−日記帳(N0.2010)2007年06月22日−
あるヨットマンの果敢な挑戦(1)
−日記帳(N0.2011)2007年06月23日−
あるヨットマンの果敢な挑戦(2)


アメリカズカップ参加艇の帆走風景

私は、学生時代に少しの間でしたがヨット部に所属していたことが有りました。来る日も、来る日もヨットの牡蠣ガラ落としばかりやらされて、ヨットに乗せてもらえないのでくさっておりました。そして、漸く先輩とデンスケと呼んでいた一人乗りのヨットに乗ることができたのですが、帆を反転させるタッキングという操作に失敗してヨットは45度以上傾き私は海中に放り出されるというミスを犯してしまいました。そして、先輩から「お前は体重が少なすぎるのでデンスケを操るのは無理だな」と言われてがっくりしました。

目標の方向から逆風が吹いている場合、ヨットは目標方向に向かって真っ直ぐには進めませんが、進行方向に対して約45度の角度を保持しながら進むことが出来ますので、上述のタッキングによって帆を交互に反転させることで向きを変えながらジグザグに帆走させることで目標方向に向かっていきます。この走法(クローズホールド)では斜めから帆が風を受けるのでヨットは傾きます。より風を強く受けてスピードを上げようとすると、傾きが大きくなってそのままでは転覆してしまいます。そこで傾きの反対方向に身を乗り出してテコの原理でバランスをとって傾きを抑えスピードを維持するわけです。

よく、上の画像に見られるようにアメリカズカップなどでクルーが反対側に集まって身を乗り出している様子が見られますが、あれは以上の理由によるもので海上の風景を楽しんでいるわけではありません。従ってデンスケは1人乗りですので自分の体重だけでバランスをとらなければなりませんので最低でも60kgぐらいの体重が必要ですが当時私は50kgしかなかったので先輩から指摘されたのでした。そんなこともあって嫌気がさしてヨット部を退部してしまいました。しかし、一応帆走経験が有り、帆走原理も心得ておりますので今でもデンスケクラスの小さいヨットなら自力で帆走できます。そこで、私はヨットレースやヨットによる世界一周などに並々ならぬ興味を抱いております。

今年は、4年おきの世界最大の国別ヨットレースの「アメリカズカップ」と2年おきの世界最大の海洋横断ヨットレース「太平洋横断ヨットレース」が開催されますのでヨットファンにはいずれも見逃せません。この「太平洋横断ヨットレース」には、西から東へのコース(横浜―サンフランシスコ)東から西へのコース(ロサンジェルス―ホノルル)の二つのコースが有り、今年は東から西へのコースで、7月12日から行なわれます。このレースに日本人男性6人が参加しますが、このレースに参加する挑戦艇を出発地のロサンゼルスに回航するために、現在4人のクルーがこの挑戦艇に乗り込んでロサンゼルスに向けて帆走中です。この中に私の間接的な知人が居られますので明日はこのことを取上げてみたいと思います。


榊原半田市長等4人が40年前に世界一周に使ったヨット白雲号
(現在は碧南市の沿岸でまたの使用に備えて保管されてます)

4年ほど前に我が家のリフォームをして下さった大工さんにNさん(65)が居られます。三代続いている大工さん家に育っただけに大変腕がよくリフォームの出来栄えは我が家を訪れる人たちが驚くほどに見事なものでした。そのNさんと3時の休憩の折に世間話しをしているうちにNさんが凄い方だと判り、この日記帳の2003年11月12日の「 凄い夢を実現した大工さんの話」にその凄さを紹介しました。

実は、彼は小さい頃からヨットを木造でを手作りすることに興味を持ち、中学時代にヨット好き同級生3人と仲良しになり、何時の日かNさんの手作りのヨットで世界一周する夢を抱くようになり、実際にその夢を実現したのでした。昭和37年(1962) に堀江健一さんがヨットによる太平洋単独横断の快挙を成し遂げた4年後の昭和41年(1966)に、同級生3人とにヨットによる世界一周を決断し、そのためのヨット作りを決意し、図面を探し廻った結果、希望に沿う図面が見付かったのでこれを大金をはたいて購入し本業の大工の仕事の傍ら、同級生3人のうちの1人で地元高校のヨット部出身のSさんの自宅の庭を借りてヨットを作りはじめました。

