−日記帳(N0.2074)2007年08月30日−
絶対に許せない3人組の犯行
−日記帳(N0.2075)2007年08月31日−
忘帰洞温泉に一泊旅行(1)


磯谷利恵さんが拉致された名古屋市千種区の現場
(赤線が帰宅のコースで×印が犯行現場)

この悲しいニュースを知った時、たまたま暗い路上で見掛けた見ず知らずの女性を金目当てで拉致し、その2時間後に車中でハンマーで50回以上も殴打して撲殺し、岐阜県瑞浪市の山林に遺体を投げ捨てるという凶暴な犯行に及んだ、数日前までは見ず知らずだった3人の男たちを絶対に許せないとの思いに駆られました。そして、出来るだけ早い時期にこの3人を死刑にして欲しいと願わざる得ませんでした。同じ思いに駆られた方も多く居られることと思い生ます。こんな悪党には長い裁判は無用で、中国ほどではなくても迅速に求刑、判決、処刑をして欲しいものです。こんな悲しい事件が二度と起きないように、新聞情報に基づいて事件の経過を以下に再現してみたいと思います。

悪党3人が知り合った経緯
住所不定、無職でハッチバック式の車での生活を続け長期ホームレス状態だった悪党の一人、川岸健治(40)は、お金を奪う目的で仲間を募るべく、8月上旬に携帯の闇の「犯罪サイト」に共犯者募集の書き込みをしたところ、同月半ば頃、無職の堀慶末(32)と朝日新聞拡張員の神田司(36)から応答が有ったことからお互いにメールで連絡を取り合い、こうして見ず知らずの3人の共犯者グループができたのでした。そこで彼等は、弱い立場の女性を襲って金を奪うことを計画し、住宅街に近い地下鉄沿線に狙いを付け、8月24日の夜、土地勘の無い名古屋市営地下鉄名城線の自由ケ丘駅に通ずる暗い道を通る一人歩きの女性を物色することにしました。

磯谷利恵さんが拉致された経緯
契約社員として名古屋市中区の会社に務めていた磯谷利恵さん(31)は、この日、24日はたまたま正午頃に出社した関係で地下鉄・自由が丘駅に午後10時近くに着きました。自宅はここから南西に約500m先の千種区春里町でしたので何時ものとおりのコースで帰路につきました。この辺りは、上の地図で判るように東側には愛知県がんセンター、墓地公園として知られる平和公園の広大な緑地地帯が広がり、西側には日本唯一の全宗派寺院として有名な日泰寺、南側には歯科医療で有名な愛知学院大等、公共機関も多い閑静な住宅地帯でしたが、彼女の帰宅コースのうち小学校の前の道は人通りの少ない場所でした。でも、ここから自宅までは100mぐらいのこの場所にさしかかった時、車が止まり道を尋ねるふりをして近付いてきた悪党の一人神田司等によって車に押し込められて拉致されました。

磯谷利恵さんの男性ともだちの思い
磯谷さんは囲碁が好きで、名古屋市中区新栄のカフェで、毎週1回、客や経営者が対局する「囲碁会」囲碁会に欠かさず参加していました。彼女は私と同様にネット碁で磨いた腕前をここで試すことで「今年中に初段を取りたい」と意欲的に取り組んでおり、プロと対戦する時でも「絶対に負けたくない」と勝ち気な側面を見せ、一局に6時間かけることもあったようです。そうした囲碁仲間に独身男性のAさんがおりました。彼は25日に彼女と夕食の約束をしており、待ち合わせ場所で彼女が現れるのを待ち続けましたが、彼女はその10時間ほど前に既に殺害されており来るわけがありません。何度か彼女の携帯に架けましたが応答は有りませんでした。

