−日記帳(N0.1446)2008年11月18日−
高校サッカー選手権出場校に思う
−日記帳(N0.1447)2008年11月19日−
藤枝出身の2人の選手に思うこと


高校サッカー選手憧れの国立(昨年の決勝戦から)

第87回全国高校サッカー選手権の全出場48校の組み合わせ抽選会が昨日(11月17日)、都内で行われ、このように決まりました。 全出場48校のうち神奈川代表1校を除く47校が既に決定しており、初出場は大阪桐蔭、長崎日大等7校、連続出場校は12年連続の青森山田等17校、最多出場は秋田商、徳島商(ともに37回)でした。主なトピックスは次のとおりです。

・埼玉総体優勝の市船が4年ぶりに出場:
千葉は市船をはひめ、昨年優勝の流経大柏、習志野、八千代等の強豪校がひしめく激戦区で、かっての静岡のように、全国優勝するより予選で優勝する方が難しいとさえ言われております。昨年、我が母校の藤枝東が決勝戦で惨敗した流経大柏は、今年も優勝候補筆頭に挙げられていながら、準々決勝で渋谷幕張と対戦し、0-0のPK戦の末に8-9で敗戦してしまいました。

・全国選手権で4度の優勝を誇る古豪・市浦和12年ぶりの出場:
ノーシードから勝ち上がり、決勝トーナメントは準決勝までの3試合でPK勝ち。決勝戦も延長までもつれ込んだ末、延長後7分にFW桑原のゴールで決着をつけました。

・松山北46年ぶりの出場:
平成元年に全国優勝を果たした南宇和に逆転勝ちを収めた宇和島東との決勝戦で延長戦の末、1−0で降し、実に46年ぶり2度目の出場を成し遂げております。

全国高校サッカー選手権は、第1回が大正6年(1917)に行なわれておりますが、戦前は師範学校主体に、たまたまサッカーを理解する指導者が居た、ごく限られた学校の間で行なわれておおり、殆ど一般には知られておりませんでした。全国規模で行なわれるようになったのは、第26回大会の昭和22年(1947)からで、去年(2007)の第86回大会まで61回行なわれております。

ところが戦前、ごく限られた学校の間で行なわれていたことから特定の地域の学校しか優勝できませんでした。その特定の地域とは、埼玉(浦和など計10回優勝)、静岡(藤枝東など計9回優勝)、千葉(市船など計7回優勝)、長崎(国見など計9回優勝)、大阪(北陽など計5回優勝)、東京(帝京など計5回優勝)、広島(修道など計5回優勝)の7地域でした。この7地域から61回中、45回優勝校が出ております。

そして、特にこの傾向が強まったのは第75回大会(平8)から第82回大会(平15)の8年間でした。実に市船、国見、東福岡の3校で優勝をたらい回ししておりました。ところが、翌年からこの流れが止まり、鹿児島実(鹿児島)、野 洲(滋賀)、盛岡商(岩手)、流経大柏(千葉)と初優勝校(同時優勝を除く)が相次ぎました。

果たして、今年もこの流れが続くのでしょうか。優勝候補は市船、帝京、市浦和、前橋育英、そして我が母校、藤枝東といったところでしょうか。


常葉橘との決勝戦で決勝ゴールを決めた藤枝東 新井選手
(「がんばれ藤枝東」から転載させて頂きました)

母校、藤枝東の優勝の余韻がまだ残る今日、W杯最終予選での運命のカタール、ドーハでのアウエーのカタール戦を明日に控え、サッカー以外のことを取上げる気になれません。そこで、今日はくつろいだ気分で、藤枝出身のサッカーの選手2人にスポットを当ててみたいと思います。

1人は、11月12日に引退を発表し14日に引退記者会見をした元日本代表でジュビロ磐田の名波 浩選手(36)です。名波選手は、藤枝市の出身ですので当然のことながら地元の藤枝東を志望するものと周囲は思っておりました。ところが、受験直前になって突如、願書を藤枝東から清水商に変え、そのまま越境して清水商に入学してしまいました。

