−日記帳(N0.1378)2008年09月11日−
ロシア人力士に思うこと(1)
−日記帳(N0.1379)2008年09月12日−
ロシア人力士に思うこと(2)


オセット人の居住地域(上図の国境を跨いだ赤丸の部分)

現在のグルジア共和国、ロシア連邦北オセチア共和国を含むコーカサス地方に、オセット人と呼ばれる人口60万程度の少数民族が昔から住み着いております。彼等は古代の黒海北岸一帯で活動したイラン系民族の後裔と考えられており、諸民族と混交を重ねていく中でコーカサス山脈の北麗の低地地帯に王国を築いて独特の文化を継承し続けて現在に至っておりますが、その歴史は安泰ではなく常に東西南北からの強大な勢力に蹂躙される歴史を繰り返していることから悲劇の民族とも言われております。

このコーカサス地方はシルクロードの経由地であることから判るように、東西の文化が交流するところであると同時に東西、そして南北からの勢力が絡む係争の地でもあります。西側から紀元前1世紀にローマ帝国、1世紀に東ローマ帝国、6世紀頃には南側からペルシャ帝国、13世紀には東から蒙古帝国、16世紀には南側からオスマントルコ帝国の支配を受ける等、北側を除き、東西南三方からの勢力に蹂躙され続けてきたわけです。

北側には強大なロシア帝国が位置してますが、アルプス山脈よりスケールの大きいコーカサス山脈がバリアーとなって、このコーカサス地方は北側からの支配は受けておりませんでしたが、18世紀末になって北側からロシアの侵攻を受け19世紀中頃にロシアの属領になってしまいました。この時からグルジアには反ロ思想が芽生えておりました。

こうして、現在のグルジア、北オセチアを含むコーカサス地方は1921年、ロシア帝国の崩壊によるロシア革命でソ連邦が成立した時にグルジア、北オセチアに分けられて問題を残したままソ連邦に編入され、1924年7月7日にオセット人居住地域は北オセチア自治州(上図の赤色の上側の半丸)となりました。その時問題とは、オセット人の居住地域がグルジア出身のスターリンのある策略により南北に分離されてしまったことです。この問題が尾を引いて、ついに北京五輪開幕日のロシアのグルジア侵攻という形で顕在化したわけです。

ロシア革命が起きた際、グルジアはロシア共産党の宿敵であったメンシェビキが政権を掌握し主権国家として独立を宣言したため、スターリン率いる赤軍の侵攻を受けてソ連邦に編入させられました。そして、グルジア民族の敵意をロシアからイスラム系民族に向けさせるためにイスラム系民族が多く住む地域を南オセチア自治州として(上図の赤色の下の半丸)グルジア内に編入したのです。これが上述のスターリンのある策略でした。

この策略によってグルジアの南オセチア自治州に入植したオセット人は、隣のロシア連邦の北オセチアにいる同胞と一緒になろうとしてグルジアからの独立を要求しグルジア中央政府と対立抗争することになり、更にはこの動きに刺激されて、アブハジア自治共和国ではイスラム教徒のアブハズ人、アジャリア自治共和国ではトルコ系のイスラム教徒のアジャール人がグルジア中央政府と対立抗争することになりスターリンが画策した、グルジア民族とイスラム系民族との抗争の図式が現実のものとなったのでした。

ところで、グルジアと北オセチアでは対ロ姿勢に大きな違いが有りました。グルジアは、上述の事情で反ロ姿勢が強まっていったのに対し、北オセチアはロシアの属領、そしてソ連邦、ロシア連邦の一国になってからロシアの庇護のもとで他国からの脅威に曝されることもなく平穏な時代が続いていることから、グルジアとは逆に親ロ姿勢が芽生えておりました。

そして、1936年には北オセチア自治共和国に昇格し、第二次世界大戦中の1944年にスターリンによって対独協力の疑いを掛けられて中央アジアへ強制移住という形で追放されたチェチェン人、イングーシ人の跡地の一部をソ連の計らいで編入したため領土が一気に拡張したことから、北オセチアは親ロに傾き、同胞のオセット人が住むグルジアの南オセチア自治州と合併することでロシアに協力を求めるようになりました。

ところが、スターリンの死後、中央アジアに追放されていたチェチェン人、イングーシ人が故郷のコーカサス地方への帰還を許されて、チェチェン・イングーシ自治共和国が復活したのですが、上述の事情で北オセチアの領土になっていた彼等の領土(その大半はイングーシ地区)は返還されないまま北オセチア領に残されたため、チェチェン・イングーシ自治共和国の領土はその分削られれたため大きなしこりが残りました。

そして、1992年にチェチェン、イングーシ共和国に分離されると、イングーシ共和国は北オセチアに編入されたままの旧領土の失地回復を求めて北オセチアと抗争することになり、チェチェン人と兄弟民族からなるイングーシ共和国が第二のチェチェンになることを恐れたロシアは、北オセチアにロシア軍を駐留させてチェチェン、イングーシ両国を牽制して現在に至っております。このような背景のもとで、2004年に北オセチア共和国のベスランでチェチェン独立派武装集団によって中等学校が占拠され多くの児童を含む350人以上が死亡するという悲惨な事件が起ったのでした。

それまでのチェチェン独立派の武装集団のテロの対象は、その前年の2003年のモスクワの劇場占拠に見られるようにロシア本国だったのに、北オセチアが選ばれた背景には兄弟民族国家、イングーシの北オセチアに対する領土を奪われたことへの怨念が宿っているように思われてなりません。こうして、オセット人は南側では、グルジアの南オセチア自治州でグルジア中央政府から迫害され、北側では隣国の チェチェンの独立派の武装集団からテロ攻撃、イングーシからは国を挙げて領地奪回のために侵攻の危険に曝されるなど、オセット人は安閑とした日々を送ることが出来なくなり、ひたすらロシアに保護・支援を求めるしか手立ては無くなってしまいました。

