻止しようとする米国と利害関係が一致し、CIAなどからも援助を受けていたようです。
言わば、米国がビン・ラディン氏を一流のテロリストになるように育て上げわけで皮肉なことです。

その頃、パキスタンのカラチのモスクで知り合ったのが、そのモスクの導師ムハマド・オマル師で現在、アフガニスタンを実効支配しているタリバンの最高指導者で、現在、タリバンにかくまわれているのはこの時の縁によるものと思われます。

しかしソ連がアフガニスタン撤退してからソ連の体制が崩壊したことにより冷戦の枠組みが崩れ、新たな民族、宗教の対立が表面化するにつれ共通の敵で結び付いていたムジャヒディンたちの考え方が変わっていったのも当然のことでビン・ラディンもその例外では有りませんでした。

ソ連への抵抗と言う共通の目標を失って、日に日に堕落していくムジャヒディンたちの言動に幻滅して故国サウジアラビアに帰えったのですが、そこにはビン・ラディン氏の運命を一変させるような事態が待ち構えていたのです。


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