−日記帳(N0.1625)2009年010月22日−
徳川義崇さんの講演を聴いて
−日記帳(N0.1626)2009年10月28日−
信楽の里を訪ねて


当日の講演会資料に掲載されていた義崇(よしたか)さんの写真

中京大学では年に何回か市民を対象に著名な学者、経営者、文化人等を招いて無料の公開講演会を開催しております。事前に送られてくる案内メールに記載されているURLのフォームに参加する旨入力して送信、参加OKとなると受講票の文書ファイルのURLが記載されたメールが送られてきますので、印刷して受講票を作成すればいいわけです。
つまり、パソコン操作だけで申し込みから受講票入手まで出来るわけで大変便利です。講演会の案内は、中日新聞が共催している関係で同紙に掲載されますが、私の場合は自動的に案内メールが来ることになっており、今年も7月1日の講演日分に応募し受講票が送られてきておりました。ところが、直前になって中京大学の学生が新型インフルエンザの罹ったことから急遽、講演会は中止されてしまいました。

漸く10月になって再開通知メールが届きましたので、改めて応募し受講票を入手して今日、受講してきました。 講演会の演題「名古屋開府400年-曽祖父徳川義親の足跡をたどって」は、この地方の人たちにとって興味深い上、講師が徳川家のお殿様の子孫というユニークな方とあって、会場の中京大学でも広い教室の431号室は500人以上の参加者で超満員となり、我々は補助席で聴講したほどでした。ところで、演題にある「名古屋開府400年」は、家康の九男、徳川義直が1610年、清州藩から尾張藩に移封されて徳川御三家としての尾張徳川家の初代当主に就いてから来年2010年で400年になることに由来しております。

講師、義崇氏は気品ある顔立ちをされており、アナウンサーのように澄んでよく通る声でユーモアを交えての語り口は大変聞きやすく、普段あまり聞けない珍しくかつ面白い内容だっただけに、記憶に留め置くべく日記に掲載させて頂くことにしました。義崇氏はIT関連の仕事をされているだけあって、馴れた手付きでパワーポイントを駆使して資料をスライドで映しながら判り易く解説されました。

義崇氏の曽祖父 尾張徳川家19代当主徳川義親氏は「最後の殿様」として知られ、明治 大正 昭和を生き抜いた90年の生涯は波乱に満ちそれだけでも興味をそそられます。
その生涯の中で、何故私財を投げ打って徳川美術館の創設をはじめ数々の文化事業を成し遂げたかを語るのが講演の主旨でしたが、氏がまだ存命で元気だった曽祖父の口から直接聞いた話なども引用されているだけに信憑性に富み、義親氏の後世に日本古来の文化を伝え残そうとする思いをこの講演を通して理解することが出来ました。
ここで、義崇氏と曽祖父義親氏の尾張徳川家系図での位置付けについてレビューしてみたいと思います。

尾張徳川家の明治維新後の系図(16代〜20代)

尾張藩14代藩主兼尾張徳川家17代当主 徳川慶勝公は、事実上尾張藩最後の藩主にして幕末の騒乱の中で佐幕勢力と倒幕勢力の間に立って無益な戦争を回避することに尽力し、第一次長州征討での無血収拾、戊辰戦争での江戸城無血開城では大きな役割を果たしております。歴史教科書では、第一次長州征討は西郷隆盛の外交手腕、江戸城無血開城も西郷隆盛の政治的判断によるとされておりますが、第一次長州征討では総督として隆盛に思う存分手腕を振わせ、江戸城無血開城では官軍が遅滞・騒乱無く江戸に進軍出来るよう東海道沿いの諸藩に協力を求めたことが大きく貢献しております。

しかし、このような慶勝公の功績を評価する資料は極めて少なく、逆に歴史学者の中には、慶勝公が中途半端な立場をとったため、佐幕、倒幕の両勢力から程々に利用された挙句に、薩長から嫌われ、幕府から反感を買い、青葉松事件で家臣14名を処刑したことで世に不審を招き、政治・外交力を発揮する機会を常に逃して事後処理に追われたが故に、明治維新で愛知県が不遇をかこった因をなしたとの説を唱える向きも多く見られます。ところが、今年8月NHKが「ハイビジョン特集「幕末 知られざる決断 尾張藩主・徳川慶勝」 を放映し、その中で慶勝公ファンとして知られる黒鉄ヒロシさんらが、慶勝公が如何に苦渋の決断をしながら明治維新の成立に多大な貢献をしたかを解説したことから、慶勝公の功績を見直す動きが出始めたようで、慶勝公ファンの一人として喜ばしく思っております。いずれ日を改めて、幕末から維新にかけての慶勝公の行動に触れてみたいと思います。

