−日記帳(N0.1350)2008年08月14日−
ロシアのグルジア侵攻について(3)
(グルジア国内で共和国を名乗る三つの地域)
−日記帳(N0.1351)2008年08月15日−
ロシアのグルジア侵攻について(4)
(カスピ海バクー油田開発の歴史)


アブハジア共和国の軍隊

上の画像は、アブハジア共和国軍の兵士が自国の旗を掲揚して敬礼している風景です。よく考えてみると奇妙です。いくら辞典を調べてみてもこのような国は存在しないからです。実は、グルジアには、このアブハジア共和国のように、グルジア共和国に属しながら共和国を名乗る地域が三つ存在しております。まず、一つ目は昨日の日記で取り上げた南オセチア共和国(下図の左上の茶色の部分、尚、自治州と訳される場合もあります)、二つ目がこのアブハジア共和国(下図の中央の茶色の部分)、三つ目がアジャリア共和国(下図の下の茶色の部分)です。

アブハジア共和国の軍隊

この三つの地域には非グルジア系民族が多く住んでおり、1921年のグルジア共和国建国の際にロシアからグルジアに編入されて以来、グルジアからの分離独立運動をして、勝手に共和国を名乗ってグルジア政府と対立している点で共通しております。南オセチア共和国にはイラン系ながらキリスト教徒が多いオセット人、アブハジア共和国にはキリスト教からイスラム教に改宗したアブハズ人、ジャリア共和国にはトルコ系のイスラム教徒のアジャール人が多く住んでおり、何故かこの地域では嫌われ者のロシアに親近感を持ち、ロシアを盾にしてグルジアからの分離独立を目指しているのでロシアと対立関係にあるグルジアとしては、やっかいこの上ない存在です。

国際的には、これら三つの共和国は国として認められておらず、あくまでもグルジア共和国の一地域として承認されており、グルジア政府も自国領土であることを主張しておりますが、上述の背景でこの三つの地域では民族意識が強くグルジア中央政府の実効支配が及んでいなかったのが実態です。ただ、このうちアジャリア共和国は2004年までは、グルジア中央政府の実効支配が及んでいなかったのですが、サアカシュヴィリ政権のその後の強攻策により、アバシゼ議長がロシアに亡命したことから現在ではグルジア中央政府の実効支配が及んでいるようです。この地域は南オセチア共和国やアブハジア共和国のようにロシアと地続きになっていないためロシアの平和維持軍が駐留できないこととが大きな理由になっているように思われます。

その点、南オセチア共和国やアブハジア共和国はロシアと地続きになっていることから、ロシアが自国民の保護を名目にして平和維持軍として駐留しているため、迂闊に実効支配すべく軍事介入すると、8月8日のロシアのグルジア侵攻事件のように、ロシアの平和維持軍と交戦することになってロシア側に軍事介入の大義名分を与えてしまい逆効果を生んでしまいます。グルジア政府としては現在、苦しい選択を迫られております。そして、明日の日記で触れますが、カスピ海原油の輸送ルートがグルジアを通ることからその利権を巡って米ロの対立が第二冷戦の様相を呈してきたことから、グルジア問題が国際的にクローズアップされるようになって来ました。


カスピ海原油の利権の鍵を握るカスピ海、黒海、地中海

上の画像で、カスピ海西岸に能登半島のような形をして北に突き出している半島が有ります。アフヘショロン半島です。この半島のほぼ中央部の南岸にバクーという街が有ります。アゼルバイジャンの首都で、世界最古の油田の街として知られ、現在でも中東を凌ぐ良質の原油が採れ、ここ数年、年率20%台の経済成長を示しているアゼルバイジャン経済を象徴する街でもあります。

この街で石油や天然ガスが採れることは太古の昔から知られておりました。ゾロアスター教(拝火教)は古代ペルシャ(現在のイラン)にあった土着の信仰ですすが、その発祥地はこのアゼルバイジャンのようです。何故なら、ゾロアスター教の寺院では永遠に燃え続ける火が必要ですが、ここバクーにはその燃料となる石油や天然ガスが至るところで噴出しているからです。

多くのゾロアスター教の寺院はこの宗教を禁止したアラブによって破壊されてしまいましたが、18世紀に再建された寺院では現在でも永遠の炎が地下から天然ガスを導入して燃え続けております。太古の人たちにとって、何故火が燃え続けるのか謎でした。それが故に火を崇める考えが芽生えたものと思います。しかし、彼等はこれを生活の糧に利用するなど思ってもいなかったようです。カスピ海沿岸には、ここアゼルバイジャンだけでなく、どこでも石油が滲み出て、カスピ海に流れ出て悪臭が立ち込めていたとのことですから、むしろ公害そのものだったようです。

しかし、19世紀の産業革命を機に蒸気機関車などの動力機関等が実用化されると石油は石炭とともに重要な燃料として見直されつつありました。更に、1872年にここを支配していたロシアが石油産業の国家独占を廃止したことに加え、米国で起ったオイルラッシュに刺激されてバクーに欧米資本が流入しはじめました。その流れの中に、後にダイナマイトを発明して財をなしたアルフレッド・ノーベルの長兄のロバート・ノーベルがおりました。彼は、次弟のルドブィッヒ・ノーベルの石油蒸留、タンカー製造等の技術と末弟のアルフレッド・ノーベルの財力を利用してバクーの石油王として大成功を収めました。

