−日記帳(N0.1934)2007年04月05日−
ソロモン諸島近辺での地震に思う
−日記帳(N0.1935)2007年04月06日−
5回目のメバル釣りは不調なるも



ソロモン諸島は上図に示すように、インドネシアと縦の直線で国境を接するパプア・ニューギニアの右側の南太平洋のメラネシアに点在する大小1,000の島からなる島国で、イギリス連邦の一員で首都は、ガダルカナル島北部のホニアラです。外務省の資料によれば、大きさは岩手県の約2倍、人口は大分市とほぼ同じの48.7万人です。1568年に、スペイン人探検家のアルバロ・ド・メンダーニャ・デ・ネイラがヨーロッパ人として初めて渡来し「ソロモンの島々」と名づけたことがソロモン諸島の名前の由来とされております。

従って、あのソロモン王やソロモンの繁栄とは全く関係なく、1893年にイギリスの植民地、1900年にはドイツ領だったソロモン諸島の北部もイギリスが獲得し第二次世界大戦では、ガダルカナル島が1942年に日本軍に占領されて日米の激戦地となり、1943年に日本からアメリカが奪取、1976年に自治権を獲得、2年後の1978年にイギリス連邦内の独立国となっておりますが原住部族と移住部族間での土地の領有を巡る武力抗争が有ったり、最近は財政赤字、森林破壊、マラリア対策が大きな課題となっております。

このように、国情不安定で社会的問題の多いソロモン諸島の近海で4月2日午前7時39分(日本時間同5時39分)頃、マグニチュードM8の巨大地震がが発生しました。震源はソロモン諸島の首都ホニアラ(ガダルカナル島)の北西約350キロで、深さは約10キロで、米ハワイの太平洋津波警報センター(PTWC)は一時、オーストラリアやパプアニューギニアなどを含むオセアニア地域に津波警報や注意報を発令しました。AP通信によると、ソロモン諸島西部で数十棟の建物が倒壊、高さ数メートルの津波が観測され、少なくとも6人の子供を含む8人の死亡が確認されたとのことですが、今後更に多くの死傷者が確認されるものと思われます。

このソロモン諸島近辺は太平洋戦争の戦跡が多く残っております。ソロモン諸島の中で最大の島で現在は隣国のパプアニューギニア領 になっているニューブリテン島には当時、「ラバウル小唄」でも知られる日本海軍の航空基地のラバウルが在り、1943(昭和18)年4月18日、聯合艦隊司令長官・山本五十六元帥一行を乗せた一式陸攻機がこのラバウル基地を飛び立った後、ラバウルの東側に在って現在のパプアニューギニア最東端の島のブーゲンビル島上空で暗号解読して待ち伏せしていた米軍のP-38戦闘機に撃墜されて戦死したことでも知られております。

太平洋戦争中期に日本は米豪遮断作戦を意図し、そのためにニューブリテン島のラバウルとニューカレドニア・フィジー・サモア諸島の中間に位置するガダルカナル島に飛行場を建設する必要があり、日本軍が建設したルンガ飛行場を巡って日米両軍の間で激戦が繰り広げられ、やがて米軍に奪取されてルンガ飛行場はヘンダーソン飛行場と改名され、戦後になってホニアラ国際空港となりました。しかし、この空港は約20年間大規模な補修が行われていないため舗装の劣化が酷くなっていたため日本が一昨年、ODA資金によりこの空港の整備を終えたところでした。太平洋戦争で日本軍が作り、米軍がこれを奪取して供用してから独立後、ソロモン諸島に供与されたものの整備不良で再び日本に手で整備された歴史を思うと複雑な思いに駆られます。

五味川純平さんの「ガダルカナル」で指摘されておりますように、ガダルカナル島での日本軍の作戦は、無策・無謀に尽き、2万人を越える日本軍の死者の大半が戦闘による戦死ではなく、餓死とマラリア等による病死だったこと、そしてその戦死者もその殆んどが玉砕によるものだったことを思うと、この地で亡くなられた方々の無念さが偲ばれてなりません。そして、今尚、この地で多くの英霊が朽ち果てたまま地中に、海底に眠っております。太平洋戦争でなくなられた方々のうち60万柱のご遺骨が未送還であり、特にこのソロモン諸島とその周辺の東部ニューギニア、ビスマーク諸島での未送還分が多くしかも遺骨収集が困難な状況になりつつあります。この地震での復興事業に日本が援助する傍ら遺骨収集について現地の協力が得られたら幸いですが・・・・・。



先月、3月29日の4回目のメバル釣りで大釣りした際の日記で その大釣りの原因を「釣りタイムが満潮からの下げの時間となる重なるタイミングの良さ」と推定し、来週の4/3から4/8にかけて夜の8時前後の釣りタイムが満潮からの下げと重なることから大釣りの期待が持てると記述しました。今日はその期待が持てる日で天気予報も釣りに適していることから5回目のメバル釣りに出掛けることにしました。

何時ものポイントの夕方5時半頃、着きましたが既に先客がおりましたのでそこから西側に20mほど離れたポイントにボートを係留しました。そして、先客に話しかけたところ、稚鮎を釣ってそれをエサにしてメバルを釣ると釣果がが上がるとのことで、サビキ仕掛けで稚鮎釣りをしておりました。鮎は秋に産卵・孵化し、孵化した稚鮎は海に下ってプランクトンを食べながら成長し、やがて春になると河川に遡上する準備のために、河口や漁港などに接岸しますので、この時期この辺りでも稚鮎が釣れるようです。

ただ、稚鮎の多くは遡上前に他の魚の餌食になったり、遡上する河川を見失って死滅する恐れが有りますので可能な限り保護する必要が有ります。従って、遡上する河川の近くの海域での稚鮎には漁業権が設定され、一般の釣り人の稚鮎釣りが禁止される場合が有ります。ただこの辺りは木曾三川や矢作川等の稚鮎が遡上する1級河川から相当離れておりますので、詳細は不明ですが漁業権は設定されていないのではないかと思います。例え、設定されているとしても、エサ用に数十尾程度釣るなら大目に見てもらえるのではないかと思います。

何時ものとおり、イシゴカイのエサで当たりを待ちましたが当たりが出ません。やがて陽が暮れて辺りが暗くなって漸く、ポツリポツリと当たりが出始めましたが、リリースサイズの小物ばかりです。そして、8時過ぎて満潮からの下げのタイミングになりましたが、状況に変化有りません。先回の大釣りの時の状況と全く違います。そこで、少し釣り方を変えてみました。それまでは、仕掛けを海面に垂直に真下に落とし込んでおりましたが、軽く左右に投げるやり方に変えてみたのです。ミチイトが斜めに張っている状態でゆっくりとリールを巻いていくと当たりが有り、20センチオーバーのメバルが上がってきたのです。

このやり方に変えてから、入食いとまではいきませんが、3、4回に1回ぐらいの割合で当たりが有り、時折小物も混じりますが総じて 大物がかかるようになりました。こうして、何とか20センチオーバーを5尾、15センチオーバーを10尾ほど上げることが出来ました。そのうち、それまでの南寄りから北寄りに風向きが変わると風波が高くなって危険を感じましたので12時前納竿しました。どうして、釣り方を変えたら当たりが増えたかについては明日の日記で検討してみたいと思います。翌日の夕食は、上の写真のようにメバルの刺身、塩焼きに近所の方から頂いたワラビと竹の子を添えて一杯やりました。春告魚と呼ばれるるメバルに旬のワラビと竹の子はまさに春の季節料理で、家の前の満開の桜をめでながら美味しく頂きました。


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