−日記帳(N0.2064)2007年08月20日−
猛暑雑感(フェーン現象のこと)
−日記帳(N0.2065)2007年08月21日−
猛暑雑感(平安時代のかき氷)



昨日は、周りから熱収支が無い場合、乾いた空気は1,000m上がる毎に10℃気温が下がる理由が乾燥断熱減率(上図左側のモデル図)によることを説明しました。今日は、その空気が乾いていない場合を考えてみます。夏は太平洋高気圧からの湿った南風が日本列島に吹きますので、日本の夏には日本の各地によく見られる現象です。もし、このような湿った風が上図右側のモデル図に示すように山を駆け上がる場合を考えてみます。

高度が上がると気圧が低下して空気塊が膨張するために自らの温度を下げて下がった分を膨張のためのエネルギー源にすることは、乾燥断熱減率の場合と同じですので山を駆け上がっていくにつれて温度は下がっていきます。温度が下がっていくと水蒸気が空気中で存在できる最大許容量(飽和水蒸気量)が減っていきます。その様子はこのに示すとおりで、例えば35℃で40g/m3の飽和水蒸気量は30℃になると30g/m3に減りますので、差し引き10g/m3の水蒸気は凝固して水滴になります。その場合、水蒸気の状態の方がエネルギーレベルが高いのでその差が熱(潜熱)として放出されます。

すると、その熱が膨張のため必要なエネルギー源のほぼ半分を補って相殺されることになりますので、乾燥断熱減率では1,000m上がる毎に10℃気温が下がったのですが、この相殺により1,000m上がる毎に5℃気温が下がることになります。この現象を湿潤断熱減率と言っており、上のモデル図に示すように湿った風が山を駆け上がっていく場合はこの湿潤断熱減率によるため、山を駆け上がる前の湿った空気の気温35℃は山頂では乾いた空気の30℃になり、次にこの山を駆け下りていく場合は、乾燥断熱減率により1,000m上がる毎に10℃気温上がることから山頂の気温35℃は40℃となり、結局山を越す前の気温35℃が5℃上昇することになります。これが、フェーン現象のメカニズムです。

フェーン現象の発生には、湿った風が山を駆け上がることが必須条件となります。猛暑を引き起こすフェーン現象は夏場、太平洋高気圧からの湿った南寄りの風がある程度高い山(1,000m前後)を越えてから降りていく場合に限定されることになります。1933年7月25日、山形県山形市の気象台で日本の気温の当時における最高記録40.8℃を記録した際も、2007年8月16日の岐阜県多治見市および埼玉県熊谷市で40.9℃を記録して山形市の記録を塗り替えた際もフェーン現象が原因とされております。



上の看板を見ただけで何か涼感が伝わってくるような気がします。小学生の私には家に有った氷削器でかき氷を作り、これに砂糖水を混ぜて口にすることが夏休みの楽しみのひとつでした。こんなかき氷が平安時代に有ったことを知ったのはつい最近のことでした。

「あてなるもの。…削り氷にあまずら入れて、あたらしきかなまりに入れたる。」

これは、『枕草子』(四十二段) からの引用で、清少納言もかき氷を食べた証拠として知られている一節として有名です。 口語訳は、「雅やかで上品なもの。それは、削り氷にあまずらを入れて、新しい金属製のお茶碗に盛るとお茶碗の表面が冷気で白くなって露を結んで冷たさが増すように感じられる様子のことです」

(注)あまずら:ツタの樹液を煮詰めて作られた平安時代の甘味料
(注)かなまり:金椀とも書き、金属製の茶碗のこと

都人の優雅な生活の一端を垣間見る思いがします。現代の感覚からすれば、涼感を求めてかき氷を食べたのですから、その食感が涼感の主題になるところですが、彼女はその涼感を、鏡面状に磨き上げられた金属製の茶碗の表面に氷からの冷気が露を結ぶ様子で描写しているところ彼女の並々ならぬ文才と涼感に対する考え方の相異が認められます。
(本サイトの2004年07月27日付けの日記「清少納言とかき氷」より)

当時としては、天皇に献上される氷を、身分がそれほど高くない清少納言が入手出来たのか不思議に思っていたところ、清少納言の実家である清原氏は、代々、主水司という氷や水を司る役所の長官をしていた一族であったことを知り、納得がいきました。主水司の役割は、氷室に貯蔵した氷を献上氷として朝廷に差し出すことで、蔵氷・賜氷制度として日本の古代律令にも明文化されておりました。しかし、鎌倉時代に入ると一部の史書に記録が記されているのみで、宮中や武士による実質的な氷の利用実態は消失しております。多分、戦国時代から室町時代にかけて天下統一にしのぎを削る時代に氷室に氷を蓄え夏利用することなど戦争には無意味だったからと思われます。


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