−日記帳(N0.1501)2008年01月13日−
台湾旅行を終えて思うこと(4)
−日記帳(N0.1502)2009年01月14日−
台湾旅行を終えて思うこと(5)


台湾最大の湖、日月潭(筆者撮影)

台湾の人たちの親日的な対応の原点は、日本が台湾統治時代に行なった政策に有ると言われております。 1895年、日清戦争で勝利した日本は下関条約により台湾を清国から割譲されたことを機に台湾の統治を開始しましたが、台湾在住の清朝の役人と中国系移民の一部が反発して台湾民主国を作って日本に抵抗しました。しかし日本軍はいとも簡単に傭兵主体の台湾民主国軍を排除したことから、1915年の西来庵事件を最後に漢民族による武装抗日運動は収束しました。

これを受け、日本は台湾総督府を通して鉄道、交通、電力、水道等のインフラの整備に加え、義務教育制度施行した結果、台湾人の就学率は1943年時点で71%とアジアで日本に次ぐ高い水準に達し、義務教育以外にも実業系の教育機関を設置し、多くの台湾人を日本に留学させて台湾の行政、経済の実務者養成を行いました。

このような日本が台湾で実施したインフラ整備や人材育成は、戦後の台湾の経済発展、民主化に大きく貢献しました。16世紀以前の台湾には、マレー・ポリネシア系の原住民が住んでおりましたが17世紀になってオランダ人の支配を受け、その後日系二世で明国の重臣だった鄭成功(テイ・セイコウ)がオランダ人を駆逐して初めて漢民族の支配を受けたものの清国の攻撃を受けて鄭一族の統治は終わり、対岸の福建省、広東省から相次いで多くの漢民族が移住し、一部の原住民と混血しながら、現在の台湾人の大半を占める本省人となっていきました。

そして、彼らは前述のように当初、日本の統治に反発していたものの、日本のインフラの整備や人材育成に理解を示すようになった頃、終戦となり中国本土から50万の兵士とともに亡命してきた蒋介石一派による支配を受けることになりました。それでも当初、本省人たちは支配者が日本人から同胞でもある漢民族になったことを好感しました。

しかし、蒋介石一派は大陸反攻を国是とし軍事を優先し日本が統治時代に行なったようなインフラ整備や人材教育などを後回しにしたため、一部の本省人たちは「犬(煩いかわりに役には立つ)の代わりに豚(食べるばかりで役たたず)が来た」(狗走豬擱來)と蒋介石一派を揶揄し、日本の統治時代を懐かしむ風潮が生まれるようになりました。

国民党の前総統の李登輝氏は、蒋介石とその息子の蒋経国による国民党の独裁体制を廃し、台湾内での民主化を実現し、台湾の歴史教科書「認識台湾(歴史編)」でそれまで軽視されていた台湾史を本国史として扱い、特に日本の統治時代を重点的に論じ、日本の統治時代を「苛烈な時代ではあったが、今現在の台湾があるのは統治時代があったからだ」と総括し、当然反論も有りましたが、このような親日的な考えが徐々に台湾の人たちの間に浸透していったと言われております。

今回の旅行では、昨日の「台湾旅行を終えて思うこと(3)」で、台湾大学と台湾総統府の建物を見る機会に恵まれたことから台湾の人たちの親日ぶりは実感できましたが、それが日本への感謝にまで至っていることを目撃できる機会は有りませんでした。しかし、2日目の日月潭観光の折、この湖に日本統治時代に日本人によって作られた水力発電所が戦後の台湾の近代化に大きく寄与したとの説明を受け、台湾のひとたちの感謝の思いを垣間見たように思い、嬉しく思いました。

しかし帰国後にネット索引で、台湾の台南県・官田郷にある烏山頭ダム堰堤に戦前、ある日本人の業績に対する感謝の思いから慰霊碑が建てられ、毎年彼の命日には慰霊祭が行なわれていることを知って興味を抱き更に詳しく調べたところ、その日本人は金沢出身の八田與一氏で、大正から昭和にかけて台湾での水利事業に身を投じて不毛の地だった台湾最大の平野を豊穣の地にしたことから台湾の人たちから尊敬され、慕われていることが判りました。

今回の旅行では、この慰霊碑を見学することは出来ませんでしたが、日本では殆ど知られていない八田與一氏のことをもっと調べてみたい衝動に駆られました。そこで、明日の日記、「台湾旅行を終えて思うこと(5)」で彼の業績に触れてみたいと思います。尚、日月潭の名前の謂れが、太陽と月に似ていることに由来しているとのことですが、下の衛星写真からは、どんなに想像を逞しくしてみても私には太陽と月に似ているとは思えないのですが如何なものでしょいうか。


烏山頭ダム(珊瑚潭)堰堤にある八田與一氏の銅像
(烏山頭水庫より引用させて頂きました)

上の画像は、台湾の台南県官田郷の烏山頭ダム堰堤にある、八田與一氏の慰霊碑の銅像と八田夫妻のお墓で、いずれも戦前に台湾の人たちによって建立されたもので、日本からの訪問者のみならず、台湾の人たちによる供花があとを絶たないと言われております。