主犯格の悪党、川岸健治の思い
私の憶測ですが、悪党の川岸健治は拉致した女性を殺すことまでは考えていなかったと思います。しかし、彼等は顔を見られないようにする策は一切行っていなかったようですので、拉致後に無事開放することは当初から考えられなかったはずです。しかし、川岸健治は後部座席で、神田司と堀慶末が磯谷さんを殺害したことで、そんなはずではなかったと気が動転したのではないかと思います。結局、磯谷さんを襲ったものの奪ったキャシュカードの暗証番号が判らなかったため、手持ちの7万円しか得られなかった彼等悪党どもは懲りずに次の犯行を模索したようです。この時点で、川岸健治はこのまま捕まったら主犯格とみられ死刑になるのではと恐れおののいて電話して自首したものと思います。

この事件に関する私の要望
次の3点を強く要望します。
1.この悪党どもの死刑執行
2.犯罪を誘発しる恐れのある闇サイトの強制閉鎖
3.死刑制度の存続

同類の犯罪の再発を防ぐためにも、ご遺族の無念を晴らすためにも早期の執行が望ましいと思います。ネットにはこびる犯罪を誘発しる恐れのある闇サイトは、通信傍受法を発動して当局の手で強制閉鎖すべきと思います。ただ、この法の発動に個人情報侵害を盾にとって反対する向きが有りますが、犯罪予備軍の個人情報など、侵害どころか収集すべき素性の類であり、反対することは犯罪を助長したり犯罪者を幇助したりすることに繋がりかねないことに思いを致して欲しいものです。ましてや、死刑囚にも生きる権利が有るなどとわけのわからないことを主張して死刑制度反対を唱える連中は、今度の事件で未亡人で一人娘を育て上げ、その娘さんを無残にも殺害された磯谷さんのお母さんの「絶対に許せない」と涙ながらに訴える思いを知れと言いたい。犯行後二日目に犯人全員が逮捕されたのは、悪党の川岸健治の死刑におびえる思いでした。ここに、現行の死刑制度が凶悪犯罪の抑止に効果が有ることを物語っております。

この事件に関するあるブログへの私の不快感
あるブログに、この事件の加害者も失業者、ニート、フリーターの階層の人間、被害者も派遣社員でいずれも格差社会の歪の中に居り、このような格差社会を生んだ自民党政権にも責任の一端が有るような主張が掲載されておりましたが、とんでもない誤解であり、認識不足も甚だしいと怒りすら覚えます。専門能力を持つ人たちが自分の能力を生かせる場として選ぶ派遣社員がなんで格差社会に関係有るのでしょうか。また、失業者、ニート、フリーターの殆どは、自分の責任においてそのようになったのであり、ましてや自動車を運転でき、ネットにもアクセスできるような30、40代の男なら、日本一景気のいい名古屋なら贅沢を言わなければいくらでも職はあるはずです。それなのに働かずに犯罪に及ぶような連中がなんで格差社会の犠牲者だ!

磯谷さんの趣味に対する私の共感
私は月や星を見るのが好きで、ペルセウス座流星群や皆既月食についてこの日記に掲載しましたが、彼女も好きだったらしく、25日にデートを約束していた恋人と二人で名古屋城で私が観測した14日にペルセウス座流星群を観測しております。また私は囲碁が大好きで毎日のようにネット碁で対局しておりますが、彼女もネット碁を打ち、初段に挑戦していたとのことですから私より上かも知れません。私は、インターネットが好きで、サイトを運営しておりますが、彼女もブログを運営しておりました。その大好きだったネットを悪用した悪党三人組に殺害される羽目になったのは何とも皮肉なことでした。 いずれにしても、私と共通の趣味を持っていた磯谷さんに共感を覚えます。 ご遺族の方々に、こころから、お悔やみ申し上げます。    合掌


ホテル浦島の大洞窟露天風呂、忘帰洞
(向うに見えるのは熊野灘)

