−日記帳(N0.2102)2007年09月27日−
浦和、全北現代破りACL準決勝へ
−日記帳(N0.2103)2007年09月28日−
名大出身力士、枡名大のこと


前半4分に先制ゴールを決めた田中達

2007年アジアチャンピオンズリーグ(ACL) 準々決勝の浦和レッズ対全北現代(韓国)の第二戦が、昨夜韓国の全羅北道の道都、全州市(人口62万)にある全州スタジアム(収容人員=42,391人)で、31000人の観衆のもとで行われました。このスタジアムはW杯に向けてサッカー専用競技場として2001年9月に完成し、W杯スペイン対パラグアイ戦などが開催され、現在は韓国Kリーグ、全北現代のホームスタジアムとなっております。

残念ながら、この試合は日本では地上波で生中継されませんでしたので、私には試合の様子は判りませんので、結果だけを掲載することとし、その雰囲気をema10さんのブログから画像をお借りして掲載させて頂きました。試合の方は、前半4分, ポンテのシュートのこぼれ玉を田中達が詰めて先制ゴール、後半22分にポンテのコーナーキックからのオウンゴールで1点を追加し、2:0で快勝し準決勝進出を決めました。

実力の差ははっきりとしており、浦和は格下を相手にするように余裕ある試合を展開したようです。後半に入ると、全北はこのままでは勝てないとみたのか、バレバレのシミュレーションでイエロー2枚を貰って退場したり、ラフプレーが目立ったとema10さんは書いております。相手のラフプレーや挑発に乗らず、流し気味に試合を進めてイエローカードも貰わずにそのまま無失点で勝利し、大きな怪我もしなかった浦和は、まさしく日本のチャンピオンだと私も思います。

全州スタジアムの風景(手前が浦和サポ席、向こう側が全北サポ席

試合中のピッチの風景

発炎筒やロケットの打ち上げOKのスタンド風景

ピッチには全北サポから投げ込まれペットボトルが散乱

9月場所で勝ち越し初めて髪を結った最近の舛名大
(9月場所以前はこの画像のように長髪でした)

名古屋大学相撲部は2000年に設立されておりますが、同大学の前身である名古屋帝国大学、名古屋高商(名古屋大学経済学部の前身)には相撲部が有り、とりわけ、名古屋高商は学生選手権で準優勝(昭和5年)、第3位(大正14年)、第4位(大正13年、昭和11年)の成績を収め、大正13年には稲垣登が学生横綱になっておりますので、そのDNAが受け継がれ現在、国公立大学ではトップクラスにあります。特に昨年、一昨年とも国公立大学相撲選手権、七帝大戦(北大、東北大、東大、名大、京大、阪大、九大)でいずれも団体優勝を果たしております。

比較的太った選手の少ない名古屋大学相撲部員の中で、ひときわ太った体格が目立つ部員がおりました。一昨年の七帝大戦で個人優勝した田中周一君(工学部化学・生物工学科)でした。彼は高校時代(豊田西)は水泳をしていたのですが、大学1年の夏の名大祭で行われた相撲大会に参加して初めて相撲を取り、「相撲はシンプルだけど奥深い」と魅力を感じて相撲部に入部、2年からレギュラーとなり、前述の2連覇に大きく貢献したことから、角界にもその名が知られるようになり、相撲部を見学に訪れた千賀ノ浦親方(元関脇・舛田山)から熱心に誘われ、大学院受験に失敗したこともあって昨年9月に千賀ノ浦部屋に入門することで角界入りを決意したのでした。

そして、昨年の九州場所での新弟子検査(身体検査)を受験し、189センチ、110キロで合格し、同場所3日目に行われる恒例の前相撲で初土俵を踏みました。この前相撲は、番付外の力士が取る相撲のことで、その場所で新弟子検査した力士と序の口を全休等でで番付外に落ちた力士が、序の口の土俵の前に4番行われます。彼はこの前相撲で3勝1敗の成績を残し、場所中の2006年11月19日に「千賀ノ浦部屋、舛名大、愛知県岡崎市出身」と初めて場内アナウンスされた後、「これに控えおきます力士儀にござります。只今までは番付外に取らせおきましたるところ、当場所日々成績優秀につき、本日より番付面に差し加えおきまする間、以後相変わらずご贔屓お引き立ての程、ひとえに願い上げ奉りまする。」と行司から口上を述べられ、晴れて番付力士として新序出世披露を果たしました。

