−日記帳(N0.2104)2007年09月29日−
王宮遺跡に隣国の侵略の跡が
−日記帳(N0.2105)2007年09月30日−
日本とミャンマーの意外な関係


ミャンマー、タイ、カンボジアの見取図
(ミャンマー→タイ→カンボジア侵略の構図が読み取れます)

タイに旅行した折にアユタヤ王宮遺跡を訪れたことが有りました。
これは14世紀に開かれて栄華を誇ったアユタヤ王朝の王宮でしたが、18世紀に隣国ビルマ(現在のミャンマー)の攻撃を受けて廃墟と化し、現在は世界文化遺産となっております。 その時に案内してくれたタイ人ガイドさんは口々にビルマの悪口を言っておりましたが、このガイドさんに限らずタイの人たちがビルマを嫌う傾向が有るのは、アユタヤ王朝時代に受けた度重なるビルマの侵略にあるようです。

一方、カンボジアに旅行した折にアンコールワット王宮遺跡を訪れたことが有りました。これは11世紀に開かれて栄華を誇ったアンコール王朝の王宮でしたが15世紀にアユタヤ王朝(現在のタイ)の侵略を受けて廃墟と化し、現在は世界文化遺産となっております。アユタヤ王宮遺跡は殆ど跡形も無いほどに破壊されておりますが、アンコールワット王宮遺跡は破壊の程度は軽く充分原形をとどめております。この時に案内してくれたカンボジア人ガイドさんも、タイにはあまり良い印象は持っていなかったのは、やはりアンコール王朝時代にに受けた度重なるビルマの侵略にあるようです。

結局、ビルマはタイを侵略し、タイはカンボジアを侵略し、カンボジアは侵略どころかタイからの侵略を恐れてベトナムやフランスに助けを求めたため逆に内政干渉を受けるはめになり、それがわざわいして後に悲劇的な内戦を繰り返すことになってしまいました。上図はミャンマー、タイ、カンボジアの3ケ国の見取図です。ミャンマーは西隣が大国インド、北隣が大国中国ですから、侵略するとすれば東隣のタイしかありません。一方、タイは西隣が強国ミャンマー、北隣が大国中国、南隣がインドネシア支配圏ですから侵略するとすれば東隣のカンボジアしかありません。しかし、カンボジアの東隣は強国ベトナムですから侵略するどころではなく、ミャンマーを起点とする東進策はカンボジアで終点となる事情がこの見取図から読み取ることが出来ます。

このように、侵略したり、侵略を企てる隣国を毛嫌いする国民性は、上述のタイのミャンマー嫌い、カンボジアのタイ嫌いの他に、ベトナムの中国嫌い、トルコのロシア嫌い、ギリシャのトルコ嫌い、韓国の日本嫌い、インドネシアのオーストラリア嫌いが有り、いずれも当事国の現地に旅行した折に現地ガイドさんから直接、聞き取って確認しました。一方で、意外にも日本好きの傾向が、台湾、トルコ、インドネシア、タイなどに有ることも、多少の外交辞令が有るかも知れませんが、現地ガイドさんから直接、聞き取りました。ただ、ミャンマーには旅行したことは有りませんが、ミャンマーの英国からの独立に日本が貢献したとして日本に好意を持つ風潮ががミャンマーに有ることは事実で、その影響も有ってのことでしょうか、日本は現在の軍事政権のミャンマー政府を承認しております。明日は、この意外な日本とミャンマーの関係に触れてみたいと思います。


ビルマ独立の父と慕われる若き日のアウン・サン将軍
(若くして暗殺されるも遺児のアウン・サンスー・チーが意思を継ぐ)

ビルマは3回にわたる英国との戦争に敗れ、1886年にビルマ最後の王朝コンバウン王朝が滅亡し、英国の植民地となっておりました。日本はビルマを侵略する意図は無かったと思いますが、当時の日本の交戦国の中国にビルマ経由で欧米から軍事物資が補給されるること、ビルマ経由で日本が保有していた東南アジアの資源地帯への攻撃が仕掛けられることを恐れ、ビルマ進攻作戦を立てました。作戦の骨子は、ビルマに駐屯する英国軍と直接対決するのを避けて、英国からの独立を画策するビルマの反英勢力に英国軍と対決させることにありました。

そこで、1940年3月大本営陸軍部は、参謀本部付元船舶課長の鈴木敬司大佐にこの作戦の立案を指示しました。彼は、世界一の情報機関英国の向うを張って、日緬協会書記兼読売新聞特派員「南益世」の偽名を使ってラングーンに入り情報収集に当たりました。その頃、ビルマには対英非協力と武装蜂起を掲げる団体が日本などの外国勢力からの援助を求めており、そうした団体の中に、タキン党のリーダーでアウン・サンという若者が居りました。鈴木大佐は彼を日本に招き「面田紋二」の偽名を与えて郷里の浜松に匿いました。こうして、1941年2月1日、鈴木大佐を機関長とする大本営直属の特務機関「南機関」が正式に発足しました。このアウン・サンこそ、現在ミャンマーの軍事政権下で軟禁状態にあるアウン・サン・スー・チーさんの父親で、彼の右腕だったネ・ウィンは後にアウン・サン暗殺を受けてビルマの首相に就任しております。

