−日記帳(N0.1281)2008年06月05日−
三浦雄一郎さんの快挙を讃える(3)
−日記帳(N0.1282)2008年06月06日−
ホスゲンに関するある思い出のこと


代表的なエベレスト登山ルートの南東稜ルート

上図(下が北側、左が東側)は、エベレスト登山ルートとして最も多く利用される「南東稜ルート」で、三浦さんは5年前も今回もこのルートを利用されております。エベレスト登山には14ルート有るとされておりますが、南側(ネパール側)からと北側(中国側)からの二つのルートに大きく分けられます。上図の点線によるルートは、この南側からのルートの中で最も代表的な「南東稜ルート」で、今回三浦さんたちが利用したルートでもあり、最もポピュラーなルートとされております。

何故、距離的に近いローツェ(8,501m)とヌプツェ(7,861m)の間に連なる稜線を越えてサウスコルに到るルートを採らずに、点線で示すようにわざわざ西側から迂回するようにして、高さ1,125mに及ぶ氷壁の「ローツェ・フェース」として知られる急勾配のローツェ西壁を登っていくのか不思議に思いましたが、ローツェ登頂はエベレスト登頂より困難でその成功事例はまだ数件しかないこと、また例え成功しても1,125mに及ぶ氷壁の西壁を下り降りることは至難とされていることを知ってこの疑問は解けました。

この「南東稜ルート」の出発点は上図右端の青丸の地点(5,360m)のベースキャンプです。ここには、カトマンズから空路でルクラに入り、ここからナムチェ(3,440m)タンポチェ(3,800m)ディンポチェ(4,300m)を経てエベレストを間近に仰ぐカラパタール(5,545m)につながる全長60kmの「エベレスト街道」を通って来るのが一般的で、三浦さんたちもこの道を通っております。 このベースキャンプには、シ−ズン中は全世界から数千人のトレッカーを含む登山者たちで賑わい、診療所、食堂、ネットカフェも有ると言われております。この「エベレスト街道」はそれほど険しい道ではなく道中には、チベット族の集落をはじめ道中、ホテル、レストランも有りますので日本からもツアー客が訪れております。

このカラパタールよりひとつ手前のゴラクシェプ(5,150m)を真っ直ぐに登っていくとカラパタールに行きますが、エレベスト登山者はここを右折してベースキャンプに向かうことになります。つまり、ゴラクシェプがトレッキングコースと登山コースの分岐点となるわけです。このカラパタールの丘からエベレストを取り巻く高峰のヌプツェロ−ツェが西方に、そして東方にはヒマラヤで最も美しいといわれるプモリを見ることが出来ることで知られております。三浦さんが登頂に成功した様子をスタッフの方がこのカラパタールの丘から撮影されております。「エベレスト街道」の」トレッキングの魅力は、このカラパタールの丘からのクーンブ山群の壮大な景観が観られることにあります。

このベースキャンプで、総勢25名からなる三浦隊は、ここで待機して後方支援する支援隊と登頂を目指す遠征隊に分かれました。遠征隊の隊長は三浦さん本人、副隊長は次男でモーグルの元五輪選手だった三浦豪太さん(38)がつとめ、日本人エベレスト登頂最多4回の記録を持ち、かつ日本屈指の高所カメラマンでもある村口徳行さん(51)と元フリースタイルモーグルの元五輪選手で、里谷多英、附田雄剛、三浦豪太等多数の選手を育成している五十嵐和哉さん(48)という錚々たるスタッフが支援者として遠征隊に加わりました。一方、三浦さんの長男の雄太さんが後方支援隊の隊長をつとめました。

三浦さんたち遠征隊は、ベースキャンプからアイスフォール(氷瀑)を通って、第1キャンプ(6,050m)を設営しております。第1キャンプから第2キャンプ(6,450m)、更に第3キャンプ(7,300m)までは比較的平坦なコースですが、第3キャンプから上図左下に見られるサウスコル(8,000m)真下の第4キャンプ(7,984m)までは急勾配のコースとなります。

