−日記帳(N0.1306)2008年07月01日−
イタリアでの落書き事件に思う
−日記帳(N0.1307) 2008年07月02日−
今日、半夏生の日に思うこと


サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂

今年3月にイタリアに旅行してきました。まだ、旅行記の本文はアップしておりませんが、次の記事をアップしております。

ボッタクリの国イタリア
スリが横行の国イタリア
コンビニ無い国イタリア
高速道先進の国イタリア

ここにはアップしておりませんが、「落書きの国イタリア」を旅行記の本文にはアップするつもりでした。とにかく、落書きがイタリアの観光地のあちらこちらで見られ、特に地下鉄の車両と街なかの店の壁が酷かったことを記憶しております。最近、日本のメディアで日本人観光客がフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の見晴台の大理石の柱に落書きしたことが大きなニュースとして取り上げられてしまいましたので、一歩先んじられた思いがしました。

このイタリアでの落書き事件は、落書きに学校名や自分の名前らの個人情報が記載されていたことから、落書きを現地で目撃した人が学校名や名前を公開してネットへ投稿したことから端を発してテレビ・新聞で報道され、特定化された人たちが、厳重注意、停学、監督解任等の当のイタリアでは考えられない重い処罰を受けたことから、その是非が話題を呼んでおります。

イタリアでは、このような落書きに対して極めて寛容で、かつ落書きの消去について消極的であるように私には思えました。それは、いい意味で暢気、悪い意味でいい加減なイタリア人の国民性によるところが大きいと思います。例えば、下の画像に示すように、これだけ酷い落書きをされたら日本なら運休して車庫で消去作業をするところですが、イタリアでは平然として運転されており、乗客たちも落書きに見向きもしないのがそれを物語っていると思います。

大々的に落書きされたイタリアの地下鉄車両

従ってイタリアでは、日常茶飯事の今回の日本人観光客の落書き事件が日本のメディアで大々的に取り上げられ、停学、解任等の重い処罰が課されたことに驚き、謝罪や消去費用負担等の日本側の対応に戸惑いを見せているように思われます。イタリアに、落書き用のペンを売っていたとの報道の真偽はとにかく、落書き消去の専門業者が数多くいることは事実で、落書きが無くなれば彼等は失業することになりますから、落書き消去を本人にさせるために現地に派遣するとの日本側の申し出を断ったのも判るような気がします。

ある新聞で、イタリアの世界遺産は落書きだらけと報道されておりましたが、今回のイタリア旅行での私のささやかな世界遺産観光の経験では、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂を除いて、いずれでも見掛けませんでした。間違っているかも知れませんが、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂内での落書きは相当以前から行なわれていたようです。この大聖堂の壁には16世紀にフィレンツェを支配した貴族の名前などが彫られており、その他歴史上の著名人の落書きも見られると言われております。特に頂上部の見晴台の大理石の柱への落書きが最も多いようです。

例えば、このサイトで8年前の2000年6月にサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂を訪れた際の紀行文の中に「・・・クーポラの外面には無数の落書きがしてあり、日本語の落書きもかなりあった。文化財にいたずらすることは許せないが特に外国に来てまで落書きするとはどういう人間だろう。しかも新婚旅行で来て記念に落書きしたと思われるものがかなりある。・・・」の一文が有ります。

サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂に見られる日本人の落書き

恐らく、ここで落書きをした日本人観光客は数え切れないほどいるはずで、実名や学校名を記入したために、たまたま目撃された人にネット上で公開され、人生の岐路に立たされるほどの汚点を残してしまったことに、私は割り切れない思いに駆られております。勿論、文化遺産に落書きするなど絶対に許される行為ではありません。ただ、今回のように敢えて個人情報を残したことに、幼稚さと無用心さが見られ、自分の足跡をのこしておきたいとの思いによる上の画像に見られるようなささやかなもので、上の地下鉄車両の落書きのように自分たちの描画技能を誇示して良俗を乱すような思いは全く無かったことを関係者の方々に理解して欲しいと思います。

日本人の海外での落書きで最古と思われるものを数年前にカンボジアのアンコールワットを訪れた際にカメラに収めることが出来ました。それが下の画像です。寛永9年(1632年)に同地を訪れた江戸初期の武士・肥前松浦藩士の森本右近太夫によって「御堂を志し数千里の海上を渡り」「ここに仏四体を奉るものなり」書かれたと言われております。1860年にここを訪れたフランス人学者のアンリ・ムーオによってこの落書きが日本人によるものとして世界に紹介されたわけです。

アンコールワットに見られる日本の武士による落書き

こうした落書きは日本にとってもカンボジアにとっても貴重な文化遺産ですから保存には充分配慮して欲しいものです。このように将来、歴史に残こる人物になられる方はともかく、そうでない方で、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂に個人情報入りの落書きをされた方はできるだけ早く現地に出向いてその落書きを消去されたほうが賢明と思います。今後、実名公開の目的で現地調査される向きが多くなると思われるからです。

葉の片側が白化することから片白草とも言われる半夏生の花
(植物園へようこそ!から転載させて頂きました)

