−日記帳(N0.2058)2007年08月14日−
シドニー湾に散った英雄たち(1)
−日記帳(N0.2059)2007年08月15日−
シドニー湾に散った英雄たち(2)


沈没後引き上げられ復元された特殊潜航艇
(キャンベラ戦争記念館内で展示中)

先日の8月6日、豪州・シドニーの海軍基地などで旧日本海軍の特殊潜航艇に乗っていた日本海軍軍人2人の日豪合同慰霊祭が行われたとのニュースが中央各紙で報道されました。当時、豪州にとって日本は敵国だったのに、その敵国の軍人を自国で慰霊するのは確かにニュースバリューが有りますので調べてみたところ、意外な事実が判明しましたので終戦記念日前日の今日、取り上げてみました。

特殊潜航艇は長さ24mの二人乗りで2発の魚雷を先端部に装備し、作戦地点までは母艦の伊号潜水艦の前部甲板に載せられ、作戦開始時に切り離されて自力で発進し敵艦の至近距離まで接近し、作戦終了後に待機中の母艦に戻ってから船底に装備されている爆薬で自爆処分されることになっていました。戦績としてはこの豪州シドニー港攻撃以外に真珠湾攻撃、マダガスカル島のディエゴワレス港攻撃が有る程度です。

1942年5月18日朝にトラック諸島チューク島を出港した伊号潜水艦に3隻の特殊潜航艇に搭載され、5月31日にシドニー港近くで松尾敬宇中佐と都竹正雄少尉が乗り組んだ伊22号搭載艇が16時21分、中馬中佐と大森猛一中尉が乗り組んだ伊27号搭載艇が16時28分、伴勝久中尉と芦辺守中尉が乗り組んだ伊24搭載艇が16時40分にそれぞれ母艦から切り離されてシドニー港に向けて発進していきました。

ところが、中馬中佐・大森中尉の伊27搭載艇はシドニー港入り口で防潜網に絡まり、発進後約5時間後の21時30分頃自爆しました。松尾中佐・都竹少尉の伊22号搭載艇はシドニー港内侵入に成功したものの魚雷発射管が故障したため敵艦への体当りを試みたところ、敵哨戒艇4隻から爆雷攻撃を受け操艇不能に陥ったため発進後約13時間後の6月1日午前5時20分に自爆しました。

豪州海軍は、降伏せずに潔く自決した日本の軍人に感動し、自爆して沈没して間もない6月4日、5日に伊22号搭載艇と伊27搭載艇の2隻の日本軍特殊潜航艇を海底より引き上げ遺体として見つかった乗員4名を海軍葬で厚く慰霊した上、4人の遺骨を中立国であるポルトガル領東アフリカのロレンソ・マルケスで日本側に引き渡したのでした。その後遺骨は第一次日英交換船の鎌倉丸によって1942年10月9日に遺族らが待ち受ける横浜港に到着し、翌1943年3月27日に特殊潜航艇の乗員6人の二階級特進が決定したのでした。尚、引き上げられた特殊潜航艇は合わせて1隻として復元されキャンベラにある戦争記念館内に保存されております。

敵国日本の軍人に対するこのような行為は 豪州国内でも批判されたようですが、その推進役になったシドニー地区海軍司令官のモアヘッド・グールド少将は4名を次のように称えております。
「これらの日本の海軍軍人によって示された勇気は誰もが認めるべきであり、一様に讃えるべきものであるこのような鉄の棺桶に乗って死地に赴くには最高度の勇気がいるこれら勇士の犠牲的精神のその千分の一でも持って祖国に捧げるオーストラリア人が果して何人いるであろう」

伴少佐・芦辺中尉の伊24搭載艇は港内に在泊していた重巡洋艦シカゴを発見し魚雷2発を発射したもののいずれもはずれ、そのうち1本は岸壁に宿舎代わりに停泊していた廃艦のクッタブル号の艦底を通過して岸壁に当たって爆発しました。その結果、クッタブルは沈没し19名の豪州兵と2名の英国兵が戦死しました。その後、伊24搭載艇は敵の追跡をかいくぐって港外への脱出に成功したものの、その後の消息は不明となっておりました。ところが、64年年後の昨年11月、同湾外北東部の海底で、地元ダイバーによって偶然、伊24搭載艇が発見されたのです。(明日に続く)