南機関は、アウン・サンをはじめ、ビルマ独立運動家の青年30名を国外へ脱出させ、海南島で徹底した軍事訓練を施し、ビルマへ再潜入させて1941年の夏頃に武装蜂起させるという計画を立てました。しかし1941年の夏には、ドイツ軍のソ連進攻、米国の対日石油禁輸など、国際情勢が緊迫してきたため、独立運動家たちの武装蜂起に頼ることなく、開戦と同時に、第33・35師団を基幹とする第15軍をビルマに進駐させました。南機関も第15軍指揮下に移り、バンコクでタイ在住のビルマ人の募兵を開始し、アウン・サンを司令官とする「ビルマ独立義勇軍」(Burma Independence Army, BIA)を誕生させました。日本軍はBIAの協力を得て英国軍を急襲し、首都ラングーンを早期に陥落させ、またたく間にビルマ全域を制圧し、英国などの連合軍は多くの犠牲者と捕虜を残してビルマから退却していきました。しかし、日本はビルマを独立させませんでした。

アウン・サンたちが、南機関を信頼して日本軍に協力したのは、鈴木大佐が英国をビルマから駆逐したら、ビルマを独立させるとの約束でしたから、ビルマを独立させない日本の対応に不満を持ち始めました。1943年にバー・モウを元首とするビルマ国が建国されて英国から独立しましたが、所詮は日本の傀儡政権で真の独立国ではなく、アウン・サンたちの不満を解消するには至らず、アウン・サンをリーダーとする挙国一致の抗日組織が結成され、ビルマ全土で抗日運動が展開されるようになりました。そして、このような抗日運動を加速させる事件が起こりました。

それは史上稀に見る悲惨な敗北に終わったインパール作戦の失敗でした。日本軍はビルマを制圧した勢いで、ビルマとの国境に近いインドの北東部のインパールを攻略する作戦に出ました。ここはインドに駐留する英国軍の主要拠点であるとともに連合国から中国への主要な補給路でもありますので、ここを攻略すれば中国軍の弱体化とインドから英国軍を駆逐できると考えたからです。しかし、そのためには川幅約600mのチンドウィン川を渡河し、標高2000m級の急峻なアラカン山系のジャングル内を長距離進撃が必要なのに補給が全く軽視されていたため、退却を余儀なくされ、雨季による豪雨、寒気、飢餓、病気に苦しみながらのジャングル内の退路には軍服を着たまま白骨となった死体が続き、後に白骨街道と呼ばれ、実に戦死および戦傷病で倒れた日本軍兵士は約72,000人、生き残った兵士は僅か12,000人という悲惨な結果に終わりました。

このインパール作戦の失敗は、ビルマ駐屯の日本軍を弱体化させ、英国軍の反撃を招き形勢は一気に逆転しました。この情勢を目ざとく読んだアウン・サン等はビルマ国民軍(ビルマ独立義勇軍を改名)を率いて、反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)を結成し、1945年3月、日本及びその指導下にあるビルマ国政府に対してクーデターを起こし英国側に寝返ったため連合軍はラングーンを奪回し、ビルマ国政府は日本に亡命し、再びビルマは英国の支配下に置かれました。しかしアウン・サン等の抗日運動によって結集された力はビルマの独立へと向けられ、英国の支配を押し退けて1948年にビルマは英国から完全に独立して長年にわたる念願を果たしたのでした。

しかし独立してからもビルマは国家崩壊の危機におそわれ続け、政治的に安定することはなく、独立の功労者、アウン・サン将軍は独立の直前に暗殺されてしまいました。1962年、アウンサン将軍と一緒に日本軍から軍事訓練を受けた軍人の一人ネ・ウィン大将がクーデターを起こし四半世紀に渡って独裁・軍事政権を維持しました。長く続く独裁・軍事政権に苦しむビルマ国民はついに1988年に立ち上がり、群衆が軍隊と衝突しました。ネ・ウィンは退陣し、代わって国防相ソウ・マウンが、事態の収拾を名目に政権を奪取し、同時に国名をミャンマーに変えて軍事政権をそのまま維持して現在に至ることになりました。

この軍事政権は、自らを法と秩序を回復するための暫定政権と位置づけ、1990年に総選挙を実施した結果、暗殺されたアウン・サン将軍の長女、アウン・サン・スー・チー女史率いる国民民主連盟が抑圧された不利な立場にありながら議席の8割を獲得してしたのですが、軍事政権はこの結果を無視し、政権を譲らないどころかスー・チー女史をはじめとして国民民主連盟の幹部多数を逮捕拘禁して現在に至り、今回のデモ制圧事件に繋がっていったのでした。

この軍事政権の源流は、アウン・サン将軍が日本の支援の下で作った「ビルマ独立義勇軍」にあります。これが後にビルマ国軍となって現在のミャンマーの軍事政権を支えているからです。1947年にアウン・サン将軍が暗殺されたためナンバーツーの 軍人ネ・ウィンがクーデターを起こして軍事政権を確立して以来、今日までその指導者は変わっておりますが、連綿として軍事政権が継承されているわけです。従って見方を変えれば、現在のミャンマーの軍事政権は日本軍の南機関によって育てられたようなもので、またアウン・サン・スー・チー女史は自分の父親が築き上げた軍事政権と戦っているとも考えられます。

日本政府が、国際情勢に逆らってミャンマーを承認しODA等による経済援助を継続している背景に、上述のような歴史的背景が有り、更には日本企業のミャンマー進出を後押ししていると考えるのは私だけでしょうか。今回の日本人カメラマンの死を通して、日本のメディアは日本とミャンマーとの歴史的背景を正しく国民に伝え、政府はこの際、過去からの経緯を含めてミャンマー政策を見直すべきではないでしょうか。


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