−日記帳(N0.1346)2008年08月10日−
名古屋残酷物語
−日記帳(N0.1347)2008年08月11日−
北島康介物語(4)




地 域 8/1 8/2 8/3 8/4 8/5 8/6 8/7 8/8 8/9 平均
東 京 31 31 32 34 30 34 34 35 33 32.8
静 岡 28 30 33 33 32 31 31 32 31 31.2
名古屋 34 35 37 37 37 34 36 36 36 35.8
大 阪 34 34 35 35 35 35 34 34 35 34.6
鹿児島 36 35 35 36 35 34 30 32 29 33.6

100m平泳ぎで優勝を確認しガッツポ−ズする北島選手

私も結構、長く人間してますが、今年ほど暑い夏は経験したことがありません。気候温暖な静岡で生まれ育って大阪、東京、名古屋と移り住み、名古屋の夏の暑さに当初馴れず、汗疹に悩む年を送り続けたものの今ではその暑さにも馴れておりました。しかし、それでも今年の暑さにはほとほと参りました。

上表は、私が移り住んできた静岡、大阪、東京と、今年の夏鹿児島に旅行した折にバスの運転手さんに「日本で一番暑い鹿児島に暑い盛りに来るなんて・・・」と鹿児島の暑さを強調されましたので、その鹿児島の4地域と名古屋の、8月1日から8月9日までの9日間の最高温度を示したものです。これによると、なんと、名古屋は9日間中、35度以上の酷暑日が7日間も有ったのに、我が故郷、静岡では一度も無く、東京でも僅か1日でした。

そして、鹿児島の運転手さんが、日本一暑いという鹿児島でも平均温度は名古屋よりも2度以上低く、また大阪でも平均温度で1度以上低くなっております。9日間のうち8月7日以降は残暑ですから、まさに名古屋暑は暑です。この太字の部分をもじって今日の日記のタイトルを「名古屋残酷物語」と命名しました。

400年ほど前に私と同じように、名古屋、大阪、東京と移り住んでその暑さを知り尽くし、そこから逃れるために静岡に移り住んだ男が居りました。徳川家康です。彼は幼少の頃、人質として今川義元の支配地、静岡に住んでこの地域の温暖な気候をよく知っておりましたので、晩年は住み慣れた東京から静岡に移住しております。

西の秀吉、東の家康と言われますが、家康は将軍として江戸城に居たのは僅か3年に過ぎず、関東支配時代の12年を加えても、15年間程度で75年の生涯の大半を静岡県で過ごしていることから、西を大阪、東を東京とするなら、この言い方は間違っていると言わざるを得ません。家康は西でも東でもない静岡の人であり、その動機は冬暖かく、夏涼しい静岡の気候にあったと静岡生まれの私は確信しております。何故、名古屋がこうも暑いのかについて定説は無いようですが、私は次の三つが要因として挙げられ、それらが相乗するからと考えております。

・フェーン現象:
・ヒートアイランド現象:
・湿気を呼び込む地形:

南西寄りの風は熊野山系、西寄りの風は鈴鹿山系を濃尾平野に下って名古屋周辺にフェーン現象を起こすものと考えれます。名古屋市を中心に市街地や工業地帯が広がるためにヒートアイランド現象は常に起り得ます。そして、理由は定かでないのですが南から湿気を多く含んだ風が入りやすい地形になっているとのことです。三方が山で囲まれ、一方が海に面する地形を持つ名古屋地方独特の地形が名古屋残酷物語を演出しているものと思われます。


北島康介選手は、北京五輪水泳種目の平泳ぎで100mで世界新記録、200mでオリンピック新記録でともに優勝するという偉業を達成しました。この偉業を達成する前後で、北島選手ならではの印象的なシーンが見られました。それは次の三つです。

・入場するとタオルでスタート台を入念に拭いた北島選手:
・100m優勝インタビューで顔を拭くことで涙を隠した北島選手:
・200mの競技前のインタビューで「出します」と言った北島選手:

スタート台は競泳選手にとって神聖な場所でありますが、もしそこに異物が付着していたり、水で濡れていたりしたら、飛び込み時に、つまずいたり、すべったりする恐れが有る場所でもあります。以前、北島選手は濡れていた水で滑ってスタートを失敗したことが有りました。タオルで拭くのはそのようなミスを犯さないためと思われますが、もうひとつ気持ちを落ち着ける狙いも有るように私には思われました。

北京五輪に選ばれるまでに、北島選手にはいろいろなことが有っただけに、100mで自分の持つ世界記録を塗り替える新記録で優勝した時は万感の思いが北島選手の脳裏を過ぎり、インタビューでアナウンサーに声を掛けられて、その感激に溢れる涙を抑えきれず、タオルで顔を拭く動作でその涙を隠し、しばし無言を続けました。アナウンサーはその思いを察してか、しばし間を置いてから再び声を掛けておりました。

「出します」の意味は「世界新記録を出します」の意味です。世界新記録を出すことは同時に優勝することですから、大変なことです。 特に、北島選手はこれまで公言して約束したことは悉く果たしてきた「有言実行」の選手でしたから、世界新記録で優勝することを公言したとも受け止められるこの言葉には重みが有りました。