そして、3年後昭和44年(1969)にヨットは完成し「白雲号」と命名しました。そこで、同級生の中でリーダー格で艇長のSさん、Nさん、Iさん、Tさんの同級生仲間4人を乗せたヨット「白雲号」は、昭和44年5月29日に家族、友人、関係者たちの見送りを受けて最初の寄港地の米国・ロサンゼルスに向けて半田港を出港したのでした。そして43日間かけて、昭和44年7月10日に米国・西海岸のサンペトロ湾にあるロサンゼルス港沖に到着したのでした。

実は、このSさんこそ、我が街半田の市長の榊原伊三氏で、この世界一周の様子は彼の後援会が開設しているサイトの中の「private」をクリックしますと「星と船と港」が表示されます。これによりますと、彼等はロサンゼルスで半年間英会話学習のために滞在した後、次のようなコースをとって、日本を出てから2年後の昭和46年(1971)6月29日に半田港に入港しております。

・パナマ運河経由カリブ海から南米大陸東岸へ:
スエズ運河を渡ってカリブ海に出て、折れたマストをコロンビアの港町カルタヘンに緊急立ち寄りしてNさんの手で修復したものの寝込みを泥棒に襲われてカメラ、撮影済みのフィルム、その他多数を盗られるという災難に遭っております。その後、南米大陸東岸を南下して英国から独立したばかりの国、ガイアナのジョージタウン沖の無風海域でプロペラに魚網を巻きつけてしまい、巻きついたまま苦心惨憺して風を捉えて近くの港に緊急入港して燃料補給してから東隣のスリナム国のパラマリボを経てブラジルのベレンまでの無風海域を8馬力のジーゼルエンジンで機走しております。それでなくてあのおびただしい量のポルトガル語の書類仕事はとても自分だけでは出来るものではない。幸い「アスタマニアーナ」の国である。多少の事は大目に見てもらったようだ。

・南米大陸東岸沿いにリオデジャネイロへ:
アマゾン川から吐き出された大量の砂で浅くなった河口で底を砂地でこする危険に遭いながら、朝夕の定期便のようなスコールをぬって、上げ潮の時だけを走り、下げ潮の時は錨泊し次の上げ潮を待つことを繰り返して3日かけてアマゾンの支流のパラ河にあるベレンという街に昭和45年7月15日の朝着きました。しかし、ここでも就寝中に船用の電気掃除機やラジオ・計算尺、フラッシュラクトその他の小物をどっさり盗まれてしまいました。そして8月にフォルタレザ、9月にレシーフェとサルバドールそして9月末にリオデジャネイロに着き10月末の出帆まで4ヶ月間滞在しております。ブラジルでは出入港手続き等は日本大使館・領事館、滞在中は各地の日本人会など邦人組織の支援を受けております。

・大西洋を東進してアフリカ大陸最南端の喜望峰へ:
リオデジャネイロを出港してから約1ケ月後の昭和45年12月1日に喜望峰のある南ア・ケープタウンに入港しました。当時はまだアパルトヘイトと呼ばれる人種差別の激しい中、日本人は名誉白人ととして白人扱いされた上、既に日本から世界一周中との新聞報道でちょっとした有名人扱いされ、日本領事の特別待遇、法人組織の歓迎行事だけでなく、街中でも市民から声を掛けられるなどして楽しく過ごし、12月22日に日本郵船の「しかご丸」で日本からの荷物を積み込んで2日後のクリスマスイブに、大勢の市民の見送りを受け惜しまれながらもケープタウンを出港しました。

