−日記帳(N0.2056)2007年08月12日−
ペルセウス座流星群のこと
−日記帳(N0.2057)2007年08月13日−
終戦詔書に思うこと


岡山で観測された流星(倉敷科学センターより)

今晩から明晩にかけてペルセウス座流星群の活動が活発になる上、新月で月明かりが全く無いことから、今晩は絶好のチャンスと期待して就眠前の8月13日の午前3時頃、自宅の二階のベランダの床の上に寝転がって天空を見つめておりました。しかし、残念なことに天空の大半が雲に覆われておりました。

そよそよと東南から吹いてくる涼風を体に受けながら、東から西に流れ行く雲の切れ間の星空に視線を注いでおりました。5分過ぎて、10分過ぎても雲が動くだけで何ら動くものは見当たりません。およそ15分過ぎた時、東南の空の雲間に一閃の光が走りすぐに消えました。紛れも無い流れ星です。「やったー!」とつい大声で叫んでしまいました。でも、本当は暗黒の夜空に直線的に走る流星を見たかったのですが、贅沢は言えません。久しぶりの流星でした。

この日は全国的に雲間が多く、残念ながら流星観測には不向きだったようです。国立天文台では、ペルセウス座流星群の活動が活発になる8月11日の夜から14日の朝にかけて、15分以上夜空を眺めることで、その間に何個の流れ星を見ることができたかを集計しておりますが、その結果によると、西日本より東日本の方が多く観られたようです。

上の画像は、私が寝転がって天空を見つめていたのとほぼ同じ日時の8月13日の1時15分に岡山県井原市美星町で撮影されたペルセウス座流星群による流星ですが、北東のぎょしゃ座の1等星・カペラの近くで鮮やかなピンク色に輝いて最後は爆発するように消滅した大火球でいへん美しかったそうです。この日記を書いたのが8月15日ですので、結果として私は、13日に1個、よく晴れた今日の早朝2個の計3個を観測できましたが、残念ながら撮影する機材が有りませんので撮影することは出来ませんでした。せめて、上の画像を見てその感動を再現することにしました。


終戦詔書の正本(国立公文書館所蔵)

明後日は、62回目の終戦記念日です。62年前の8月14日、御前会議でポツダム宣言受諾が決定し、既に8月9日頃から秘密裏に迫水久常内閣書記官長にその作成が指示されていた終戦詔書が天皇によって承認され閣僚のサインを得たことで天皇・政府としての終戦の手続きが終了し、中立国を経て連合国にその要旨が打電されました。上の画像はその終戦詔書の正本のようですが、原本には紙を貼って訂正を行った跡が数多く見られるとのことですから、時間に追われながらも悪戦苦闘して作成した経緯が偲ばれます。

終戦詔書の作成を指示された迫水久常内閣書記官長は、後に第2次池田内閣の経企庁長官、郵政大臣等の要職を歴任しましたが、終戦詔書がどのようにして作成されたかについて多くを語らず、その真相は謎に包まれたままになっております。ただ確かなことは、あの格調の高い名文は漢学者の手を経ずしては到底成し得ないと思われることから、当時迫水久常氏が師事していた二人の漢学者に協力を仰いだことは間違いない事実のようです。

その漢学者が、後の早大教授で当時内閣嘱託だった川田瑞穂博士と、後に中曽根元首相をはじめ歴代首相や財界の巨頭から師と仰がれた有名な陽明学者で当時大東亜省顧問だった安岡正篤氏であったことも事実のようです。迫水久常氏が書いた大まかな草案を川田瑞穂博士が修正し、これを安岡正篤氏が最終的に修正・加筆して作成されたとの見方が最も有力のようです。この終戦詔書については、2005年08月15日付けの日記「終戦詔書を読んで思うこと」でも取り上げておりますが、今日は、終戦詔書作成に重要な役割を果たした安岡正篤氏にスポットを当ててみました。

安岡正篤氏は戦前、右翼思想家として有名で、二・二六事件の首謀者西田税に影響を与え、平成の元号の考案者としても知られ、中曽根元首相をはじめ歴代首相や財界の巨頭から師と仰がれた有名な陽明学者でしたが、その晩年には不可解な言動が多かったことでも知られております。そのひとつの事例が、六星占術による占い師の細木数子さんとの関わりでした。昭和58年(1983)3月、安岡正篤氏が85歳の時、九段の料亭で開かれた「安岡正篤を囲む会」に、当時銀座のママだった細木数子さん(当時45歳)が呼ばれたことが事の発端となりました。

安岡正篤氏と細木数子さんとの出会いが、この九段の料亭での会が初めてだったのか、それともそれ以前から出会っていたのかは判りません。安岡正篤は陽明学の大家でのある反面、易学入門の著書で知られているように 易学にも興味を持っておりましたので、九段の料亭で出会う1年前の昭和57年(1982)に細木数子さんが六星占術に関する本を出版していたことは当然、知っておられたはずですから、易学を通して細木数子さんに興味を抱いていたことは充分有り得ることと思います。

この九段の料亭での宴席で安岡正篤氏と細木数子さんが意気投合し、高齢の安岡正篤氏にお酌して酔わせた挙句に細木数子さんが半ば強引に「結婚誓約書」を安岡正篤氏に書かせたと当時のマスコミは報道しているようです。しかし、安岡正篤氏は当時既に、認知症を発症して禁酒を命じられていたとのことですから、細木数子さんのこのような行為を宴席に出席した安岡正篤氏の側近や後援者の人たちが黙って見逃すことは考えられません。ただ、「結婚誓約書」は現実に存在し、後の裁判で証拠書類として裁判所に提出されておりますから、何らかのきっかけで安岡正篤氏が書いたことは紛れも無い事実です。

後日、細木数子さんはこの「結婚誓約書」を根拠に婚姻届を提出して受理されたことから、これを無効とする安岡家と法廷闘争が始まり、その年の昭和58年(1983)12月13日、安岡正篤氏の死亡したことで、細木数子さんは、初七日で戸籍を抜くこと(結婚生活は、事実上無し)でこの婚姻を無効にすることで合意し、裁判は決着しました。後に、細木数子さんはこのことを六星占術における「大殺界」の真っ最中であったためと説明したとされておりますが、それが事実なら何故、「大殺界」でありながら強引に婚姻届を提出するという六星占術のタブーを敢えて犯したのか説明できません。

結果として、細木数子さんは安岡正篤氏と一度も寝食を共にする結婚生活をすることなく死別したことになりましたが、法律上では一時的に安岡正篤氏の妻であったことに変わりなく、後に安岡正篤氏の未亡人と言われる所以となりました。細木数子さんは、安岡正篤氏との出会いによって「六星占術は単なる占いの域を越えた“人間学”にまで高められた。」と著書のプロフィールで述べておりますから、安岡正篤氏との出会いが彼女にとってプラスになったことは間違いないようです。ただ、安岡正篤氏と出会うことが目的だったのか、それとも後々のための手段だったのかは、本人のみぞ知ることです。細木数子さんが安岡正篤氏の最後の弟子として、安岡正篤氏の好きな易学で一境地を拓いたと解釈すれば安岡正篤氏も浮かばれることになりますから、ここではそのように解釈しておきたいと思います。


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