3隻の特殊潜航艇が沈没した地点
(8月7日付け読売新聞の記事より引用させて頂きました)

昨年の11月26日、オーストラリアのテレビ局チャンネル・ナインが、第2次世界大戦中にシドニー湾を攻撃して同国艦艇を沈めた後、母艦に帰還せずに行方不明となっていた旧日本海軍の特殊潜航艇を同湾北部の海中で発見したという衝撃的なニュースを報道しました。

同報道によれば、アマチュアのダイバーのグループが浜辺から約5.6km離れた水深約70mの海底に沈んでいるのを発見したとしております。艇体はフジツボや海藻に覆われてはいたものの、スクリューなどが確認され、64年前に日本の特殊潜航艇1隻がシドニー湾に沈んでいる可能性が有ることをが知っていたことから、ダイバーたちは特殊潜航艇と確信し、その搭乗員に敬意を表し発見現場に花輪を投下し、心無いダイバーに荒らされないように正確な場所は公表せずにテレビ局に連絡したとのことでした。

ただ、この時点では、オーストラリア海軍による検証が終わったいなかったのと以前にも同じような報道が有ったものの間違いだった事例も有って日豪の関係者は疑心暗鬼に駆られながらもこの報道に注目し、その後の情報を見守っておりました。そして、昨年12月1日、オーストラリアのキャンベル環境・自然文化遺産相が、沈没船が報道どおり、旧日本海軍の特殊潜航艇と確認されたことを明らかにして次のように述べ、またネルソン国防相は「この発見は日・豪両国にとって、第2次世界大戦史の非常に重要な一部あり、沈没艇を好奇心に駆られたダイバーから守らなければならないとも語っております。

「世界最大級の港を真っ向から襲撃するのは非常に勇敢かつ命知らずの企てでした。特殊潜航艇が50年間以上も行方がわからなかったというのは驚異的です。この特殊潜航艇の発見は、豪日両国にとって重要な意義があり、遺構は最大限の敬意と名誉で扱われるべきである。ただ、艇の火薬はまだ爆発能力を持っている可能性があり、誰も艇に近づかないよう警告すると同時に艇から半径500mの範囲を保護水域に指定して艇の遺構と遺体を法律で保護したい。」

指定後この水域では無許可で水中に入ることも船舶の停泊や航行も禁止されるとのことです。。NSW政府のフランク・サートー計画大臣は緊急措置として暫定史産指定を発令、遺構を損壊した者は最高110万ドルの罰金または6か月の禁固刑を受けると警告し、これとは別にRSL(復員軍人同盟)のビル・クリューズ会長は、公式確認を受けて「艇は日本国の財産であり、日本政府がその処分を決められる。RSLは日本政府の意向を尊重するが、乗組員2人が艇と運命をともにした可能性が高く海洋墓地として遺構を現況のまま保存することが適切と考えるし、日本政府もおそらくそうするだろう」と語っております。

発見されたこの沈没船こそ、昨日の日記の最後に触れた、伴少佐・芦辺中尉搭乗の伊24搭載艇であることは疑う余地もありません。豪州海軍の追跡を逃れ、防潜網や狭い水路をかい潜って港外まで出たのですが、何故かここで沈没しておりました。その理由はまだ判っていないようですが、上の画像でわかるように、母艦の待機している地点から逆方向の北側に移動していること、艇を放棄する時には自爆することになっているのに自爆してない状況にあることなどから考えてこの地点に到達した時点で何らかの異常が発生し、航行も自爆も出来ない状況に陥り、艇を敵に捕獲されないように海底に沈めてから二人とも自決したものと私は推定します。

伊24搭載艇を引き揚げることは技術的には容易に出来ますが、自爆用の爆薬がまだ爆発可能の状態で残っている恐れが有ることから作業に危険を伴い簡単ではありません。また、引き揚げて遺体がが見付からなかった場合はいろいろな憶測が飛び交って、ご本人たちの名誉を傷つける恐れも出てきますので、ご本人たちの永久の墓場とし、また日豪友好の証しとしてこのまま残しておくことがいいと思いますが、ご遺族の思いは如何なものでしょうか。(明日に続く)


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