−日記帳(N0.2042)2007年07月29日−
美しい日本に思うこと(2)
−日記帳(N0.2043)2007年07月30日−
美しい日本に思うこと(3)


小泉八雲が尊敬していた山口乙吉さん

2007年06月10日付けの日記、「江戸は世界一清潔な都市だった」で述べておりますように、1700年代の江戸は人口100万を擁する世界最大の都市だっただけでなく、上水道整備、下肥循環システムにより世界一清潔な都市でした。そのことは、当時日本に来た外国人が異口同音にその思いを書き残しておりますので紛れもない事実だったと思います。そして、明治に入って欧米諸国が上下水道整備したことから都市の清潔さでは欧米に一歩譲った形になりましたが、江戸の庶民たちに残る江戸しぐさと称される立ち振る舞いには世界一の美しさが江戸時代から残っていることが、これまた日本にきた外国人のよって記述されております。

例えば、大森貝塚を発見したエドワード・モース(1838〜1925)は、1877年に「日本人観察記」の中で、次のように述べております。
「日本人に教えるつもりで来日した外国人は数ヶ月すると、自国では重荷になっている善徳や品性を、日本人は生まれながらにして持っていることに気付くようになる。衣服の簡素、家庭の整理、周囲の清潔、自然及びすべての自然物に対する愛、あっさりとして魅力に富む芸術、挙動の正しさ、他人の感情についての思いやり…これらは恵まれた階級の人々ばかりではなく、最も貧しい人々も持っている特質である」

また、昨日述べましたように、我が故郷焼津を愛した小泉八雲は1904年に名著「日本一つの試論」の中で次のように述べております。
「町や家や身辺はいつも清潔で塵ひとつ落ちてなく、住民はいつもニコニコと上機嫌で、大声で喧嘩する者はだれもなく、どんな難儀なことがおこっても明るい笑顔でていねいにお辞儀をしあい、とんまな犬やひよこなどの動物にもきわめて親切で、わたしがかつて住んだことがある、ある町では何百年間も盗難事件もなく、新しく建てられた刑務所もしじゅうがらがらで用がなく、町民は昼夜も戸に錠というものを閉めたことがなく…。」

この二人の外国人が共通に指摘しているのは、「江戸しぐさ」に代表される立ち振る舞いの美しさだと思います。小泉八雲が焼津を訪れたのは明治30年(1897年)で、「日本一つの試論」を書いた1904年の7年前でしたので、山口乙吉さんにその美しさを見出していたことと思います。私も、山口乙吉さんと同じ町内で生まれ育った生粋の焼津っ子ですから判るのですが、きっと山口乙吉さんも漁師町特有の荒っぽい話しかたの「焼津弁」で小泉八雲と会話したことと思います。それに、山口乙吉さんは気が短くて怒りっぽい性格だったので、山口乙吉さんと小泉八雲が会話している様子に立ち会ったら、そこには「江戸しぐさ」など微塵も感じ取れなかったことと思います。

しかし、その山口乙吉さんを小泉八雲は「神様」と呼ぶほどに尊敬し愛していました。それは、小泉八雲とその家族がひと夏を楽しく過ごせるように細かい配慮をしたり、惜しげもなく商売用の魚を料理して振舞ったりする立ち振る舞いが言葉ではなく行動に表れていたからだと思います。小泉八雲が、ある時山口乙吉さんに「東京へ行ったことはあるの?」と聞いたところ、「一度行きたいと思っているのですが、まだ行ってないんですよ」と答えたのを聞いて、小泉八雲は日本人の奥ゆかしさを感じたと述べております。

英語を話す小泉八雲は当然、「No」と答えるものと思っていたので意外だったのですが、山口乙吉さんはこの種の質問には否定の返事をする場合、常に「いいえ・・・・」の否定文ではなく、丁寧に否定するに至った経緯を話したのでした。 小泉八雲は、このことを質問者への思いやりが込められていると感じ取ったのでした。こうした山口乙吉さんの言動や近所の人たちの生活ぶりを通して美しい日本を感じ取り、「日本一つの試論」を書き上げていったことと思います。小泉首相の唱える「美しい日本」の一端をここに垣間見る思いがします。


