−日記帳(N0.1970)2007年05月11日−
小出氏の禁煙反対論に思う(1)
−日記帳(N0.1971)2007年05月12日−
小出氏の禁煙反対論に思う(1)


中日新聞社の編集担当常務取締役に小出宣昭氏(62)という方がおられます。彼が同新聞の編集局長をされていた5年前のある時、たまたま彼の講演を聞く機会が有りました。当時、毎週土曜日の同夕刊のコラム欄「編集局デスク」への同氏の投稿文が結構、面白かったこともあって同窓会が彼を招聘したのでした。

彼の記事や発言がとかく物議をかもすことが多いこともあって一部の筋から、マスコミにはこびる「反日サヨク」として酷評されることも承知しておりますが、私はそのことは特に気にしておりません。海外を含め長い記者の経験から世間一般の常識に隠れている部分を掘り起こすと、時にはそのような批評を浴びることがあるのではないかと思うからです。

例えば、彼の自論に「空(クー)と活性化」が有ります。物理的に囲めば確かに空間は出来ますが、人に豊かな居住感、価値観、人生観を与えてくれる空(クー)は、これに何かが加わるべきと彼は主張し、日本ではそれを活性化に求めようとする傾向が強く、道を作ったり、鉄道を作ったり、工場を誘致したりすることで活性化を目論む自治体が多いことを彼は批判するのです。

中部地区は、ここ数年にわたって活性化を目指して、中部国際空港、愛知万博、第二東名、名四、駅前、サッポロ跡地の再開発等のビッグプロジェクトが推進されている現状に、彼の「空(クー)と活性化」自論は異論を唱えることになり、これが推進派の人たちに不快感を与えことになり、「反日サヨク」と酷評されることに繋がることも充分有り得ることです。

私は、彼のこの考え方そのものに異論、反論する気は毛頭有りません。しかし、それは一個人としての考えかたを前提にしております。マスコミを媒体にして自論を一方的に強く主張し過ぎると、確たる考えを持っていない層を偏向的にそこに誘導してしまう弊害が出るように思えるのです。考え方には多面性が有り、特定の面のみを、正論であるかのように報道する姿勢は私はよしとしません。

その小出宣昭氏が、名古屋地区で今月1日から始まったタクシーの全面禁煙について、4月29日の中日新聞朝刊に「タクシー禁煙の憂うつ」と題されたコラム欄で、この禁煙に否定的な意見を掲載したところ、抗議が同社に相次ぐことが、ライバル紙の読売新聞に掲載され大きな話題になりました。この件については明日の日記で取上げてみたいと思います。


4月29日中日新聞コラム「タクシー禁煙の憂うつ」

小出宣昭氏の4月29日中日新聞コラム「タクシー禁煙の憂うつ」の投稿文は次の白字の部分でした。(この文章は「なにわタクシー日記 私事日々控」より引用させて頂きました。)

世をあげて禁煙の時代だが、私は今も、たばこのみである。中日新聞では少数民族 「スー族」 (吸う族) と呼ばれ、細々と伝統の香りを守り続けている。うまいコーヒーを飲み、ぷかりと煙をくゆらすときが、多数民族 「スワン族」 (吸わん族) の方々には申し訳ないが、至福の瞬間なのだ。時間が止まり、精神の静寂が訪れる。たばこは、吸うよりも、ふーっと吐き出すときが落ち着きをもたらす。禅の呼吸とよく似ている。五臓六腑が空っぽになるまで息を吐くと、後は自然に空気が入ってくる。この繰り返しによる落ち着き。「無一物無尽蔵」 と禅はいう。 こんな心境にご理解をいただき、スー族とスワン族の静かな共存を願っていたのだが、がぜん、とんがった事態が起きた。

禁煙、喫煙は個人の自由ですから私としては、上の文章そのものには何ら異論は有りません。ただ、上司が「スー族」ですと「スワン族」の部下に対応し辛い場合が有るように経験上思うのですが如何がなものでしょうか。

