−日記帳(N0.2066)2007年08月22日−
猛暑雑感(江戸時代のお氷さま)
−日記帳(N0.2067)2007年08月23日−
佐賀北の優勝に思うこと


加賀藩の将軍家献上のお氷さまの駕籠行列

清少納言一族が関わっていた、天皇家に氷を献上するための蔵氷・賜氷制度は鎌倉時代で殆ど廃止同然となってしまいましたが、将軍家に氷を献上する風習が加賀藩主前田利常公によって第14代徳川家茂公に至るまで続けられました。冬の間に、領内で採取した氷を金沢城内二の丸の貯氷蔵に蓄えておき、5日間かけて金沢より江戸までの約500kmの道のりを前田家の江戸屋敷まで運んで同屋敷の氷室(現在の東大赤門内にあった)に移し、旧暦6月1日の江戸城内に運び入れておりました。

道中で氷が溶けるのを防ぐために、氷を2重造りの長持に入れ熊笹や木の葉で巻いてムシロとコモで包みんだ上で白い布を被い、更に金沢より江戸まで要所ごとに設けられていた天然冷蔵庫の雪室(ゆきむろ)で保冷し直すとともにここで待機していた人夫が交代して、通常なら10日かかるところを5日間で江戸まで運んでいたようです。文献は残っていないようですが、このように夏場に苦労して氷を運んだのは初期の頃で、何時の頃からか、前田家の江戸屋敷の氷室を増設して、ここで夏場まで氷の状態を維持させて旧暦6月1日に江戸城内に運ぶようになったようです。

有力大名の加賀藩からの献上は、江戸の人々にもよく知られた夏の行事となり、加賀藩のお氷さまの駕籠行列一行から冷たいしぶきを少しでも受けられないものかと人々が行列をなしたと言われております。雪国の加賀藩でも、氷は庶民には高嶺の花で、氷の代わりに麦でつくった氷室饅頭を食べて無病息災を願ったそうです。た金沢市の湯桶温泉には今でも復元された氷室があり、旧暦6月1日に相当する7月1日に「氷室の節句」の祭りが開かれています。しかし、こうして苦労して献上した氷を将軍様は口にしたのでしょうか。どうも口にはしなかったようです。

江戸市民の生活ぶりを著した「東都歳時記」によれば、加賀藩から献上された氷は「・・・是は雪塊にて、土中に埋め置きし物なればにや、土芥などの打ち雑ざりて頗る清からず、されば御台所はお手を付けず分け下さる・・・」とあり、汚れが酷いために将軍はこれを口にせず、大奥など周囲の者たちに下賜されていたようです。幕府の侍医だった桂川甫周(1826〜1881)の次女、今泉みねの回想記「名ごりの夢―蘭医桂川家に生まれて」(平凡社・東洋文庫)に、父親が城中から下される氷について「私の子ども時分は、氷をいただくなどということは、ほんとに一夏にたった一度だったようにおぼえます。……」と著しております。

ここのように、江戸城で氷を頂いたとの記述は他の文献にも見られ、いずれも口にするのではなく、手のひらに持ってその冷たい触感を楽しんでいたようです。従って、清少納言のようにかき氷にして実際に口にすることはまず無かったのではないかと思われます。清少納言の場合は、言わば律令という国の法律によって確立された賜氷システムだったのに対して、加賀藩によるそれは、一大名の言わば余興によるものでしかありませんでしたから、自ずとその差は歴然としていたものと思います。それでも200年以上も続けられてきたのは、「お氷さま」「氷室饅頭」などと、夏の風物詩として江戸市民に親しまれていたからだと思います。このような市民文化を重視した家康の意向が後の将軍にも受け継がれたものと私は解釈しております。


8回裏、逆転満塁本塁打を放った佐賀北の副島選手

昨日は、後に日記に掲載しますが3回目のアジ・メバル釣行すべく、何時ものポイントに出掛けました。現地に着いた時点では7回の表で、4:0で広陵高がリードしておりましたので、このまま過去2度の決勝戦で涙をのんだ広陵高が今回の3度目の決勝戦でその鬱憤を晴らして歓喜の涙を流すものと思い、後は入れ食い状態のアジ釣りに夢中になって携帯ラジオにスイッチを入れることも忘れていました。そして、釣りを終えて帰宅の途中、カーラジオから流れてきたスポーツニュースを聞いて驚愕しました。何と、佐賀北高が5:4で逆転勝ちしたことを伝えていたからです。

