−日記帳(N0.1499)2008年01月11日−
台湾旅行を終えて思うこと(2)
−日記帳(N0.1500)2009年01月12日−
台湾旅行を終えて思うこと(3)


台湾の地理(丸数字は3ケ所の北回帰線記念碑の位置)

台湾旅行の前に、旅行中天候が気になり、台湾の週間天気予報をチェックして不思議に思ったことが有りました。台湾は北部の台北地方、中部の台中地方、南部の高雄地方に3区分されますが、台北地方は1週間雨続きだったのに対して、100km程度しか離れていない台中地方では逆に1週間晴れ続きだったからです。

実際、台北の桃園国際空港からバスで最寄の新幹線の桃園駅までは曇り空で時折小雨が降っておりましたが、新幹線で南下して行くほどに雲間が切れ、台中駅に到着した時は、殆ど雲が見られないほどの晴天になっており、天気予報どおりでした。早速、現地ガイドの初さんに聞いたところ、台湾はやや南寄りの中央を北回帰線が通っているためその南北で気候が異なるからだと教えられましたが、その説明ではどうしても納得がいきません。

回帰線は太陽が地上の真上に来る南北の限界線に過ぎず、この限界線の南北で気候が極端に変わることは有り得ないと思われるからです。そこで帰国後いろいろ調べてみました。その結果、冒頭の画像に示すように、南北に東アジア最高峰の玉山(3,952m:日本名は新高山)をはじめ3,000m級の山々が100以上も有る山脈が連なっていること、西側を東シナ海、東側を太平洋に面している台湾特有の地理がその原因と判りました。

つまり、冬は中国大陸方面からの北西の季節風が東シナ海を通過する時に湿気を帯びてこの山脈の当るため雲が発生しやすくなることから、山脈の西側の台北地方は冬でも雨が降りやすくなるのに、南側の台中地方ではこの北西の季節風が和らぐため晴れやすくなることがその原因と考えられます。

ところが、中部の台中地方、南部の高雄地方は旅行中は概ね晴天でしたが、同じ中部でも山脈の東側で、太平洋に面している花蓮地方に行った途端、天候は怪しくなり、お目当ての花蓮の北回帰線記念碑見学の時は激しい海風に加え横殴りの雨に見舞われてしまいました。そして、海岸には太平洋からの高波が押し寄せておりました。

日本の紀伊半島地方で、北側に熊野山系が迫り南側で太平洋に直面している尾鷲地方で雨が多いのと同じ理由で、太平洋高気圧から吹き込む南東の風が山脈に当たって雲を発生しやすくなるために、花蓮地方に行くと一転して雨が多くなるようです。このように台湾の気候は狭い範囲で大きく異なる点に特徴が有るように思われます。

四季は有っても日本ほどメリハリが無いのは、北回帰線がほぼ中央を通っていることから熱帯に近い気候のため冬でも平野部では雪は降らず、富士山より高い玉山でも冠雪することはごく稀です。共通しているのは梅雨と台風です。特に台風は、台湾から来るから台風との説が有るくらい台湾には多いようです。それも、勢力の強い時に襲われる場合が多いためその被害は甚大です。このように海外旅行して、旅行時の当地の天候から気候の特色、日本との違いなどを調べてみるのも面白いものだと実感した次第です。


台湾大学正門(上は前身の台北帝大当時 下は現在)

今回の台湾旅行で強く印象に残ったのは、台湾の人たちの親日的な対応でした。15年前の訪台は台湾の会社からのクレーム処理が目的で客としてでなかったこともあって親日的な対応に触れる機会は有りませんでした。また、台湾と同様に日本による統治の歴史を持つ韓国にも仕事で訪れておりますが、親日どころか反日的な対応に戸惑った苦い経験をしております。

今回の旅行で、台中で昼食を摂った時、90歳になる店主が、かって日本人に世話になったことを懐かしげに日本語で語りかけてきたり、日本語を見事に話す免税店の女性店員たちが日本語を話せることに誇りを持って接しているように思われたことなどに台湾の人たちの親日的な対応を垣間見る思いがしました。

そして、その親日的な面をある二つの建物に見る思いがしました。
まずそのひとつが、冒頭に示す台湾大学の正門の今昔風景です。
この風景はバスの車窓からチラリと見ただけですが、その時、現地ガイドさんが、「この建物は昔の台北帝国大学の時のままです」と説明されたのに感動を覚えたのです。

日本統治時代、日本は明治維新以来培ってきた数々の近代化制度を台湾に導入しましたが、その象徴がこの台湾大学です。日本では帝国大学が1877年の東大を皮切りに京大、東北大、九大、北大、阪大の順に、最後に名大が1939年に創設されましたが、台湾に名大、阪大が創設される以前の1928年(昭和3年)に、京城帝国大学に次いで7番目の帝国大学として台北帝国大学が創設されました。

戦後、台北帝国大学は台湾大学に生まれ変わり、今や日本の東大に相当する台湾の最難関大学となっております。そして私が帰国後ネットを検索した結果、この台湾大学の正門が冒頭の画像に示すように台北帝国大学創建当時と殆ど変わらずに残っていることを知り、ガイドさんの話から受けた感動が更に深まったのでした。

しかも、正門の門柱とその後方の国旗掲揚塔が1928年の創建当時のまま使われ、台北市の市定古跡に指定されていることを知りその感を更に深くしました。この建物はバスの車窓からまともに見ることが出来ませんでしたので「旅旅台北.COM」から下に引用させて頂きました。


親日的な面を物語る二つめの建物は下に示す、日本統治時代の総督府の建物です。この赤レンガの建物は東京駅(1914年完成)と同じ設計家の辰野金吾によって1918年に建てられもので、1945年に米軍による空爆で焼失したものの戦後元通りに再建され現在は、国の一番大切な建物である台湾政府の総統府として使われております。尚、この建物もバスの車窓から見ただけで、デジカメで撮る余裕があいませんでしたので、サイト管理者が命がけで撮った画像を彼のサイトから引用させて頂きました。


台湾と同様に日本の植民地支配を受けた旧朝鮮の朝鮮総督府は、反日思想の高まりに伴って日帝時代の忌まわしい建物として1995年に尖塔部分のみを残して庁舎は解体されてしまったのに対し、戦災で破壊されたの敢えて当時のままに復元して、国の最も重要な建物として使用しているところに台湾の人たちの親日ぶりが窺える思いがしたのは私だけではないはずです。何故、台湾の人たちがこのように日本統治時代の建物を壊さずにそのまま残すような親日的な態度を示すようになったかを、明日の日記、「台湾旅行を終えて思うこと(4)」で纏めてみたいと思います。


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