当時アゼルバイジャンはロシア帝国の支配下にあり、石油の販路は自ずからロシアに限定されておりました。しかし、ロシアの人たちの大半は石油を買う余力など無かったため市場は厳しく石油業者たちは販路を外国に求めざるを得ず、当時唯一の外販ルートだったカスピ海を北上するノーベルのルートに対抗してバクーから黒海沿岸のバツームに通ずる鉄道建設を計画しましたが資金難で挫折したところに、ユダヤ系財閥のロスチャイルド家が目を付けてノーベル家と激しい競争を展開しました。

両家はバクーの労働者に厳しい労働を強いており、労働者たちに不満がつのっておりました。ここに目を付けた隣国グルジア出身の革命を志す若き活動家がおりました。彼こそ、後のソ連の独裁者ヨシフ・スターリンです。彼は労働者たちを扇動してストライキを画策した結果、1905年10月にストライキはロシア全域に及び、その煽りでバクー油田に大火災が発生しました。下の画像はその時の様子を伝える切手収集家、森井英孝氏所蔵の歴史的に有名な葉書のデザインで、同氏のサイト「切手で語る石油文化の光と影」から引用させて頂きました。

1905年10月のストライキで炎上するバクー油田

スターリンがこの一件で投獄された後、出獄した時点で既に、バクー油田を取り巻く社会的環境は、ロスチャイルド家、ノーベル家の油田の独占的支配を許しませんでした。やがて両家はバクー油田から去っていきました。こうして、バクー油田が帝政ロシアに受け継がれた20世紀初頭、未だペルシア湾の油田が開発されていなかったため、当時の世界全体の産出量のほぼ半分をバクー油田が産出していたと言われております。

やがて、バクー油田はソ連の支配に移り、第二次大戦中の1942年、バクーの油田地帯の占領を狙ってナチス・ドイツ軍が侵攻してきましたが、40年前にここでストライキを扇動したスターリンがスターリングラードでドイツ軍に勝利することで、バクー油田を死守することに成功しました。バクー油田を確保できなかったことがドイツ軍の敗北を早めたと言われております。

バクー油田の産出量は、1941年でソ連の全産出量の72%を占めておりましたが、20世紀末には陸上にある油田のほとんどが枯渇してしまいました。ところが、バクー東のアプシェロン半島先端の沖合いのカスピ海の海底に莫大な石油が埋蔵されていることが1990年代になって判りました。この油田は、Azeri、 Chirag、 Guneshliの3油田からなるため、Azeri Chirag Guneshli 油田(ACG)と名付けられました。 尚、ACG油田の可採埋蔵量は54億バレルでインドネシア一国の全生産量に匹敵し、予定されている最大日産量100万バレルは日本の全輸入量の約1/4に相当します。

しかし、この3油田はアプシェロン半島先端から約100km離れた海域の水深175mの海底の約150mの地下に在りますので、ここから石油を汲み上げてパイプラインで約150km先のバクー西のサンガチャルまで運ぶのには莫大な資金が必要で、到底アゼルバイジャン一国では対応できません。そこで日・英・米・仏・伊・ノルウェー・トルコ・アゼルバイジャンの8カ国が資本参加し、日本からは国際石油開発、伊藤忠商事が参画しております。

ここで、採られた原油は、アゼルバイジャン国内に施設されたBTCパイプライン(Baku-Tbilisi-Ceyhan)で黒海沿岸都市Ceyhanまで運ばれ、ボスボラス海峡、スエズ運河を経由して日本にも運ばれております。しかし、このパイプラインが今月はじめに、グルジア国内でテロにより爆破されて一時ストップするなど、ロシアのグルジア侵攻も含めて予断を許されない状況を呈しております。

こうして、カスピ海に莫大な海底油田が有ることが次々と判明し、カスピ海沿岸5ケ国(アゼルバイジャン、ロシア、カザフスタン、トルクメニスタン、イラン)で開発が進められるようになり、既にカザフスタン、トルクメニスタンで油田が発見されております。しかし、ここで問題が発生しました。カスピ海は世界最大の湖ですから、国連海洋法条約による沿岸国の領土から200カイリまでの沿岸国の排他的(独占的)な海底資源・水産資源などの利用が認めらません。

つまり、カスピ海を、海とするか湖とするかで、海底油田の所有権の帰属が変わりますから、ここ数年カスピ海沿岸5ケ国でもめてきましたが、漸く最近、アゼルバイジャン、ロシア、カザフスタンの三国間ではほぼ決着しましたが、アゼルバイジャンとトルクメニスタンでは、ACG油田の帰属が微妙な位置関係にあるため決着しておりません。また、カスピ海で取れた原油をどのようなルートで地中海まで運ぶかが、ロシアのグルジア侵攻を巡る米ロの対立が絡んで複雑な様相を呈しつつあります。この点については明日の日記で触れます。


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