世界で最も有名なクーンブ氷河は、このサウスコル近辺から上図中央のウエスタンクームを涵養域として、上図右上に向かって流れ落ちています。ベースキャンプはサウスコルに向かって左側に位置しておりますので、登山コースに入るためには、このクーンブ氷河をどこかで横断せねばなりません。アイスフォールがその横断箇所となっております。このアイスフォールには現在、梯子や縄梯子が取り付けられて危険度が軽減されているものの足を滑らせてクレパスに落ちたら一大事ですから、このコースの最初の難所となっております。

三浦さんは、今から38年前の1970年5月、このサウスコルからク‐ンブ氷河をスキーで大滑降しております。スタート地点から下のローツェフェースを望むと殆ど垂直に近い状態で奈落の底を見るようだったと言われておりますから、滑降と言うよりも投身落下に近い状態だったと思われますが、それでも三浦さんは2,000mほど滑降してローツェ・フェイスの氷壁に突っ込み、必死にパラシュートで制動を試みたものの露岩に激突し転倒して氷壁を滑落して止まったその瞬間、支援者たちは三浦さんの死を覚悟したと言われます。

しかし、この時の登山隊長をされた加藤幸彦さんは、その後で三浦さんが大きく片手を上げて無事を知らせるサインを送ってきたと、ご自身のサイトの「三浦雄一郎のエベレスト大滑降」で証言されております。三浦さんは、第3キャンプから、左に2,400mの絶壁のエベレスト南西壁、右に1,500mのヌプツェの絶壁の北壁、そして正面に1,125mに及ぶローツェフェースを仰ぎながら第4キャンプに向かった時、三浦さんの脳裏この38年前の出来事が過ぎったことと思います。また、この大滑降の準備段階で氷塊の突然の大陥落によって遭難死された6名のシェルパの霊に祈りを捧げられたことと思います。

さて、第4キャンプから最終の第5キャンプ(8,400m)を越えると、エベレスト山頂(8,848m)のすぐ下の8,500m付近のイエローバンド地層地帯を通って山頂までの約300mのコースこそ、このコースの最後にして最大の難関、ヒラリー・ステップです。僅か300mと言えども、急峻な岩稜で8,000mを越えて空気が薄く気温も低いために100m進むのに1時間以上かかると言われております。このコースの厳しさは、野口健さんが彼のエベレスト初登頂の経験を通してご自身の公式サイト「世界最高点へ(C4から頂上)」で克明に語られております。その一部を以下に引用させて頂きました。

「ヘッドランプの薄暗い光の中に、アイゼンを付けた人の足が浮かび上がった。誰か倒れてしまったのだろうか。目を凝らしてみると、胴体は雪に埋まっていた。足のみが露出している。遭難した人の遺体だった。・・・膝下まで雪に潜るラッセルが始まった。間欠的に睡魔に襲われ、意識が途切れそうになる。恐らく酸欠の影響だろう。また、一睡もせず、アタックを開始したから疲れが出てきたのかもしれない。・・・ ここから世界最高地点まで、ヒラリーステップと呼ばれる急峻な岩稜を歩かなければならない。頂上を目指すこのルート上で、最も危険な場所である。固定ロープは張ってあるが、風雪にさらされ、今にも切れそうなものばかり。滑る事は許されない。落ちれば、そのまま2000メートル下まで一直線。木っ端みじんになる。慎重に、細心の注意をして歩いた。・・・」

三浦さんも、野口さんと同じように苦しみながら喘ぎながら畳三畳ほどのエベレストの山頂に辿り着いたからこそ、ベースキャンプへの第一声が「「涙が出るほど嬉しくて・・・」ではなくて「涙が出るほどつらくて・・・」で始まったのだと思います。早速、三浦さんに下記のようなメッセージを送らせて頂きました。お読み頂ければ光栄に思います。