五月から名古屋のタクシーをすべて禁煙にするというのだ。いやはや。少数民族は多数民族の決定に従うほか術はないが、その決め方にいささかの薄っぺらさを感じるがゆえに、スー族としての反論を書きとどめる。名古屋タクシー協会によると、全車一斉の禁煙に踏み切った理由は、時代の流れに加え、女性や高齢者から 「車内がたばこくさい」 との 苦情が増えたからという。私は、他の理由はともかく 「くさい」 というのはなんとも容認できない。私たち日本人は、かつて朝鮮半島の人々を 「ニンニクくさい」 といい、欧米人を 「バタくさい」 といって世界から 友人を失ってしまった。自分たちが 「魚くさい」 「醤油くさい」 と思われていることも知らずに、である。世の中、においはお互いさまなのだ。たばこくさいと非難する女性は、厚化粧のくさみをご自覚だろうか。たばこの煙が健康を害することはあっても、たばこのにおいで肺がんになることはない。子供のいじめの 「くさい」 と同じではないか。

上の文章には私としては、異論、いや反論が有ります。特にアンダーラインの個所です。たばこの煙のにおいをくさくないと思うのは小出氏の勝手ですが、それを他人に強要するが如く「容認できない」とは何事ですか。私は小さい頃、父に抱かれるのが嫌でした。煙草のあの独特のにおいが浸み込んだ父の服や口が大嫌いだったからです。私もかっては喫煙していましたが、他人が吐いた煙草の煙はくさいと感じたくらいですから煙草を吸わない女性や子どもにとって、煙草の煙はくさい以外の何ものでも有りません。また、においそのものに発ガン性は無いかもしれませんが、そのにおいを発する煙等の微粒子やガスに発ガン性が無いとは言い切れません。この文章は、小出氏の思い上がりそのもので許されるものでは有りません。

タクシーは公共交通機関といっても、あくまで個別選択的な乗り物である。車内でのたばこは運転手さんや同乗者の同意を得れば不特定多数の人々に迷惑をかけることはありえない。まさに私的空間なのだ。そこへ禁煙の論理を持ち込むなら、なぜ、禁煙車を7割、喫煙車を3割など喫煙率に応じた選択肢を与えないのだろう。 全車禁煙という一律主義に、スー族は本能的な危険を感じる。

上のアンダーラインの個所には反論を通り越えて怒りを覚えます。あの狭いタクシー車内という密室で排煙された煙草のにおいは、窓を開けて空気を入れ替えないと立ち消えません。寒い冬など運転手さんがこまめにこのような処置をして下さるでしょうか。「迷惑をかけない」とは思い上がりを通り越えてご自身の無知を暴露しているようなものではないでしょうか。小出氏が、タクシーを個別選択的な乗り物と考えるように、煙草のにおいを嫌う方にとってもタクシーは個別選択的な乗り物です。それが煙草くさかったら、もはや 個別選択的とは言えません。物事を、ご自分の視野からしか見ようとしない小出氏の悪い面が出ているようにしか私には思えません。

世界で初めて国家的禁煙運動を始めたのは、ヒトラーである。「たばこは赤色人種が白人にかけた呪いである」 と断じた彼は、ドイツ民族の純粋性を守るために徹底した禁煙を求めた (健康帝国ナチス、R・N・プロクター著、草思社) 。同時代の独裁者、ムッソリーニもフランコも禁煙主義であり、彼らに対抗したルーズベルト (紙巻き) 、チャーチル (葉巻) 、マッカーサー (パイプ) はいずれもたばこのみだった。禁煙は、下手をするとナチスのように他者の存在を認めない原理主義に陥ってしまう。 スー族はいま、それを憂えているのだ。

これは、小出氏の個人的な考え方ですから、これに異論をはさむ気は有りません。ただ、確証も無いまま誇張された表現が読む人をそのように思い込ませてしまう危険性が有ることを、私は憂いております。

読売新聞の取材に小出氏は「禁煙者と喫煙者の共存のために多様な選択肢が必要だということを書いたつもりだが、配慮を欠いた部分もあった。文章を訂正する必要はないと考えているが、今後、反省すべき点は素直に反省したい」としております。尚、中日新聞には小出氏の意見に対する反論が多く寄せられましたが、中には、「筆を折るな」「よく言った」というような「激励」のメッセージも有ったと言われております。喫煙者の権利も当然尊重されるべきですが、ただ、タクシーの喫煙だけは尊重される喫煙権ではないことを、ここで申し添えておきます。


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