今日7月2日は、雑節の「半夏生」です。七十二候 によれば、今日から5日間も「半夏生」と言います。この期間に、各地でウドンを食べたり、蛸を食べたりする習慣が有るようです。そこで、今日は、この「半夏生」に纏わる花について思いを述べてみたいと思います。

季節の節目を表わす言葉に、冬至や夏至などの「二十四節気」と彼岸、八十八夜などの「雑節」が有ります。大陰暦などの旧暦では、月が約29.5日で地球を一周することから1ケ月を29.5日、1年をその12倍の354日とするため毎年約11日ずつずれ、3年でそのズレの分が1ケ月分に相当する33日になることから、約3年に1回閏月を設けております。その影響を受けて太陽暦の新暦と太陰暦の旧暦では、年によって違いますがおよそ30日前後旧暦が遅れることになります。

そのため、例えば1年で最も暑い時期は7月下旬ですが、旧暦で7月下旬は6月下旬で梅雨の真っ盛りでタイミングが合いません。そこで、日本では、太陽暦と同様に太陽の運行に基づいいて1年を4等分して四季の季節、更に季節を6等分で計24等分する「二十四節気」が天保年間に導入され太陰太陽暦の天保暦となり、明治5年の新暦移行後も「二十四節気」はそのまま使われております。

「二十四節気」では夏を、立夏、小満、芒種、夏至、小暑、大暑とし、最も暑い時期を大暑としており、今年は7/22となりますので実際の季節感に合致しております。一方、「雑節」は「二十四節気」の節気と節気の間、節気から数えて何日目などをもって節としております。例えば、八十八夜は立春から88日目、二百十日は立春から210日目としております。この「二十四節気」を更に、「初候」「次候」「末候」と3等分し、夏至の「末候」を「半夏生=ハンゲショウ」と言っております。つまり「候」か約5日間ですから、夏至から数えて11日目からの5日間を半夏生と言うことになります。

一方、この時期に、烏柄杓(カラスビシャク)という薬草が採れ、その名が「半夏」と呼ばれることからこの時期を「半夏生」という説と、半夏生の頃に採れるからこの薬草を「半夏」と呼ぶとの説が有りますが、上述の「七十二候」で、夏至の末候を半夏生と定義し、その意味を「烏柄杓が生える」としておりますので、元々半夏(=烏柄杓)と言われる草の根が生えるから、この時期を「半夏生」としたとの前者の説が正しいと私は考えております。

この半夏(=烏柄杓)は、田畑で球根を持つ雑草で猛烈に繁殖するので畑仕事の合い間に農夫が掘り取り、家で女性たちが皮を剥いてから日干にし、家に立ち寄る仲買人に売ることで臨時収入になったことから、別名「へそくり金」とも呼ばれております。現在は、日本で産出しなくなったため、鎮嘔、鎮吐、鎮咳、鎮静、去痰、利尿に有効な漢方薬として中国から輸入されております。

ところが、ややこしいことに、「半夏生」という花がこの時期に咲くのです。この花は、上述の「半夏」がサトイモ科であるのに対してドクダミ科ですので別種です。名前が似ているのと、同じで半夏生の候に咲くので混同されるようです。この花について、作曲家,故團伊玖磨さんの面白い随筆があることが、このサイトで、次のように紹介されておりましたが、故團伊玖磨さんはきっと粋な方だったようですね。私も彼の意見に敬意を表して賛同したいと思います。

「……それにしても,半夏生の名はどうも半化粧の方が感じが出る。……その先端の二,三枚の葉を白化させているのを見ていると,花魁か芸者か知らないが,玄人筋の女が鏡台の前で厚化粧に取りかかっている最中に,用を思い立ってふと立ち上がったような姿に見えてならない。……」

また、團伊玖磨さんは「……暦の上で半夏という候があって、その頃に生える植物の名が半夏生になったのなら判るが、半夏の方が植物の名として先にあって、その植物が生える頃だから半夏生という候が暦に載るというのだから、順序が逆な気がする……」とされておりますが、上述の私の考え方が正しいと思いますので、この件に関しては團伊玖磨さんの方が誤解されているように私には思えるのですが・・・・・。 それにしても、花や草の色が時間の経過とともに変わっていくのは何か風情があっていいものだと思います。以前、この日記で「夏の花、二題」と題して、「月下美人」と「酔芙蓉」を取り上げたことが有りました。月を鏡に見立てたのか、愛しいあの人を思い、満月の夜に月に焦がれて、一夜にして萎んでしまったとの言い伝えのある「月下美人」そして、朝方は白かったのに暗くなるほどに酔いがまわったかのように薄紅色に変わり「風の盆恋歌」にあるように、庭先で咲く花の色の変化に恋しい人を思う薄幸の女性を思わせる酔芙蓉の花・・・・・。来年のこの時期には「夏の花、三題」として、半化粧、月下美人、酔芙蓉を取り上げてみたいものです。花と女性、いいですね。

友人宅に咲く月下美人

夕方になると左から右に薄紅色に変化する酔芙蓉

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