そのため、200m優勝後のインタビューでは、北島選手には100m優勝の時に見せたような喜びの表情は無く、「記録が出なかったのは残念」と添えていました。ところで、北島選手が、このように世界の水泳史に残る名選手になった経緯を調べてみると、次の三つの転機が有ったようです。

・越境して千駄木小学校に入学:
・平井コーチとの出会い:

・岩崎選手の金メダルに感動:
北島選手は東京都荒川区日暮里で生まれましたから、荒川区内の小学校に入学するのが建前でした。しかし、5才から東京スイミングセンターで水泳を始めるほどに水泳が好きだったことから、水泳の名門小学校への入学を考えていたようでした。当時、隣の文京区の千駄木小学校は立派なプールを持ち、水泳教育に熱心だったことから、越境して千駄木小学校に入学したのでした。ご両親はこの時既に、北島少年の水泳選手として大成することを予見されていたのでしょうか。そして、結果的にはこのことが彼に幸運をもたらしました。

その幸運が、平井伯昌コーチとの出会いでした。1年の時に所属していた東京スイミングセンターのコーチ、平井伯昌氏に指導を受けました。平井伯昌氏は、後に北島康介選手の専属コーチになって彼を育てあげた、いわば北島康介選手にとって恩人に当たる人ですが、その平井コーチは物静かに黙々と泳ぐ康介少年の泳ぎを見て、あまりにも体が固かったので水泳選手として大成するのは無理だろうと思ったそうです。

このままなら、それ以上平井コーチの目にとまることなく平凡な水泳少年で終わったことと思われます。しかし、千駄木小学校を卒業して、千駄木小学校に近い同じ文京区内の文林中学に進学した北島少年と再会した平井コーチは、様変わりした北島少年に驚きました。体が固いことは小学生の時と変わらなかったのに、目つきが鋭くなっていたのです。平井コーチはこの時、北島少年が五輪選手になることを確信し本格的に彼を指導することを決めたのでした。

北島少年をして、平井コーチが驚くほどに豹変させたのは、千駄木小学校5年の時に観たあるテレビ画像のシーンでした。それは、1992年のバルセロナ五輪で まだ14歳の中学生だった岩崎恭子さんが、女子200m平泳ぎで金メダルに輝いて、「今まで生きてきた中で、一番幸せです」と晴れ晴れしくインタビューに答えていたシーンでした。

彼はこれを見て将来自分もオリンピックに出たいと思うようになり、将来水泳の道に進むことを決意し、人生の転機を経験したのでした。そして、千駄木小学校を卒業する時、「大きな夢。それは速くなって、日本の代表選手に選ばれて、オリンピックに出ることだ」と文集に書いていることからもその決意のほどが窺われます。こうして名選手は次代を背負う名選手を触発し、その触発は名伯楽を触発し、 世界の北島康介選手を生んだのでした。

北島選手が常に口にする「自分の力だけではない」という言葉には、上述の転機をもたらしてくれた人々への感謝の思いが込められております。ひとつは、敢えて越境させてまでも千駄木小学校に入学させてくれたご両親へ、ひとつは、五輪選手への夢を見させてくれた岩崎恭子さんへ、ひとつは名伯楽、平井コーチを中心とする「チーム北島」のスタッフへでした。しかし、この三つの転機を融合させて成功をもたらしたのは、平井コーチを始め支援スタッフを信じ、常にその指導を真摯に受け止めてきた北島選手の人間性でした。

。五輪で優勝するには、心技体を整わせることが必須条件です。北島選手は「チーム北島」によってこれを成し遂げました。「チーム北島」は、平井伯昌コーチを中心にマッサージ担当、肉体改造担当、鍼灸担当の3人の専門スタッフの計4人から構成されておりました。 全てのレース終了後、北島選手はチームリーダーの平井伯昌コーチに、「ありがとうございました」と深々と頭を下げ、この時点で「チーム北島」は輝かしい最高の成果を収めて事実上解散しました。中2から13年間指導してきた愛弟子の最後の個人種目を見届けた平井伯昌コーチの目には涙が滲んでおりました。

マッサージ担当の小沢邦彦さん(38)、肉体改造担当の田村尚之さん(42)、鍼灸担当の加藤明生さん(34)の3人の専門スタッフも最後の五輪での泳ぎを見届けて、平井伯昌コーチと同じような思いを抱かれたことと思います。彼等は、然るべき報酬もないまま、言わば手弁当で北島選手の体調維持・管理を通して支援してきたのでした。

今大会でも、試合前に体調を崩したり、不用意な試合態度で敗退する選手が数多く見られました。そのような選手に限って、専門のコーチを置かなかったり、身内をコーチにしたり、、体調管理を専門スタッフに委ねなかった場合が多かったように私には思われました。持病を抱えている選手は、尚のことで代表に決まった時点で専門医とともに競技に支障を来たさないようすべきですが、持病の再発でまともに競技できなかった選手は果たしてそのような対応をされたのでしょうか。

競技に支障が出ることが事前に確認されたら、速やかに辞退を申し出て代わりの選手が出場できるよう配慮すべきです。これも出来ないようなら、競技者としてだけでなく、人間としても失格です。「チーム北島」の成功は、今後の英才教育の在り方に一石を投じました。今後、第二、第三の「チーム北島」が出てくることを期待します。北島選手、そして「チーム北島」のみなさん、大きな感動有難うございました。今回をもって「北島康介物語」を終了させて頂きます。「


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