「「涙が出るほど嬉しくて・・・」ではなくて「涙が出るほどつらくて・・・」で始まった第一声に感動しました。 そして、三浦さんの最高齢登頂記録達成を阻止したシェルチャンさんを讃えるとともに、80歳で再度登頂を目指すと言われたことに感動は続きました。75歳から80歳の5歳のハンディは、同じハンディでも70歳から75歳のそれとはくらべものにならない程に厳しいものになることと思います。体力を現状維持されて、最高齢登頂記録を達成されることをこころよりお祈りしております。そして、後期高齢者医療制度の発足で、ややもすれば肩身の狭い思いをしている後期高齢者に是非とも、希望と励みを与えて下さい。」


ホスゲンの分子式と分子構造モデル(ウイキペディアより)

30年以上昔のことですが、当時私は化学用機器類の技術関連の仕事に従事しておりました。ある時、某大手石油化学メーカーに納入した化学用機器が腐食してプラントが停止するトラブルが発生したため、現地に調査に出向きました。確かに客先から提示された仕様では問題ないはずなのに、そのプラントに納入した同類の機器全てに共通に腐食が確認されました。

客先は、我々に提示した仕様どおりに運転しているからその責任は我々の方に有ると主張し代品納入とプラント停止の損害賠償を要求してきました。対象機器が10基近く有ったことも有り、代品納入額だけでも当時の金額で数千万円に上ることは明白でしたので、同行した営業担当者は顔面蒼白になり私を睨めつけました。

私はどうしても納得し難い点が有るので、引き続き午後から再度協議したいと申し入れところ受理され、昼食を工場内の食堂で摂るようにと食券を渡されました。実は、このことが私に幸運をもたらしてくれました。食堂の片隅で営業担当者と一緒に気まずい思いをしながら食事を摂ったのですが、その時、近くの席で食事をされていた工場従業員の方の会話が耳に入りました。

その話の内容は、腐食した機器内にあるホスゲンの除去作業のようでした。私は、内心「これだ!」と思わず声を上げそうになるのを抑えながらあることに思いを馳せておりました。ホスゲンは、上図のような分子構造を持っており、この構造中のカルボニール基(C=0)が酸素原子の不対電子のためにマイナス電荷を帯びることから強い極性を有するために、納入した機器類はホスゲンが存在する仕様では保証できないことを予めカタログに明示して有ったのです。

昼からの協議の冒頭で、「今回の腐食は、例えばホスゲンのようなカルボニール基を有する化学物質の存在下でよく見られる特有の腐食形態を示しておりますので念のためにお聞きしますが、そのような物質が混入している可能性は有るのでしょうか?」と質問してみました。客先側の責任者の方は「国に届けているように、ホスゲンが反応成分としてこの機器内に投入されていることは事実だが、かって毒ガスとして使われていたこともあって聞こえが悪いので仕様書に記載することを避けたが他意はない。それがどうしたのだ?」と切り返してきました。

私は、待ってましたとばかりに、ホスゲンがこの機器に不適であることが記載されているカタログを見せながら、「この記載にあるように、ホスゲン存在下ではこの機器は残念ながら使用できません。申し訳ございませんが、仕様外条件に相当しますので保証はできません。」と答えると、責任者の方は、しばらくカタログを見てから「判りました。本件は我々の方に落ち度が有るのでクレームを取り下げます。・・・・」と引き下がられました。

客先側の紳士的で、潔い対応に恐縮しながらも、クレームを免れたことに胸をなでおろして帰路に着きました。気をよくした営業担当者は駅の近くの料理屋で、終電すれすれまで私をもてなして労をねぎらってくれました。この会社は日本を代表する化学メーカーで、ホスゲンの使用に関しては然るべく国に届けを出しており、法的に何ら非は無いのですが、それでもホスゲンの使用を知られたくないとの思いが担当者には当時でも有ったようです。

でも、その責任者の方はその事実を隠さずに我々に公開し、その非を認めて責任を取られたことを後で知りました。しかし、その後に役員にまで昇進されたとのことですから、しっかりした会社はそのようなしくみができているものと感心したものでした。それに較べて、同じ化学メーカーでありながら数々の不祥事を懲りもせずに行い、今回も国に無届けのままホスゲンの製造を続けてきた石原産業の体質と対比しながら、あの日のことを思い出してみたのでした。




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