−日記帳(N0.1525)2008年02月18日−
三河湾を望める岡崎に宿泊して
−日記帳(N0.1526)2009年02月19日−
家康そして徳川15代について(1)
(愛知県に同時期に現われた三英傑)


岡崎市内の桑谷山荘の庭から望む蒲郡市街と三河湾

私は愛知県に長い間住んでおりますが、内陸都市である岡崎市内に三河湾を望めるスポットが有ることを知りませんでした。実は昨日、岡崎在住の友人I君の企画で、私ともう1人の友人U君と3人で、岡崎城、大樹寺、八丁味噌のカクキュー等、岡崎界隈を散策してから、岡崎市郊外にある岡崎市民休養施設「桑谷山荘」に昨晩、宿泊し、ここから冒頭の画像に示すように三河湾を望めることを知った次第です。

愛知県の行政区画地図

では何故、内陸都市の岡崎市に三河湾を望めるスポットが有るかについて分析を試みてみたいと思います。
上図に、岡崎市のロケーションを示します。岡崎市が臨海都市ではなく内陸都市であることを示しており、また山岳都市でもありませんので、市内から隣接する蒲郡市を頭越しに三河湾を望むことが出来るとはまず考えられません。ところが、下の画像に示すように岡崎市の蒲郡市に隣接する南側一帯は300m前後の標高の山岳地帯で、この「桑谷山荘」はその山岳地帯の最高地点(海抜350m)にあることから三河湾を望める理由を理解できました。

岡崎から蒲郡にかけての航空写真

桑谷山荘の航空写真

この桑谷山荘も公営の宿泊施設ですから、かんぽの宿や国民年金の宿と同様に経営上に問題が有るように思われ、この日も宿泊客は、ウイークデーとは言え、全員で10名程度で宿泊率10%未満(収容人数=122名)でしかなかったのが気になりました。館内に天然温泉こそ有りませんが、展望、料理、施設は三つ星から四つ星クラスで、岡崎市民なら4,500円から宿泊できる低料金を考えれば、もう一度利用してみたいと思うのは私だけではないように思います。

夕食は季節限定の特別料理に舌鼓みし、I君差し入れの大吟醸酒「徳川家康」を賞味し、家康誕生の地、岡崎に因んで徳川家康と徳川家15代についてお互いに蘊蓄(ウンチク)を傾け合いました。家康所縁の岡崎で、家康を語ることが出来たのは、家康ファンの私にとっては願ってもないことでした。夕食後は囲碁に、カラオケに興じ、翌朝はI君の車で東岡崎まで送って頂き解散となりました。この企画をして下さったI君には心から感謝したいと思います。

岡崎市の大樹寺にある徳川家康の墓

一昨日から昨日にかけて、家康所縁の地、岡崎で家康に纏わる史跡などを見学し、夜は家康が非業の死を遂げた父・松平広忠を思い菩提を弔うために建立した広忠寺の近くにある桑谷山荘で家康を語り合いました。家康ファンの私にとっては楽しく有意義な二日間でした。
そこで、これを機に、家康そして徳川15代について私の思いを、思いつくままにシリーズにして書き残しておきたいと思います。今日は、そのシリーズの第一回として、「愛知県に同時期に現われた三英傑」を取り上げてみたいと思います。

三英傑の信長、秀吉、家康、この誰が天下を取っても不思議ではありませんでした。本能寺の変が無かったら信長が、信長亡き後、もう5年長生きしていたら秀吉が天下を取っていたことと思います。一方、家康はこのようなライバルの重なる不運に加え、本能寺の変、桶狭間の戦い、三方ケ原の戦いの後の逃亡作戦で九死に一生を得る幸運に恵まれて天下を取ったように思います。三英傑の性格を比喩した次の句がこの間の事情を如実に物語っております。

信長:鳴かぬなら 殺してしまえ  ホトトギス
秀吉:鳴かぬなら 鳴かせてみよう ホトトギス
家康:鳴かぬなら 鳴くまでまとう ホトトギス

今日、取上げてみたいのは、以下に示しますように、何故このような天下人候補たりうる3人の英雄が、3人も同じ時期(天文3〜11年)に、同じ地域(愛知県:当時は尾張と三河)に現われたかということです。

      誕生地           誕生日      没年日(享年:歳)  
信長:愛知県愛 西 市勝幡町  1534年 5月11日 1582年6月21日(48)
秀吉:愛知県名古屋市中村区 1537年 6月23日 1598年9月18日(61)
家康:愛知県岡 崎 市康生町  1542年12月26日 1616年4月17日(73)

私は、3人の英雄が同じ時期に同じ地域に現われたのではなく、ごく普通の地方の戦国大名とその部下の3人が地の利と巧みな戦略により、結果として英雄になったと考えるのが正しい観かたであると思います。3人の中で筆頭格の信長より強大な勢力を持つ戦国大名は全国に割拠しておりま、駿河の今川、甲斐の武田、相模の北条、越後の上杉等がその例で、彼らがこの地域に現われたら彼らが天下を取っていたかもしれません。

  当時、天下を取るには既に有名無実になっていた京の足利将軍家に代わって、朝廷の宣下を得て将軍職に就くことが必要であり、そのためには、京に近く、かつ本州の中央に位置していることが地理的に有利でした。三英傑はこの有利な地理的条件をいずれも満たしておりました。

そして、他の有力戦国大名との徹底的な違いは、例えば武田と上杉は川中島の合戦に見られるように常に敵対し、武田、今川、北条は三国同盟を結んだものの、それは相互不可侵条約に過ぎず三国で隣国に攻勢を仕掛けるまでに至らず、最後は同盟を破棄して今川が北条に攻め込む有様でした。

しかし、三英傑の場合、信長存命の時期は信長を君主、秀吉存命の時期は秀吉を君主とする絶対君主王国として、美濃の斉藤、駿河の今川、甲斐の武田、相模の北条を合戦で破り、毛利、上杉、伊達を臣下に組み込んで天下統一を果たしております。武田、今川、北条に見られるような同盟軍、連合軍では、このようなことは出来なかったと思われます。

この絶対君主王国の国王が明確な跡継ぎを残さないまま暗殺され、策略を弄して跡目を継いだ二代目国王も国政を誤ったため人心が離れ、跡継ぎ擁護派を圧倒するほどに対抗勢力の増大を招いた結果、対抗勢力が三代目を継ぐと同時に全国の国王として君臨したわけです。

鳴かないホトトギス、つまり服従しない勢力をまず信長が抹殺し、それでも服従しようとしない勢力を秀吉が攻略して自陣に加え、それでも服従を躊躇う勢力を家康が時期をみて服従させたことになります。 天下人候補が3人、同じ時期に同じ地域に現われたのではないと思います。

同じ時期に同じ地域に現われた3人が、同じ地域の地の利を生かしての盟主信長のもとで領地を拡大していった結果、盟主次位の秀吉、家康までも天下人候補たりうる地位になったので、上述のように、同じ時期に同じ地域に3人もの英雄が現われたとの錯覚を与えるものと思います。そして、3番目にバトンを受け継いだ家康の見事な対応がその後の日本にとってラッキーだったと私は思います。


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