オセット人は伝統的に筋力が強く、レスリング、柔道などの格闘技で世界的な選手を輩出しております。強い格闘家を次々と生み出しています。 例えば、柔道では、アテネ五輪銅メダリストで北京五輪でも、優勝した石井に最強のライバルと評価されながら石井に準々決勝で一本負けで敗れたトメノフ、レスリングではアテネ五輪で国籍変更した選手を含めて金4個を獲得した選手、いずれも北オセチアのオセット人です。そのように、格闘技に優れた才能を持つオセット人が住む北オセチアから4人のオセット人の男たちが日本の相撲界に新境地を求めてやってきました。このことについては、明日の日記で取り上げます。


ドーピング検査で陽性と判定され解雇された露鵬(左)と白露山(右)

日本の相撲界に新境地を求めてロシア連邦北オセチア共和国から飛び込んできたオセット人は次の4人でした。

ソスラン・ボラーゾフ(28)→2002年来日→露鵬(大嶽部屋)
バトラズ・ボラーゾフ(26)→2002年来日→白露山(北の湖部屋)
アレクサンドルヴィッチ(20)→2004年来日→若ノ鵬(間垣部屋)
アラン・ガバライエフ(24)→2006年来日→阿覧(三保ヶ関部屋)

4人とも北オセチアの首都、ウラジカフカス市の出身で、全員が兄弟、従兄弟、子弟等の関係で結ばれております。 4人の中で最年長のソスラン・ボラーゾフは元アマレスの選手で世界ジュニア選手権で優勝するなどの実績を残したものの、体重増からアマレスを断念して相撲界に転進、2001年に欧州選手権で優勝したことを契機に、元横綱大鵬を頼って弟とともに来日し、4人の先駆者となっております。

彼は、2006年07月15日付日記「スポーツマン失格2景(2)」でも紹介しておりますように、日頃の素行が悪く協会からから再三に渡って処分を受けている言わば、札付き者ではありましたが、2006年3月場所で東小結に昇進し、ロシア出身力士初の三役を務めました。

彼の弟の白露山も兄と同様に、元アマレスの選手でモスクワ大会の100kg超級で優勝するなどの実績を残して、兄とともに来日し、2006年7月場所で最高位となった東前頭2枚目に昇進しております。兄と正反対に穏和な性格で露鵬が千代大海と小競り合いを起こした時も兄を宥めたり、二十山親方の告別式で号泣する一幕も有りましたが、総合的な成績は兄に及びませんでした。

しかし、2008年9月2日に、日本相撲協会が十両以上の関取力士を対象にして抜き打ちで実施された簡易キットによるドーピング検査で露鵬と白露山兄弟から大麻の陽性反応が検出され、更に専門機関での精密検査でも陽性反応が確認されたため協会は9月8日の理事会で露鵬と白露山を解雇することを決定しました。兄弟は大麻吸引の事実を否定し、解雇を不当とし裁判で争う構えを示しております。

若ノ鵬も、露鵬、白露山兄弟と同様に元アマレスの選手で、露鵬の父親に師事しロシア国内のジュニア王者になるなどの実績を残したことから露鵬に誘われて、弱冠16歳で2004年に来日し、2008年7月場所で西前頭筆頭の最高位に昇進しております。4人の中では最も若く、 18歳5カ月での十両昇進は史上8位タイの年少記録で、外国出身力士では白鵬の18歳9カ月を更新し最年少で将来を嘱望されていただけに、以下の経緯で解雇されて相撲界から去らねばならなくなったことは残念でした。

今年の6月24日、JR錦糸町駅近くの路上周辺に財布が落ちているのを通りがかった女性が拾い親切にも江東橋交番に届け出ました。ある意味で、これが若ノ鵬にとって不運でした。届け出が無かったら若ノ鵬は大麻取締法違反で逮捕されることは無かったかも知れません。若ノ鵬にとって次の不運は財布の中に外国人登録証と大麻入りのロシア製のタバコを入れておいたことでした。そして、とどのつまりは、江東橋交番にこのタバコに詰められていた大麻の臭いを嗅ぎ分ける捜査員が居たことでした。

阿覧は若ノ鵬と従兄弟関係にあり、他の3人と同様にレスリングでジュニア王者になるほどの実績を残しましたが、露鵬等の活躍に刺激されて来日し、2006年度の第14回世界相撲選手権大会個人無差別級で優勝して頭角を現し、2007年3月場所序ノ口で7戦全勝優勝、翌場所から序二段を1場所で、三段目を2場所で通過して幕下に昇進後、7月場所で十両昇進するんど順調に昇進を続けております。

以上の経過で、6年前から相次いで相撲の力士としての成功を夢見て北オセチアから日本にやってきた4人のオセット人のうち3人が大麻問題で、相撲界から去ることになりました。彼等4人は、格闘技で優れた能力を生かして、レスリング、相撲、K1等で海外に飛躍しようと夢みている北オセチアの若者たちにとって希望の光だったことと思います。それだけに、解雇通告を受けた3人が裁判をしてまでも解雇を無効としようとする気持ちは判りますが、諸般の情勢を鑑みる限り、裁判で勝つ見込み殆どなくいたずらに時間を無駄にするだけのことと思います。3人は別の道に転進を図り、だだ一人残った阿覧は、3人分の思いを受け継いで大成して欲しいものです。


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