このニュースを聞いた瞬間、今年の正月のフジテレビのテレビドラマ「佐賀のがばいばあちゃん」のあるシーンが頭を過ぎりました。 このドラマの原作は、タレントの島田洋七さんの同名の400万部のベストセラー自伝小説で、事情が有って故郷の広島にいる母親の元を離れて、貧乏でも明るくたくましく生きている佐賀のおばあちゃんの徳永サノさん(泉ピン子)に預けられて幼少時代を過ごす島田洋七さんのモデルの徳永昭広少年(広田亮平)の様子が生き生きと描かれておりました。昭広少年は野球が好きで、中学時代に選手として活躍していたことから、中学は彼を春の甲子園で優勝経験を持つ広島の名門校、広陵高に推薦したのでした。

故郷の広島に居る母親の元で名門、広陵高に進学できることは、昭広少年にとって夢のような話ですが、一人暮らしのおばあちゃんを残して佐賀を去ることに心痛めた昭広少年は、この推薦を断って佐賀市内の公立校への進学を決意したのでした。私の脳裏を過ぎったのは、決意をおばあちゃんに話すシーンと、結局はおばあちゃんや学校の先生たちに説得されて広陵高に進学するために、川の傍らで洗濯しているおばあちゃんをそっと見ながら涙をこらえて去っていくシーンでした。

佐賀北高(1963年に佐賀高から分離し発足し佐賀高とは兄弟校)は佐賀県でも有数の進学校ですから、中学の成績が振るわなかった昭広少年がこの時受験しようとした佐賀市内の公立校は佐賀北高ではなかったでしょうが、昭広少年こと島田洋七さんにとっては佐賀北高は母校の広陵高とはまた別の意味で親近感を感じたのではないかと思うのです。たまたま、「佐賀のがばいばあちゃん」を通して、佐賀北高と広陵高がクローズアップされた形になり、東国原知事による宮崎ブームに続いて同じ九州の佐賀ブームが始まったようです。

公立校の夏の優勝は1996年の松山商(愛媛)以来11年ぶりですが、進学主体の普通高としては1984年の取手二高(茨城)以来23年ぶりのことで、その意味でも快挙であることが、佐賀ブームをに繋がっているようです。私の母校の静岡県立藤枝東高も県内有数の進学校で、サッカーでは過去何回も全国大会に出場し優勝もしておりますが、全国大会出場の折に問題になるのはその派遣費用の捻出でした。結局、我々OBの寄付で何とかまかなっているのが現状です。佐賀北高も同様に派遣費用の捻出に苦慮しておりました。

佐賀北高の場合、野球部の活動費は学校から支給される年間50万〜60万円と後援会のカンパしか有りません。選手の派遣費用は一日、1人当たり約12,000円で、生徒の自己負担を3,000円に抑えたため、1試合当たりの費用数百万円が学校側の負担になり、引き分け再試合を含めて史上最多となる7試合を行ったのですから、恐らくその費用は2,000万円を超えるものと思われ、同校の山崎校長は「請求書におびえています」と話しております。これを伝え聞いた全国の方々からの寄付の申し出が同校に殺到しているとのことです。

開幕試合、延長15回引き分け再試合、サヨナラ勝ち、そして劇的な逆転満塁本塁打による優勝と、高校野球史上稀有な戦跡を残した佐賀北の優勝は永らく語り伝えられていくことと思います。自由時間に大阪・心斎橋でグリコの看板をバックに記念撮影をしていた丸刈りの球児たちが、甲子園で5万観衆の大拍手を浴び「大学では遊ぶつもりだったけど自信ができた。野球を続けます」と逆転満塁本塁打副島選手は語り、特待生問題に揺れた今年の高校球界で史上稀な猛暑の夏を無敗で駆け抜けたのは、特待生には無縁の公立進学校でした。「やれば、できる」と全国の公立校の仲間へ熱いメッセージを残して・・・・・。


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