これに怒った藤枝の東高ファンたちが「名波を藤枝から清水行きの電車に乗せない運動」を起こそうとしたとの逸話が残るほどに街中大騒ぎになったと、藤枝在住の友人が後日話してくれました。この越境入学についてはいろいろと憶測が飛び交いましたが、テレビ対談で名波選手が越境入学した理由を語っていることが判りました。2000年1月11日にテレ朝から放映された「セリエAスペシャル」の対談で名波選手は下平アナと次おような質疑応答をしております。

下平アナ:高校に進学するとき、名波さんは藤枝ご出身で藤枝東に普
      通ならいきそうなところを、清水まで行ってるじゃないで
      すか。越境入学の真相というのは…

名波選手:真相ですか?ま、頭が悪いから。

下平アナ:またぁ、そんなことないですよ。

名波選手:いや、ホントに。藤枝東は頭が良くないと入れないんで。

      ・・・・・・・・・・

名波選手:とにかく高校選手権、お正月の。あれに出て有名になり
       たいとずっと思ってたから。その為には藤枝にいるより
       は清水の方が。ま、確率の問題で選択したんですけど。
       清水のほうがいけるんじゃないかなと。

彼の突然の志望変更は不合格になることを恐れてのことと伝えられておりますが、当時の藤枝東と清水商のサッカーのレベルは、清水商の方が上で清水商に入学したほうが県代表、更には国立に行ける確率が高かったことは事実であり、彼の選択は間違っておりませんでした。清水商を選択したことで、高校総体、ユース選手権を制覇、県代表を経験するなど清水商黄金時代の一翼を担い、更には日本代表となってW杯にも出場するなどサッカー選手として身を立てる上では成功したと言えます。多分、藤枝東を志望したら例え合格してもサッカー選手として身を立てることは出来なかったのではないでしょうか。

もう1人は、今年の選手権・静岡県予選の決勝戦で決勝ゴールを決めた藤枝東の長身FWの新井選手です。彼は、名波選手とは逆に、在学していた常葉学園橘中学からエスカレーター式に橘高校に入学できるにも関わらず、敢えて難関の進学校の藤枝東を浪人覚悟で受験し見事、合格しました。その理由は、名波選手の場合のように、藤枝東の方が県代表、更には国立に行ける確率が高いと考えたわけではないと思います。

何故なら、彼は名波選手のように中学時代から頭角をあらわしていたわけではなく、橘中学では3年間補欠でしたから、県代表の選手として国立のピッチを駆け巡ることを目標にするほどの余裕はまだ無かったからです。彼は、小さい頃から見慣れ、憧れていた藤枝東のあの藤色のユニフォームを着てプレーしたかったのだと思います。そして、彼は難関の藤枝東の入試に見事に合格しました。

しかし、皮肉なことに、彼が藤枝東を受験しようと決めた中三の時、常葉学園橘高が藤枝東の3連覇を阻止して初優勝を決め、彼が藤枝東に入学した高一の時、藤枝東は決勝で静岡学園に敗れたのでした。そして、漸く高二の時藤枝東が優勝し、国立まで行ったのでしたが、彼は相変わらず補欠のままで国立のピッチに藤色のユニフォームで立つことは出来ませんでした。しかし、高三になって大石新監督になってから、漸く選手権試合に選手登録され、それまでのDFからFWに変わり、ハットトリックを2回達成し、そして決勝戦で見事なヘッディングシュートを決めて、国立への夢を繋いだのでした。

以上、2人の藤枝出身のサッカー選手の高校入学選択に纏わるエピソードを紹介しましたが、名波選手は結果としてその選択は彼に幸運をもたらしました。新井選手の場合は、例え名波選手のようにプロサッカー選手として一流になれなかったとしても、自分の意思をしっかり持って、5年に及ぶ補欠の時代に耐え、持病の腰痛に耐え、藤色のユニフォームを着てエコバのピッチに立って自らの決勝ゴールで優勝できたのですから、やはり彼の選択も正しかったと言えると思います。更に、藤色のユニフォームを着て国立のピッチに立てたら、この選択が更なる幸運をもたらすかもしれません。 がんばれ! 新井君




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