作文コンクールで最優秀賞を受賞した演題目次

「その日、小雨の降る中、僕と父は一緒に道を歩いていた。すると向こうから来た人がすれ違う時、僕たちが通りやすい様にと傘を傾けてくれたのである。その人にお礼を言った後で、父が『ああ、江戸しぐさがまだ残ってるんだね』と嬉しそうにつぶやいた」

上のメッセージは、平成17年度「中学生の主張東京都大会」で最優秀賞を受賞した墨田区立立花中学校3年生(当時)の渡辺隆介君の「江戸しぐさ」を演題とする作文の一文です。

「江戸しぐさ」は、その発祥は徳川家康の江戸開府に遡ると言われております。家康は1590年に江戸の地を秀吉より与えられた時点で密かにいずれはこの地で開府する計画を立て、関が原の戦いに勝利してから「Xプロジェクト」のような一大プロジェクトを打ち立ててその計画の実行にとりかかったと言われております。その際のスローガンは
「水清く、入り江ありて、真魚ゆたか、四方見渡せる商いの町」で、
次の4項目を基本方針としたようです。

1.商業についてはあくまでも商人の自由に任せる
2.江戸の中に商人のための土地を無償で与える
3.そこから土地の所有税を取らない
4.行政は家臣団による上からの統治ではなく町人の自治を認める

うわべは「士農工商」で商人を身分的には最下層としながらも、町の発展は商人の活動によるという、言わば現代の企業誘致による地域経済発展をこの時に見抜いて実行した家康は流石だと思います。この政策は、後に江戸が世界最大の都市として栄える土台になったわけですが、家康は他にも、神田川から水を江戸市内に上水道として引き、下肥循環システムによって下水道不在を補完して江戸を世界一清潔な都市する土台を築いております。そして、世界一美しいと言われた江戸市民のこころのよりどころとなった「江戸しぐさ」も家康の意を受け継いで江戸の商人たちが築き上げていったものでした。

戦いのない、いじめのない世を作ることを願った家康の意を受け継いだ江戸の大商人を中心に、「江戸講」が開かれ、ここで「江戸思草(しぐさ)」が実践されました。「思」は考えること、「草」は行動することに通じ、単に読み書きを覚えるだけでなく、「知って、考えて、実行する」 ことを実践した「江戸講」は人々の共感を呼んで広まっていき、何時しか「江戸しぐさ」としてその後、明治維新まで語り継がれていきました。「江戸講」が意図する「江戸しぐさ」の趣旨そのものは何ら問題ないのですが、経済力を背景に結束力でこれを継承させていこうとする「江戸講」のシステムは、明治政府にとって脅威であったことから明治政府は徹底的に「江戸講」に弾圧を加えてそのしくみを解体してしまいました。

次の4項を基本理念としていた「江戸講」によって受け継がれてきた「江戸しぐさ」は徐々に人のこころから離れていきました。

1.目の前の人を仏の化身と思い、一期一会を大切にする
2.時泥棒をしない
3.相手の肩書きを気にしない
4.遊び心を持っている

しかし、1.の理念はいろいろな形に変わって東京の下町に語り継がれていったようです。この辺りの事情を、越川礼子さんが「江戸の繁盛しぐさ:日本経済新聞社刊」などの著で解説しておられます。
例えば、狭い道を通りすがる人同士が傘を傾ける「傘かしげ」、狭い道を歩く時の「蟹歩き」、渡し舟での席を詰める「こぶし腰浮かせ」などがその代表で、その中の「傘かしげ」が冒頭にに紹介したように渡辺隆介君によって作文として発表され、見事に最優秀賞に輝いたのでした。 このような「江戸しぐさ」に代表される他人への思いやりこそが「美しい日本」としてあるべき姿ではないでしょうか。 尚、本稿は江戸しぐさかたりべの会・辻川牧子さんの講話を参考にさせて頂きました。


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