−日記帳(N0.2000)2007年06月12日−
今年12回目の釣りでアジの初釣り
−日記帳(N0.2001)2007年06月13日−
御園座で「暴れん坊将軍」観劇


6月6日の今年11回目の釣りは不調に終わったため、敢えて日記にはアップしませんでした。何時もの渥美のポイントのメバル釣りは6月でほぼ終わりを告げますので、それまでに出来る限り釣行しておきたいと考え、昨日が天候も弱い南風で穏やかな上、潮周りも若潮の後の中潮で絶好であることから今年12回目の釣りを何時ものポイントで行なうべく、午後1時頃に自宅を出発しました。

先回の釣りで、型のいいアジが1枚だけでしたが釣れましたので、そろそろアジが釣れ出すのではと考え、去年から冷凍庫に保存してあったアミエビの使い残しをクーラーに入れておきました。ポイントに行く駐車場に着くと、丁度釣り終えて釣りの用具など車に積み込んでおられる方にお伺いしたところ、アジが小ぶりながら釣れ出したことを教えて頂きました。

早速、ポイントに着いてから、魚探の画面を覗いてみたところ、アジの群れと思われる黒点が海面下数メートル付近に映っておりましたので早速、サビキ仕掛けを投入したところ、アミカゴに撒き餌のアミエビを詰めていいなかったのにいきなりブルブルと竿先が揺れて当たりが有りました、上げてみると10センチ前後の小アジでした。メバルでしたら、リリースするサイズですが、この小アジなら頭ごと唐揚げにして南蛮漬けにして食べられますので持ち帰ることにしました。

一昨年の10月、同じこのポイントで先客の釣り人と隣りあってアジ釣りをしたところ、その方は仕掛けを投入する度に確実に1尾は釣り上げるのに私の仕掛けには全く掛かってこないことが有りました。その原因がアミカゴに有ったことをこの日の日記 に書きましたが、今日はその時の反省からよく釣れる方のアミカゴを持って来ました。やはりその効果的面で、投入すると直ぐに当たりが有り、数尾が掛かってくることも有りました。

アミエビは去年の使い残しで半分しか無かったため、またたく間に残り少なくなるとともに当たりがポツポツとしか来なくなったので場所を変えるべくボートをメバルのポイントの西に移動しました。早速投入したのですが、直ぐには当たりが出ません。何回か撒き餌を詰め替えて投入を繰り返していくうちに当たりが出ました。しかし1尾しか掛かっていませんでした。どうやら。ここの群れは小さいようでした。丹念に1尾づつ釣り上げてようやく60尾ぐらいになったところでエサ切れとなりアシの竿は納竿しました。

日が暮れてから、メバル釣りに変えたのですが、先回入食いになったこのポイントでプツリともきません。1時間ほどで諦めて更に西のポイントに移動したところ、いきなり当たりが有り、20センチオーバーがきましたが後が続きません。結局、あちらこちらに移動して後は中物ばかり10尾ほど上げて納竿しました。次回からアジに狙いを切り替えることにしました。


御園座の招待券2枚を入手したのですが、妻が所用で行けなくなりましたので釣り友のNさんを招待することにし、今日の午前10時半に御園座の正面で待ち合わせて11時から、松平 健の「暴れん坊将軍スペシャル〜唄って踊って八百八町!〜」と「唄う絵草紙」を3時近くまで観劇してきました。テレビドラマの「暴れん坊将軍」は、テレビ朝日系列で1978年(昭和53年)から2003年(平成15年)まで25年間に渡って829話が放映された長寿人気番組でした。私も結構、好きで折が有れば視聴しておりました。今日の「暴れん坊将軍スペシャル」は次のような筋書きになっておりました。

満開の桜咲く江戸城内で吉宗の白昼夢から幕が開きました。亡き母への鎮魂として腰元たちと華やかに舞っていた吉宗に彼にしか聞こえない子守唄と彼にしか見えない巡礼の幻影が・・・・、これが物語のモチーフとなっていきます。やがて、舞台は幕府転覆を図るために廻船問屋と結託して外国船から大砲や鉄砲を密輸を企む浦賀奉行を、ご存知徳田新之助がかわら版屋の女性二人と力を合わせて立ち向かっていくという筋書きで展開し、例によってめでたく悪人一味を成敗することで終幕となりました。暴れん坊将軍に出てくる吉宗と実際の吉宗とでは大きな違いが有ることは当然ですが、今回はひとつ共通点を見付けました。それは、吉宗の生母のことです。今日はこのことを取上げてみたいと思います。

