雑感記 第20章 ビン・ラディンの生い立ちから現在に至るまで 

2.母国から追放され再びアフガニスタンへ

89年にサウジアラビアに戻り、モスクで反米的な説教を始めたのですが、1990年の夏、湾岸戦争が勃発し、その時、自国のサウジアラビアが米軍を駐留させたことに猛反発し、アメリカ寄りのアラブ諸国に対する不信感を強め反米意識を鮮明にしていったと言われます。

そして、あまりにも過激な言動により91年に母国サウジアラビアから追放され、イスラム原理主義政権下のスーダンに渡り、ゼネコン、貿易、投資会社の経営を始める一方、カリスマ的なイスラム指導者ハッサン・トゥラビと出会い、他のイスラムグループとのネットワークを構築し本格的な反米活動を開始しました。

この時点で米国は彼に重大な関心をもって諜報活動を行い、米国に対して不穏な活動をしているとして、サウジアラビアとスーダンに働き掛けて彼をスーダンから追放するように画策しました。
その結果、96年に彼はスーダンから追放されたため、家族と部下を引き連れてアフガニスタンに戻り、パキスタンの仲介で前述の縁で知り合ったタリバンのリーダーのムハマド・オマル師に匿われるようになりました。

パキスタンとしては、ビン・ラディン氏の豊富な資金と彼がアフガニスタンに残した軍事施設をカシミール紛争に投入するゲリラ兵の隠れ家として利用したかったものと思われます。

米国はビン・ラディン氏がスーダンから追放された時点では、疑わしき点は数々有ったものの逮捕するに足る充分な証拠がなく、家族、部下の一族郎党を率いてアフガニスタン入りするのを傍観するしかなかったようです。

3.タリバン政権に匿われながら対米テロ活動開始

ビン・ラディン氏はここで、米国に対するジハード(聖戦)を宣言し、98年には他のイスラム過激派グループとともに「ユダヤ人と十字軍に対する聖戦のための国際イスラム戦線」を結成、「アメリカ人とその同盟者は軍民問わずに殺害するよう」イスラム世界にファトワ(声明文)を出しました。

 
米国はこのファトワを契機にビン・ラディン氏を標的とする本格的な軍事攻撃を検討しはじめました。
一方彼は、これに対抗するために、「アルカイダ」と言われるテロネットワークの組織を構築しはじめました。

この組織の活動家は世界約55カ国に存在し、提携組織は少なくとも15カ国、31グループに及び、人材交流、軍事訓練、情報交換などを行っていると言われております。米国は今回の同時多発テロの実行犯をこの組織の人間であることを突き止め、ビン・ラディン氏との関係を追求しているものと思われます。

4.テロ行為首謀者として米国の報復攻撃と国連の経済制裁

1998年8月7日、ケニアとタンザニアのアメリカ大使館が同時に爆破され257人が死亡すると言う悲惨なテロが発生しました。
この爆破テロに米国は激怒し、13日後の20日、スーダンとアフガニスタンの施設をペルシャ湾の軍艦より70数発の巡航ミサイル「トマホーク」で空爆し、この事件の黒幕をビン・ラディン氏と断定し、500万ドルの懸賞金を出して国際手配しました。

しかし、98年の米大使館同時爆破テロについては充分な証拠が有るとして、彼を匿っていると言われるタリバン政権に彼の身柄引き渡しを要求しましたが、イスラム教には客人を手厚くもてなさねば背徳行為になるという習慣があるとして、引き渡しを拒否したため、国連に働きかけタリバン政権が実効支配するアフガニスタンに対して国連決議による経済制裁を加え現在まで継続しております。

この制裁に記録的干魃も加わり財政的に苦境に立ったタリバン政権にとって、ビン・ラディン氏の資金力やテロネットワークは魅力なため彼を匿う必要性が益々高まり、これがこれまでの再三の米国からの引き渡し要請を拒否する背景になっております。

タリバン政権にとってこの国連の経済制裁の緩和・解除が最重要政策のはずなのに、敢えて世界中非難の矢面になっている女性差別、麻薬の製造・密売、、世界遺産の破壊等について何ら配慮することなく、逆にバーミヤンの仏像破壊を強行している背景にビン・ラディン氏の陰が付きまとっているように思われてなりません。



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