四股名の「舛名大・周一」は、千賀ノ浦親方の四股名「舛田山」の「舛」を頂き、東京で「メイダイ」と言えば、名大よりも明大の方が知名度が高いことに田中周一君が発奮し、自分が力士として出世することで「名大」の知名度を上げたいとの一念から付けたものです。こうして、田中周一君は国立大学出身としては一ノ矢(琉球大学理学部卒)、弓の里(高知大学農学部1年中退)に次ぐ史上3人目の国立大出身の大相撲力士となりましたが、旧帝大系の国立大では初めてとなりました。

しかし、こうして初めて番付に名前が載った2007年1月場所では単位不足で卒業が危ぶまれる状態にありました。彼は既に1年留年しておりこれ以上の留年は許されませんでしたので必死になって、部屋にも親方の許可を貰ってパソコンを持ち込み、新幹線で名古屋、東京を往復して、卒論テーマ「サケの卵細胞の構造分析」を研究しながら相撲に取り組み、一番相撲に敗れたもののそこから6連勝で優勝決定戦に進み惜しくも三つ巴の優勝決定戦に敗れて優勝はならなかったものの異色力士として注目されるようになりました。そして、2007年3月2日に卒論を大学に提出し、3月15日に大学から卒業認可の報告が届き、晴れて名大卒の大相撲力士となりました。

そして、2007年5月場所で、序二段に昇格し東62枚目で取り組んで5勝2敗の成績を収め、翌2007年5月は東31枚目に付けて三枚目への昇格を賭けて土俵に臨みましたが、最初に1勝したものの6連敗し、翌2007年7月の地元の名古屋場所でも3勝4敗と負け越し、昇格どころか翌2007年の9月場所では82枚目まで落ちてしまいましたが、何とか踏ん張って三場所ぶりに勝ち越しました。

この中で、注目を浴びたのは7月場所2日目での一ノ矢(高砂部屋)と対戦でした。一ノ矢は前述のように琉球大学理学部卒で、高知大学農学部の弓の里)(鳴戸部屋)舛名大とともに国立大出身力士三羽烏の一角で、国立大出身力士との対戦は史上初のことに加え、一ノ矢が現役最高齢の46歳で、舛名大23歳で親子程のダブルスコアの年齢差もまた注目を集める理由になっておりました。対決は一ノ矢に軍配が上がりました。

この一ノ矢は根っからの相撲好きで、琉球大学理学部物理学科在学中に相撲部を興し大学卒業後、決まっていた高校の物理の教職を蹴り、国立大学出身力士として史上初の角界入りしようとしたのですが、身長が規定に及ばず新弟子検査を合格できないまま半年間過ぎ、漸く1983年(昭和58年)11月場所の新弟子検査で身長の計測係だった鏡山親方(元横綱・柏戸)のお情けで合格し前相撲から初土俵を踏んだ経歴が有り、また同部屋の横綱朝青龍を新弟子の頃からの面倒見続けてきたため朝青龍は現在でもも「一ノ矢さん」とさん付けで呼んで敬意を表しております。2005年1月場所では瀧ノ音(伊勢ノ海部屋)と2人合わせて79歳の高齢対決、45歳の2006年1月場所では和木(東関部屋、当時15歳9カ月)との戦後最大29年3カ月差の対決が有りました。

一ノ矢は、相撲を「武道」と位置づけ「年齢に関係なく、筋肉のつけ方や使い方によって強くなる相撲の本質があるはず。それを実践して証明したい。そう考えると年を取るのが楽しみ。」とさえ述べております。彼は、朝青龍問題で高砂親方がとかく批判を浴びる中、高砂部屋のマネージャーを務め、部屋公式サイトの運営・更新を担当しており、最高位三段目以上の力士経験者に受験資格が与えられる日本相撲協会主催の相撲指導員に現・タレントの元関脇琴富士や現役の十両経験者豊乃國らとともに受験して見事合格しております。直近の2007年9月場所では、舛名大の1枚下の序二段東83枚目で取り組み、3勝4敗と負け越しております。舛名大にとって一ノ矢は尊敬に値する大先輩であり、一ノ矢が現役でいる間に彼から学んで欲しいものです。尚、舛名大の戦績は次のとおりです。

(11月場所  前相撲     3勝 1敗)

 1月場所 序の口     6勝 1敗
 3月場所 序二段東62枚目 5勝 2敗
 5月場所  序二段東31枚目 1勝 6敗
 7月場所 序二段西60枚目 3勝 4敗
 9月場所 序二段西82枚目 4勝 3敗
全場所計                19勝16敗



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