実は、吉宗の母、お由利の方のことをネット上で調べてみたのですが正直、よく判らないのです。ジェームス三木脚本によるNHK大河ドラマ第34回「八代将軍吉宗」が平成7年1月8日から7年12月10日まで放映され、その中で吉宗(西田敏行)の生母、お由利の方(山田邦子)が登場しておりました。NHKは事前にお由利の方について調査したのですがよく判らず、そのお墓の所在を精力的に調査したのですが、結局判らずいまだに謎のままになっております。テレビドラマ「暴れん坊将軍」の中でも、しばしば吉宗の母が登場しますが、大奥ではなく深川界隈で1人侘しく過ごしているという設定になっております。

将軍が嫡子の場合、その生母は大奥で過ごすのが本来ですが、お由利の方が大奥で過ごしたとの史実は有りません。ドラマでは彼女が謙虚でそのような煌びやかな生活から逃避したことになっておりますが、実際は大奥で過ごせるような身分でなかっただけのことです。それは、吉宗の出生に原因が有りました。吉宗は、徳川御三家の一角、紀州藩ニ代藩主・徳川光貞の四男として生まれましたが、妾腹の子でしたから将軍職に就くことはおろか紀州藩主になることすら本来なら叶わぬ身の上でした。

しかし、3人の兄たちは、まず三男の次郎吉は夭折、長兄の綱教も3代紀州藩主を継いで間もなく、次兄の頼職も4代紀州藩主を継いで間もなくそれぞれ若死にしたため、22歳で紀州藩第5代藩主に就任する幸運に恵まれました。一方、徳川家継もまた第6代将軍家宣の四男として生まれながら3人の兄たちが夭折したため5歳という歴代最年少で第7代将軍に就任する幸運に恵まれたもののその2年後に7歳で夭折したことが 吉宗に更なる幸運をもたらしたのです。そして更なる幸運が吉宗にもたらされました。

宗家の血筋が絶えた場合は、家康の遺言により徳川御三家が将軍職を継承することになっており、その場合は御三家筆頭の尾張藩主が最有力になるはずでした。ところが当時の尾張藩主は第6代徳川継友でしたが、家康が吉宗の曽祖父に当たるのに対して、継友には曽曽祖父に当たることから吉宗の方が家康に血筋が近いとの理由で幕閣や大奥で吉宗を推す中で、影の実力者6代将軍家宣の正室天英院の指名を得るという幸運に恵まれて徳川継友との争いに勝って宗家以外からはじめて8代将軍に就任したのでした。

吉宗の生母お由利の方は、彦根の町医者の娘、大和出身の武士の娘、巡礼の娘等諸説有りますが、巡礼説が最有力のようです。「暴れん坊将軍スペシャル」でも彼にしか見えない巡礼の幻影が付き纏うことをモチーフにしていることから巡礼説を採っております。巡礼説では、お由利の方が母と弟と3人連れで和歌山市にある大立寺の前に来た時、母が急病で倒れこの寺の住職の面倒になったと言われております。そして、住職の紹介で和歌山城に登ったお由利が湯殿係として藩主光貞に寵愛され、生まれたのが吉宗で、幼名を源六、新之助、頼方などと称したと言われております。尚、この寺にはその母(後の冷香院)のお墓は有りますが、お由利の墓は見つかりませんでした。

こうして、吉宗は1716年8代将軍に就任して以来、御三家の水戸家から15代将軍慶喜が就任する1866年までの150年間にわたって新たな宗家として吉宗の直系子孫が将軍として君臨したのでした。吉宗は自分が神君家康公の生まれ変わりと考えていたほどに幕府中興の祖として不動の地位を築いているのですが、それでも、江戸城大奥に生母を呼ぶことはできませんでした。徳川家はその血筋を守るために身分を厳しく差別し、嫡子の流れを表に出して、庶子の流れは闇に葬ることも敢えて辞さなかったようです。それが故に、実力者将軍吉宗の生母言えどもその墓を処分してしまったのでしょう。松平健さんはこのことを知っていたのでしょうか、生母のことに思いが及ぶと何時も悲しそうな表情をしていたのが印象的でした。

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