ここ暫く温泉に行っておりませんので、久しぶりに一泊二日の温泉旅行を計画しました。これまでに行った温泉は、近いところでは飛騨、信濃、伊豆・箱根、遠いところでは北陸、東北、北海道、九州で、どちらかと言えば東日本が多かったので今回は西日本の近畿地方を考えました。そこで、かねてから興味を持っていた紀伊・勝浦温泉の(1956年12月開業、その後増築を重ね、現在は客室数588室、収容人員3,028名のメジャーホテル)の大洞窟露天風呂で知られる「忘帰洞」に行ってみたくなり、たまたまホテル浦島一泊二日のバスツアーの広告を見たことから、このツアーに予約を入れておりました。その予約日が今日から明日にかけての二日間です。

このような経緯で、女房、次女そして私の家族3人は今朝、名古屋駅前に待機していた3台の三重交通の大型観光バスの1台に乗り込みました。36人を乗せたバスは、8時に出発し、大治ICから東名阪に入り、芸濃ICで伊勢道に出て多気ICで国道42号線に出て紀勢本線に沿って紀伊長島、尾鷲を通って午後1時頃、目的地の南紀勝浦温泉に到着しました。宿泊先のホテル浦島は天然の良港、勝浦港の東側に南に向けて細長く半島状にに突き出ている狼煙山の麓に展開しておりますので陸路で行くことは出来ません。そこで、勝浦港のホテル専用桟橋からのホテル専用の連絡船に乗って5分ほどでホテル浦島の本館に午後1時半に到着しました。チェックインは2時ですので、30分ほど館内をブラついてから部屋に入りました。

我々ツアー一行の宿泊先は全員、本館でした。このホテルには本館を含め四つの館が有りますが、本館が最も古く、築後50年近くは経っていると思われるほどに老朽化の跡が廊下や部屋の至るところに散見されました。また、部屋からの景色も勝浦港だけで、他の館のように、景勝、紀伊松島が点在する熊野難を望むことは出来ません。格安ツアーですから、止むを得ないことで割り切りはしましたが、浴衣の色、柄が他の館の宿泊客のと異なっているのには少々、抵抗を感じました。しかし、忘帰洞、玄武洞等の有名な洞窟風呂や熊野灘を一望できる山の上の展望風呂など六つの大浴場は全ての館の宿泊者が利用できるのが救いでした。

午後5時半からのヴァイキング方式の夕食までの3時間を利用して、六つの大浴場全ての湯に浸かることに挑戦することにしました。女房たちは入湯の証となるスタンプを六つとも押すと粗品が貰えることに意欲を燃やして湯疲れしながらも、六つのスタンプを押し終えて意気揚々と、忘帰洞、玄武洞と山上からの展望風呂の三つだけスタンプを押し終えて湯疲れして待っていた私が居る部屋に帰ってきました。

この忘帰洞の温泉には1500年の歴史があり、南北朝抗争の時代の南朝の重臣たちが立ち寄った足跡が有るとされております。大正時代に、元和歌山藩藩主だった徳川頼倫公がここを訪れて入浴した際に、「帰るのを忘れるほどである」と賞賛したことから、この名が付けられたともされております。確かに、広い洞窟内の温泉の風景、そして海側の先端から望む熊野灘の風景、更に乳白色の今では珍しい源泉かけ流しの含食塩-硫化水素泉の温泉は、の名に相応しい名泉であると思いました。この温泉が一般に知られるようになったのは、昭和25年の吉野熊野国立公園指定後で、知名度アップに伴い観光客が増加、昭和30年代には新婚旅行のメッカにもなって大いに繁栄し、最盛時には年間200万の客がここに訪れたと言われております。しかし、最近になって客足がやや遠のいてきたことから、今回のような本館宿泊の格安ツアーを企画するようになったようです。

夕食は、本館一階のレストランでヴァイキング方式でとりました。握り寿司、天麩羅、生マグロ、そうめんなどを取り、生ビールを個別に注文し、1時間ほどで退席しました。料理は値段に見合った範囲で、特に美味しくも不味くもありませんでしたが、昼食が立ち食いラーメン一杯だけだったこともあってよく食べました。その後は部屋で寝転がってテレビを観て11時には就眠しました。


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