ロシアのグルジア侵攻について(1)
(ソ連崩壊までのグルジアの歴史)
ロシアのグルジア侵攻について(2)
(今回のロシア侵攻に到る経緯)


グルジアのロケーション(上図の淡褐色の部分)

世界中が北京五輪開会式に注目していた8月8日、ロシアが隣国のグルジアに侵攻を開始したとの衝撃的なニュースが飛び込んできました。我々、日本人には、グルジアという国は馴染みが薄く、また、ロシアとどのような関係になっているかもよく判りません。私もその一人ですので、この際、何故ロシア軍がグルジアに侵攻したのかを理解したいと思い、グルジア及びロシアとの関係を勉強してみました。その学習結果をまだ記憶の新たなうちに、今日と明日の日記に書き留めておきたいと思います。

グルジアは人口、440万(世界119位)で、ソ連の独裁者スターリンやゴルバチョフ政権下で外相として活躍したシュワルナゼ元グルジア大統領の母国として知られております。戦後、グルジアがソ連邦を構成する一国であった頃は、スターリンを輩出したことからも判るようにソ連中央政府との紛争は起きておりませんでした。

しかし、1953年にスターリンが死去してから、グルジア特有の民族意識が芽生え始め1956年に民族集会・運動にソ連軍が弾圧を加えた 第1次トビリシ事件、1989年には民族意識が独立運動にまで高まったことから更なるソ連軍による弾圧が加えられた第2次トビリシ事件が発生し、グルジア情勢は緊迫の度を増すようになりました。

グルジアで民族意識が芽生えたかを理解するには、グルジアの地理と歴史に触れる必要があります。グルジアは右頁の冒頭の図に示すように、北側でヨーロッパ最高峰エルブルス山(5,642m)など険しい山々が連なるコーカサス(カフカス)山脈を隔ててロシアに面し、西側で黒海に接し、西側でアゼルバイジャンを隔ててカスピ海に面し、南側でポントス山脈を隔ててトルコとアルメニアに接しております。

このため、コーカサス山脈がバリアーになって北側からロシアに侵攻されることは18世紀末まで無かった反面、西側から紀元前1世紀には西グルジアがローマ帝国に、1世紀に東ローマ帝国(ピザンチン帝国)に併合され、6世紀頃には南側から東グルジアがサーサーン朝ペルシャ帝国(現在のイラン)に、7世紀にはアラブの支配を受けました。

10世紀には一時的にバグラト朝がタマラ女王(在位1184年-1213年)のもとで最盛期を迎え、南コーカサス全域を領有したことも有りましたが、13世紀以降は数次に渡って外敵の侵入を受けて国土は疲弊し、16世紀にはオスマントルコ帝国の支配を受けて東西に分割され、 そして、ついに18世紀末に北側からロシアの侵攻を受け、19世紀初頭に東グルジアが、19世紀中頃に西グルジアが相次いでロシアに併合されてしまいました。

こうして、グルジアは完全にロシアの属領になったのですが、ロシアから分離独立しようとする気運は常にグルジア、アゼルバイジャン、アルメニアのカフカース三国にみなぎっておりました。そして絶好のチャンスが巡ってきました。1917年のロシア革命による帝政ロシアの崩壊です。カフカース三国はこの機に乗じて三国が合併してザカフカース民主主義連邦共和国の独立を宣言しました。

しかしこの国は軍事力を保持していなかったことからドイツ、トルコに援助を求めざるを得ず、更に民族が異なることから、親ドイツ派のアルメニアとグルジア、親トルコ派のアゼルバイジャンに分かれたため、建国僅か2ケ月で共和国は廃止され、グルジア、アゼルバイジャン、アルメニアの各共和国が建国されました。

以上の経緯により、1918年5月26日にグルジア民主主義共和国が宣言され、ドイツ軍の援助のもとでドゥシェチでの反乱を鎮圧し、さらにはトルコと条約を結んでアドジャリア等一部をトルコに譲渡し、ドイツ、トルコの庇護のもとで、1918年7月にグルジアはかっての支配者のロシアがロシア革命で混乱状態になっているところにつけこんで侵攻することもありましたが、ドイツ、トルコが第一次大戦で敗れたことから弱体化してしまいました。

そして、1921年2月にソ連軍の侵攻を受けて屈服し、グルジア・ソヴィエト社会主義共和国を建国せざるを得なくなりました。1922年には、かってのザカフカース民主主義連邦共和国の例にならって、ザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国として三国が再び合併しましたが1936年に再び、それぞれに国名の後にソヴィエト社会主義共和国を付けて分割され、それぞれにソヴィエト連邦国家となりました。

こうして、グルジアはソ連構成国家として1940年代はグルジア出身のスターリンの独裁の影響もあって反ロ運動は鳴りを潜めておりましたがスターリン死去後の1950年代から1980年にかけて上述のように、2次にわたるトビリシ事件を経て、グルジア情勢は緊迫の度を増していき、かってロシア革命に乗じて独立を果たしたように、1991年のソ連崩壊に乗じてグルジア共和国として独立を宣言したのでした。

