−日記帳(N0.1998)2007年06月10日−
江戸は世界一清潔な都市だった
−日記帳(N0.1999)2007年06月11日−
清潔さは屎尿の売買で保たれた


下肥問屋に雇われた汲み取り人

昨日の日記で述べましたように、江戸は18世紀から19世紀にかけて世界最大の都市であるとともに世界最高水準の上水道が整備されていたことに加え、日本独特の「下肥システム」が下水道の役割を果していたため、江戸は世界一の清潔にして衛生的な都市でした。この頃のパリは街路に撒き散らされた糞尿で悪臭の街と化し、ルイ14世の居城のルーブル宮殿(現在は博物館)にも及び、この悪臭に耐えかねたルイ14世はパリの南西18kmのイヴラン県にベルサイユ宮殿を建って移住したことは有名な実話で、如何に欧州の都市が不衛生であったかを物語っております。

お米は江戸時代最大の生産品で、江戸中期以降450〜500万トン、石高にして3,000万石強、金額換算で当時の総生産品の36〜38%を占め、江戸庶民の米代は最盛期の文政年間(1818〜1830)には妻と子供一人の所帯で収入の22%と最大の支出になっておりました。このお米を作るのに、化学肥料の無い当時は下肥は欠かせない貴重な肥料でした。農民たちはこの下肥を入手するために江戸などの街中にまで出向いて屋敷や長屋から排出される排泄物を運び出すことに躍起になっておりました。

江戸時代初期の庶民の便所は、厠(=かわや=川屋)と呼ばれる簡易共同便所でしたが、川の汚染防止のために禁止され、長屋、屋敷などの居住地域毎に設置された貯便槽を兼ねた共同便所に代わっていきました。やがて、貯便量が纏まるようになると需要供給の原理が働き、専門の下肥問屋が出来て汲み取り人を雇って共同便所から排泄物を汲み取って農村に運んで販売する下肥システムが確立されるようになりました。

この結果、農民たちは街中まで出向いて重い桶に排泄物を入れて持ち帰る重労働から解放され、大家は纏めて下肥問屋から支払われる排泄物の代金を長屋の補修に当てることが出来、失業者には格好の食い扶持になり、問屋には倉庫も店も要らない上、需要供給が常に安定していい商売になったようです。排泄物の相場が急騰したため農民たちが街中に押しかけて騒動を起すことも有りましたが排泄物をこのように有効利用して街を排泄物による汚染から守り、農民たちに良質の肥料を配達するという世界史上稀にみる天然のリサイクルが幕末から戦後まで行なわれてきたのでした。

お米を食べて排泄し、その排泄物でお米を作り、副産物の藁は畳、筵、縄等に利用され、利用済みになれば燃料として使われ、残った灰は肥料として土地に還元されるという、このような見事な排泄物のリサイクルは、地球温暖化防止のためにいずれ見直される時が来るかも知れないとの私の思いは妄想、戯言の類なのでしょうか。


神田川と日本橋川の分流点の下流に有った江戸時代の小石川橋
(画面内でクリックすると現在の小石川橋に変わります)

神田川は小石川橋で東南に分流し、東側は御茶ノ水方面に流れて聖橋、万世橋、浅草橋を経て両国橋で隅田川に合流し、南側は小石川、更に竹橋付近で平川と合流して東京湾の日比谷入江に流れておりました。しかし外国艦による艦砲射撃の砲弾が江戸城まで届かないようにすること、人口増加で宅地が不足していたこと等の事情から日比谷入江を埋め立て、更に江戸城への物資輸送ルートを確立するために平川を船入堀(道三堀)を経由して永代橋から隅田川に注ぐ運河を作りこの運河に流路を変えました。この川が現在の「日本橋川」です。 ただ、それまでの小石川は完全な暗渠となってしまいましたので、実質的には日本橋川は竹橋から永代橋までとなります。

現在の田町・日比谷・霞ヶ関・新橋周辺は、この日比谷入江の沖合いの海底で、日本橋から有楽町にかけては砂洲だったこと、更に上述の運河の造成、神田川等からの上水の引水等の徳川幕府の土木工事は、国防、治水、衛生、宅地造成、経済発展等を広範囲に包含した壮大な計画に基づくもので、世界にもその例は見られないもので今更ながら徳川家康の先見性に驚くばかりです。また、江戸という地名がこの埋め立てられた日比谷入の門に由来していることを知り、的を得た命名と感心した次第です。

こうして、作られた運河の日本橋川は竹橋から内堀の平川濠に繋がっておりましたので、船で江戸城に食料品等の物資を運ぶとともに場内で発生した不要物を引き取っておりました。不要物の中で最も重要なのが、大奥などからの排泄物、つまり屎尿で、江戸城御用下掃除人の資格を持つ人物がが担当しておりました。その中に、葛西権四郎という人物がおり、彼はここからでる屎尿の肥料としての品質が高く、葛飾郡葛西領の農村で高く売れることに目を付けて大成功を納めたのです。実は、江戸市中から出る屎尿には、その出所によって値段がランク付けされておりました。

・1位:江戸城・大奥から出る屎尿(超高級品)
・2位:勤番、主に大名屋敷から出る屎尿(最上級品)
・3位:A町肥、江戸の町方の家、長屋から出る屎尿(上級品)
・4位:B辻肥、四辻などに農民が設置した便所の屎尿(並品)
・5位:C牢屋敷などから出る屎尿(下級品)

市中で一般的に流通するのは2位以下で、最上級品は上級品の4、5倍したと言われますから超高級品は法外な値段で取引されたはずで、葛西権四郎が莫大な利益を得た理由はここに有りました。彼は、葛西船と呼ばれた大型船で、江戸城大奥から排泄された屎尿を隅田川から江戸川を上って、江東区、墨田区、葛飾区、荒川区の江戸川沿いの地域の農村に売りまくりましたが、中でも葛西(現在の江戸川区南部)で、この江戸城・大奥から出る超高級品の屎尿を使って作られた野菜がとても美味しいため葛西菜として珍重されました。 そして、五代将軍徳川綱吉はこれを特に好み、隣の小松川村に住んでいた碗屋七兵衛なる人が改良したことから彼の在村名にちなんで、小松菜の名を賜ったと言われております。

よくよく考えてみれば、当時の小松菜は美味しいわけです。何と言っても毎日美味しい料理を食べていた 将軍とその家族、お局たちから排泄された大便には肥料としては最高級の成分を含んでいたはずだからです。五代将軍徳川綱吉は、この小松菜の栽培に使われた屎尿に自分が排泄したものが含まれていたことを知っていたのでしょうか。このようにして、世界に冠たる江戸の清潔さが屎尿の売買によって保たれたこと、そして売買される屎尿の値段が食べ物によって定まり、高級な屎尿によって小松菜のように美味しい野菜が作られていたことに、今更ながら驚き、江戸時代の人たちの知恵に敬服した次第です。


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