−日記帳(N0.1408)2008年10月11日−
下村氏より高名な息子さんのこと(1)
−日記帳(N0.1409)2008年10月12日−
下村氏より高名な息子さんのこと(2)


映画「ザ・ハッカー」の原作となった下村努氏の著書「テイクダウン」

今年の5月15日、米国から1人の紳士が来日しました。その人物の名前はケビン・ミトニック。かって世界最強にして最悪のハッカーとして世界を震撼させ、米国政府は彼のハッキングによって核ミサイル発射システムが誤作動を起こすのではとさえ怯え、FBIが必死になって逮捕しようとした伝説の人物でした。

彼はタラップから降りる時、13年前のある事件で死闘を演じた相手の人物の故郷の国に降り立ったことにある感慨を覚えたのでした。相手の人物の名前は下村努。当時、下村は高校を中退しながらカリフォルニア工科大学に入学し1965年に量子電磁力学の発展に大きく寄与した功績で朝永振一郎らとともにノーベル物理学賞を共同授賞したリチャード・P・ファインマンのもとで物理学を学び、ここも中退して世界最高の研究機関、ロスアラモス国立研究所にて物理学の研究者として現場での教育を担当するなど輝かしい経歴を経て現在は、カリフォルニア大学サンディエゴ校(UCSD)のサンディエゴスーパーコンピューティングセンター(en)において主席特別研究員を務めておりますが、当時から若き天才物理学者として知られておりました。

下村の場合は、物理学と言っても量子物理学の領域ではなくコンピューター分野、特にセキュリティ問題の専門家として脚光を浴びておりましたので、下村は世界最強のハッカーのミトニックにとってハッキング技術を競う世界では立場こそ対立するものの最高のライバル的存在でした。下村が下院議会の公聴会で証言している場面をテレビで観たミトニックに下村に対する敵がい心が芽生え、下村のコンピューターに侵入しデータを盗んだ上、ウィルスを注入することで挑戦状を突きつけたのでした。

下村は、この挑発行為に激怒しこの挑戦を敢然と受けて立ちました。当時、ミトニックがノキア、モトローラ、サンマイクロシステム、富士通など世界に名だたる携帯・PC関連企業や下村努の勤務先のUCSD(カリフォルニア大学サンディエゴ校)などのコンピュータに侵入したことから必死に身柄を拘束しようとしていたFBIと下村は、当初は歩調が合わなかったものの最終的にはミトニックを追い詰めることで一致し、FBIに協力することになりました。

そして、ケビン・ミトニック氏と下村努氏の壮絶なネット上での攻防が繰り広げられ、結局、下村努氏が ケビン・ミトニック氏の居所を突き止めたことから、ケビン・ミトニック氏は1995年2月15日にFBIによって逮捕され、禁固5年・執行猶予4年の有罪判決を受け投獄され、2000年1月21日に釈放されたのでした。 この間の両者の攻防は、下村努氏が自分の立場から書いた自著「テイクダウン」、ケビン・ミトニック氏の立場で描かれた映画「ザ・ハッカー」で紹介されました。この攻防劇については明日の日記で取上げたいと思います。

ケビン・ミトニック氏は、釈放後も3年間は保護監察がつき移転の自由にも制限が科せられ、普通の電話以外の携帯電話、PCなどの所有を禁じられ、更にそれらを利用できる企業への就職もできない状態に置かれておりました。そして、2003年01月20日にその保護監察期限が切れ、逮捕以来8年ぶりに完全に自由の身になったのでした。その後は逮捕前とは逆に、FBIに協力する立場で企業のコンピュータのセキュリティを行うコンサルティング会社を設立し現在はセキュリティ側に回っております。

2007年にメールの暗号化サービスを行うZenlok社が創業した際、同社のアミール・アヤロン社長が「ハッカーの目線でアドバイスしてほしい」とケビン・ミトニック氏顧問就任を依頼した縁で、同社が日本で事業をスタートするのに合わせて、メールの危険性について日本各地で講演をするために今回初来日したのでした。彼が、いまだに下村努氏にライバル心を抱いていることは彼の次の言葉から窺い知ることが出来るように思います。

「私は下村を見たこともないし、彼から何かを聞いたこともないです。私が知っているのは、彼が私に関する本を書き、そして映画を作ったということだけです。だがそれらにはたくさん間違っている点があるんだよ。・・・・・当時、彼のEメールは暗号化されておらず、彼とFBIで交わされたEメールはすべて筒抜けになっていたよ。」

そして、この下村努氏こそ、2008年度ノーベル化学賞受賞者の下村脩博士のご子息です。米国では、下村脩博士を紹介するのに、「下村努氏の父」としており、現在でも父よりも高名であることは言うまでもありません。下村努氏は父が名古屋大学の助教授時代に名古屋で生まれたものの1歳の時に父とともに米国に渡り、以来米国で生活し続けておりますので国籍は日本人でも根っからの米国人で日本人との記者会見でも一切日本語は話さず、日本人と思われることに反感すら抱いているようです。

下村とミトニックの攻防を描いた映画「ザ・ハッカー」のポスター

2カ月以上離ればなれになっていた女性 ジュリアに会うために下村がサンフランシスコ国際空港へ急ぐ場面から映画「ザハッカー」は始まります。そして2人がジュリアの家で愛を囁きあっていた時、サンディエゴにある下村のコンピュータへに、ミトニックから最初の攻撃が密かに進行しておりました。

ミトニックは、下村のコンピューターから、公開されると悪用される恐れがあるセキュリティ・プログラムや電子メールを盗み、嘲りのメッセージを留守番電話に残しておいたのでした。勤務先のUCSD(カリフォルニア大学サンディエゴ校)の学生からこの連絡を受けた下村は、サンディエゴに戻り、侵入者からの挑戦を受けて立つことにしたのでした。

一方、企業へのハッキング容疑でミトニックを捜索していたFBIのマッコイは、下村の講演を聞き、彼に協力を求めましたが、FBIの歩調の悪さに反感を抱いていた下村は断って独自の捜査を開始しました。下村氏は、侵入手口の解析、プロバイダ WELL、NetcomそしてSprint や GTE の電話網へと展開し、Well、Netcom の全面的な協力を得ながら、複雑な人間関係を絡めてサイバースペースでの戦いはドラスティックに進行し、謎の人物を追い詰めていきました。

  そして、遂に下村はミトニックの居所を突き止めて彼の隠れ家に急行したのですがあと一歩のところで逃がしてしまいます。ところが、下村は旧友のコンピューターから、下村が盗まれたデータが見つかったことから独自の侵入者追跡プログラムを作って再びミトニックを追い求めていきます。一方、FBIも着実にミトニックへと迫っておりました。そして、1995年2月15日にFBIは下村からの情報を受けながらついにミトニックの逮捕に成功し映画は終焉を迎えます。

元々、この映画の原作の下村の著作「TAKEDOWN」では、主人公は下村自身で彼の目線でと乖離する場合は原作者が拒否するのが当然と思われるだけに私には何故、下村が容認したのか理解しかねます。ハッキングという犯罪行為は目に見える物の窃盗、人に対する暴力、殺人などと異なり、その被害が目に見えない上、被害を受けたのが個人よりも大企業や大学などの団体であたことから一般大衆にはミトニックをヒーロー視する風潮が有ったことが、このことに関係しているのかも知れません。


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