グルジアでのアブハジアと南オセチアの位置関係

こうしてグルジアは、1991年のソ連崩壊に乗じて積年の夢であったロシアからの開放に成功したものの、大きな歪は開放されないまま、新生グルジア共和国に残っており、これが今回、ロシアから侵攻を受ける遠因となりました。その歪は主に次の3点でした。

・新生グルジア共和国の政情不安:
・アブハジアや南オセチアで分離独立運動が活発化:
・NATO加盟、石油利権を絡めてロシアと対立:

新生グルジア共和国の多くの閣僚はソ連旧共産党員であったことや強権的な統治が行われたために、政局不安は改善されず、治安も悪化し内戦状態に至いり、初代大統領のガムサフルディアも独裁者の烙印を張られて1992年にクーデターにより失脚してチェチェンに亡命後非業の死を遂げました。そして、かつてソ連外相としてゴルバチョフ大統領とともにペレストロイカを推進し、国際的に抜群の知名度を誇るシェワルナゼが2代目大統領に擁立されました。

シェワルナゼ大統領の手腕によってグルジアの経済及び社会情勢は安定を見せ、市場経済への転換も軌道に乗りましたが、次に述べるアブハジア紛争に伴う難民問題、更には暗殺未遂事件が数度発生したことを契機に、市場経済へのプロセスが停滞し始め、それに伴い汚職の蔓延や電力やガスなどの供給不安、失業などが拡大した上、2003年11月の議会選挙の不正を野党側が糾弾し、議会占拠の混乱に至ったため、バラ革命を契機に大統領を辞任し、最大野党の党首ブルジャナゼ女史が第三代の暫定大統領に就任しました。

2004年1月の総選挙で、サアカシュヴィリ氏が驚異的な得票率で圧勝し第4代大統領に就任しました。しかしその後の強硬政策で国内外からの批判が強まって政情不安は改善せず、ロシアがアブハジア地方のロシア系民族を保護して平和維持することを名目ににアブハジアに軍を駐留させるなどロシアとの外交関係が険悪化しました。こうしたサアカシュヴィリの強行的な言論弾圧や政敵排除は、後ろ盾であるアメリカ合衆国などに民主化の後退の印象を強めさせる結果を招きながら現在に到っております。

グルジアは、グルジア人(70.1%)の他にアルメニア人(8.1%)、ロシア人(6.3%)、アゼル人(5.7%)など8民族が住む他民族国家で、中でもグルジア東部の南オセチアにはオセット人(約70,000人)、西部グルジアのアブハジア地方にはアブハズ人(250,000人?)が住んでおり、いずれもロシアを盾にしてグルジアからの分離独立を求めて1920年代から活動しておりました。

1921年2月に、ソ連の主導のもとでグルジア・ソヴィエト社会主義共和国が建国された時には、南オセチア地方は自治州として存続しておりましたが、1991年のグルジアの独立によって自治州は消滅してしまいました。これに反発した同地方のオセット人は、自治権を要求して南オセチア紛争を起こして勝手に南オセチア自治州を再設立してしまいました。

南オセチア自治州はグルジアは勿論、国際的にも承認されておりませんので公式な呼称ではありません。彼等はグルジアからの分離独立して東隣りの同じオセット人が住むロシア連邦の北オセニア共和国との合併をグルジア政府に要求して対立しておりました。

そして、サアカシュヴィリが大統領になってから対立は激化し、今年8月になってグルジア軍が支配の及んでいない南オセチア地方に侵攻した結果、自国民保護を理由に同地方に駐留していたロシア平和維持軍と交戦する結果を招いてしまいました。グルジアはロシアにとって、カスピ海原油を欧米や東南アジアに販売するためのパイプラインを施設する上で重要な拠点であることから、ロシアはかねてからグルジア在留ロシア人保護を名目にして平和維持軍を増派して親米寄りのサアカシュヴィリ政権弱体化を画策しておりました。

従って、グルジア側からロシア平和維持軍に戦闘を仕掛けてきたことは、ロシアにとって平和維持軍を増派する絶好の機会が得られたことになります。ロシアは待ってましたとばかりに、世界世論が北京五輪開幕に集中していた開幕日の8月8日にロシア連邦国の北オセチアを経由して大量の戦車部隊を南オセチア地方にとどまらずグルジア中部の中核都市ゴリ、更にはアブハジア地方にも侵攻し、事実上ロシアとグルジアは戦闘状態に陥りました。

五輪開会式に出席していたプーチン首相は直ちに帰国して陣頭指揮しました。軍事力で比較するまでもなく劣勢なグルジアはたまらず、事実上の降伏とも見られる停戦をロシアに呼びかけるとともに欧米による調停を視野に入れてロシアの平和維持軍の即時撤退を呼びかけました。当初、ロシアは撤退には消極的でしたが、サルコジ仏大統領が調停に乗り出し、更に五輪開会式に出席中のブッシュ米大統領の非難声明に続き、大方の世論がロシアに批判的になっていることから22日までに全面撤退する声明を発表して現在に到っております。以上が、ロシアのグルジア侵攻の背景ですが、アブハジア紛争とグルジアを巡る石油利権の絡みについては明日、触れたいと思います。


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