このお墓は台湾では見られない日本式で、墓石も台湾産大理石でなく日本から取り寄せた御影石で、戦後になって蒋介石による日本が残した建築物や顕彰碑等の破壊命令が下された折、地元の有志によって隠され、昭和56年(1981年)に再び設置されるようになったこと、更に彼の命日には慰霊祭が行なわれ、李登輝、陳水扁、馬英九等の歴代の総統も参加されていることから、如何に彼が台湾の人たちから尊敬され、慕われているかを知ることができます。

八田氏の業績は、台湾の中学生向け教科書『認識台湾 歴史篇』に詳しく紹介され、更に平成14年(2002年)11月に訪日して慶応大で予定していた李登輝元台湾総統の講演草稿「日本精神」でも、その業績を高く評価する熱い思いが格調高い日本語で語られていたことから、改めて日本でも八田氏の業績が見直されるようになりました。この時の訪日は、日本政府が中国に配慮してビザ発給を停止したため中止されましたが、平成16年(2004年)に、2001年に次いで2回目の訪日を果たした折りには、八田氏の故郷を表敬訪問しております。

八田氏は、台湾での偉業を成し遂げて嘉南平原の隅々にまで潅漑用水が行きわたるのを見とどけてから家族とともに帰国しましたが1942年に陸軍に徴用されてフィリピンに向かう途中、米潜水艦撃沈され戦死したものの事跡的にその遺体が山口県の漁船の網にかかり引き上げられたのでした。そして、夫との思い出深い烏山頭の地に疎開していた夫人は、夫が心血を注いで完成した烏山頭放水口に身を投げて夫の後を追い、そしてその願いが叶ったかのように、この異国の地で八田夫妻は共に眠っております。

この偉大な業績の影に隠れた波乱に満ちた八田夫妻の生涯は台湾の人たちのこころを打ち、 2004年に台湾のテレビ局「中華電視公司」で20時間ドラマ「水色嘉南」として製作が企画され八田夫人役に松田聖子さんが内定したとの情報が有りましたが、その後の経緯は判っておりません。どなたか、ご存知の方が居られましたらお知らせ頂ければ幸いです。

八田夫妻の遺児でご長男の晃夫氏も2006年5月、85歳で亡くなられ、お孫さんの修一氏は現在も名古屋で、祖父の與一氏と同じ建設関係の仕事をされているとのことです。八田與一は海外で偉大な功績を挙げた人物として、野口英世、杉原千畝とともに歴史に残って然るべきと思います。私の知る限り、八田與一の伝記は日本で発刊されていないように思われます。彼を知る方々が存命しているうちに是非とも発刊されることを願うものです。

今回の旅行では、彼の所縁の地、烏山頭ダムの見学はできませんでしたが、ガイドさんの話をきっかけに彼の存在を知ることが出来たのは幸運でした。こうして、彼のことを取り上げたのは、少しでも彼の存在を知って頂きたかったからです。彼の命日の5月8日の当日記で更に詳しく彼のことを取上げたいと思っております。今日は、彼が行なった灌漑事業を次のように簡単に説明して、とりあえず締めたいと思います。

下の画像は、嘉南平野を含む台湾中部の衛星画像です。台湾一の嘉南平野は今でこそ、稲作の水田で青っぽく見えますが、八田氏が東大工学部を卒業して台湾総督府の土木技師としてこの地を訪れた時は、洪水と干魃が繰り返される不毛の地でした。八田氏は現地を丹念に調査した結果、当初は嘉南平野に最も近い台湾第4の大河、曽文渓から導水することを立案しました。

google画像より

しかし、それでは嘉南平野南部しかカバーできないことに加え、予算が巨額にのなったことから廃案になりました。ところが、その後、台湾総督として着任した明石が嘉南平野の北を流れる台湾第1の大河、濁水渓から導水すれば、嘉南平野全体をカバーできるのではと考えて部下の八田氏に調査を命じました。

調査の結果、珊瑚潭の間の中小河川を利用して珊瑚潭に通ずる給水路網を形成し、珊瑚潭にダムを作って一大貯水池にすれば、嘉南平野全体をほぼカバーできる15万ヘクタールの土地を肥沃にすることができることが判り、当初案より更に巨額の予算になったにも関わらずその効果の大きいことが評価されて認可され、ここに「嘉南大?(かなんたいしゅう)」と呼ばれる破天荒の大プロジェクトが実施されました。

そして、八田氏はこのプロジェクトの中で最も重要な大工事の珊瑚潭に集水される水を堰き止めるための 烏山頭ダムの建設を指揮しております。ダムの完成によって、湿地帯だった珊瑚潭は、その名のように貯水が珊瑚のように四方八方に延びて、下の画像に占めすように、大きな貯水池になったのでした。

google画像より

嘉南大?によって巡らされた給排水路の距離は万里の長城の6倍以上の16,000kmに及び、李登輝氏の言葉を借りるなら「八田氏は台湾南部の嘉義から台南まで広がる嘉南平野にすばらしいダムと大小さまざまな給水路を造り、15万ヘクタール近くの土地を肥沃にし100万人ほどの農家の暮らしを豊かにしたひとです。」

<参考にさせて頂いたサイト>
珊瑚潭に臨む
八田與一烏山頭水庫
八田與一(ウィキペディア)
烏山頭水庫
八田技師記念碑の除幕式

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