・インド洋の南側を東進してオーストラリア大陸西岸へ:
喜望峰からオーストラリア大陸に至るインド洋の南緯40度台の海域は、ローリング・フォテーィズ(咆える40度線)と呼ばれる暴風域で太古の昔から船乗りに恐れられております。ケープタウンを出帆して6日間は穏やかな日が続き風を求めて南下を続けましたが7日目に西からの暴風が吹き始め、帆を縮める間もな無く帆柱が吹き飛び、ヨットは横倒しになり緊急用救命ボートが水深3mの水圧を感知してガスボンベが開栓して膨らみ大きなゴムボートとなって海上に漂ってしまいました。もし、これが漂流して発見されるとかれ4人は死亡したものと見做され救助活動が中断されてしまう恐れが有ることから必死になってゴムボートを回収しております。

小さくなった帆での応急の帆装でスピードを得るには風の強い所を選ばねばならず海図の上でも流氷が来るラインすれすれのローリング・フォーティーズまで南下し、西からの貿易風をつかみ一路オーストラリアのフリーマントル目指して帆走しました。恐らく彼等4人にとってこのケープタウンからフリーマントルまでの水温、気温ともに4℃前後の寒さに加え毎日のように吹き荒れる強い西風の下での50日間が最も厳しい航海だったと思われます。現に、この間見掛けた船はで2隻だけだったとのことですから。当時、この時期は一般の船舶も敬遠されていたようです。

ここで、私が驚いたのは彼らが水圧感知式の緊急用救命ボートを積載していたことです。実は今年の2月に宮崎県の漁船が大型船に当て逃げされて沈没し、乗組員3人が海に投げ出されたのですが、船長の機敏な処置で投下された同じタイプの緊急用救命ボートが水圧を感知して膨らみ無事3人がこれに乗り移って助けられた事件が有りました。その時、便利な物があるものだと感心したのですがそれと同じ物が40年も前に存在しており、それを榊原艇長がヨットに積み込んでいたその先見性に敬意を表したいと思います。もしもあの時、「白雲号」が沈没しても彼等4人はこの救命ボートに乗り移ることで救助を待つことが出来たからです。尚、この事件は、日記帳の2007年2月15日の「遭難・漂流して奇跡の生還に思う 」で紹介しております。

・オーストラリアに南側から太平洋を北進して帰途に:
昭和46年2月中旬に、オーシトラリアのフリーマントルを出帆してソロモン諸島に向かいました。ここで不思議に思うのは、ソロモン諸島に向うにはオーストラリアの北側を航行したほうが近道のコース(下の図の赤線)なのに、敢えて南極に面するオーストラリアの北側のオスマン海を通ってメルボルン、シドニー沖を通過する遠回りのコース(下の図の黒線)をとったことです。こうして、彼等は昭和46年5月24日に、日の出と共に広がる視界に富士山に似た山を仰ぎ見ることができました。


これが、活火山 ダブルブルだったと思われます。ラバウル港に入港して日米両軍の戦跡を訪ね往時を偲んでから、kここで2泊して5月27日朝クラブに寄港している沢山のヨットが見送りを受けながら出帆し、1943(昭和18)年4月18日、聯合艦隊司令長官・山本五十六元帥一行を乗せた一式陸攻機がこのラバウル基地を飛び立った後、米軍のP-38戦闘機に撃墜されて戦死したことでも知られているブーケンビル島沖を眺めながら進路をグアム島にとり、6月7日にグアム島に入港しました。そして、昭和46年(1971)6月29日に約2年ぶりに無事半田港に帰港したのでした。尚、榊原市長の手記では、昭和46年(1971)5月29日帰港と記載されておりますが、6月7日にグアム島に入港している事実から明らかな記載ミスで、昭和46年(1971)6月29日が正しいものと考えてここではそのように記載させて頂きました。

前置きがこんなにも長くなってしまいましたが、本題の「あるヨットマンの果敢な挑戦」の主人公をご紹介するのには、どうしても欠かせなかったのです。実は今から40年ほど前に、この白雲号に乗って手作りのヨットによる世界一周の偉業を日本人として初めて成し遂げた4人のクルーの1人Tさんこそ、64歳にしてあの「太平洋横断ヨットレース」への挑戦艇「ベンガル7」を出発地のロサンゼルスに向けて回航すべく現在、太平洋を帆走中の4人のクルーの1人、高須洪吉さん(64=半田市)その人だからです。このことは近日中に取上げてみたいと思います。


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