上の系図に見られるように、義親氏は慶勝公と直接血は繋がっておりません。
資料によれば、慶勝公は11人の息子に恵まれながら記録に残っているのは三男の義宜氏(後の16代尾張藩主)、十一男の義恕氏(分家を創設、長男義寛氏は昭和天皇の侍従長)だけで、義宜氏が18歳で若死にした時、嗣子が居なかったため、11代高松藩主・松平頼聡の次男 義礼氏を養子に迎えて間もなく十一男の義恕氏が生まれました。
慶勝公は、筋を通して義礼氏を19代当主(1880-1908)にし、実子の義恕氏を分家させました。このため、三男の義宜氏の死後、慶勝公が17代当主を再承し、嗣子が居るのに養子に家督を相続させております。

尾張徳川家の昭和以降の系図(20代〜22代)

その義礼氏も嗣子に恵まれなかったため、16代福井越前藩主松平春嶽の五男 義親氏を養子に迎え、娘の米子と結婚させ19代当主(1908-1976)としております。 つまり、2代続けて養子が相続したことになりますが、1810年から1849年にかけて4代(10代〜14代)に渡って続いた幕府による家斉の息子等同族の押し付け養子縁組と違って、幕末四賢候の一人、松平春嶽、水戸家の血を継ぎ幕末に活躍した松平頼聡の新しい血が尾張徳川家に注入されたことになります。そして、義親氏の長男 義知氏が20代当主(1976-1992)となりましたが、嗣子が居なかった義知氏は、上の系図に示すように、肥前蓮池藩主鍋島直柔の4男で、大老や老中など幕府の要職を務めた名門堀田家に養子として入り同家を継いだ堀田正恒の6男、堀田正祥を養子に迎え、娘の三千子と結婚させて21代当主徳川義宣(1992-2005)としました。

そして、2005年に義宣氏の長男、義崇氏が22代尾張徳川家当主を引き継がれて現在に至っております。従って、来年の義崇氏のご先祖、義直公による名古屋開府400年を迎えることによって、義崇氏には義直公を通して徳川宗家の血脈に加え、上の系図に見られるように、水戸家、一橋家、讃岐松平家、越前松平家、会津松平家、肥前鍋島家、仙台伊達家・・・等、錚々たる全国の大名家の血脈が受け継がれていることになります。

そして一方、14代尾張藩主徳川慶勝公の弟で、高須松平家から会津松平家に養子として入り9代会津藩主となった松平容保の直系の孫、松平恒孝氏が母方の父 17代徳川宗家当主徳川家正(父は家茂の従弟で将軍家最近親者の16代宗家徳川家達)に嗣子がいなかったことから、家正の養子となって18代徳川宗家を継いでおります。皮肉なことに徳川幕府時代は一度も将軍職に就けなかった尾張徳川家から18代将軍が誕生したことになります。このように歴史を辿っていくと、現在の尾張徳川家は徳川家傍流とは言え、本流の徳川宗家よりも徳川家本流に近いように思われます。その意味で、22代尾張徳川家当主義崇氏は「殿様の中の殿様」と言えます。それではこの日、義崇氏が思い出を込めながら語った曽祖父、徳川義親氏の足跡について下記に要約しておきたいと思います。

・義親氏の生い立ち:
義親氏は、越前藩主 松平春嶽の五男として生まれ厳しい教育を受けてから、18代尾張藩主徳川義礼の養子に迎えられ慶勝公の孫娘と結婚し19代尾張藩主に就いております。義父義礼氏も高松藩主、松平頼聰の次男で慶勝公の養子に迎えられ慶勝公の娘と結婚しておりますので、義親氏は自らは越前松平家、妻を通して尾張徳川家と讃岐松平家の血筋を後の尾張徳川家に伝えております。 義崇氏の話からも窺われたのですが、あの自由奔放の中にも一本筋の通った性格は春嶽の血を受け継いでいるからではと思いました。

・東大で苦労したこと:
義親氏は学習院卒業後、東京帝国大学文科大学(現東大文学部)の史学科なら無試験で入れると知って入学したものの、卒業するのに相当苦労し、また懲りもせずに今度は理科大学(現東大理学部)の生物科を受験して合格して植物学を専攻されたそうです。義親氏が後年、徳川美術館を創設したり、「源氏物語絵巻」の保存法を考えたりしたのは史学者、自宅に生物学研究所を創設したり、尾張藩が所有していた木曽山林を対象に林政史を研究したのは生物学者としてだったのでしょう。

・北海道八雲町と木彫りの熊:
慶勝公が、禄を失って生活に困窮する旧藩士の生計を確保するために北海道開拓を志し、現在の八雲町に入植したことから、その後も歴代の当主たちは八雲町をしばしば訪れております。特に、義親氏は1921年〜1922年にかけて訪れたスイスで木彫りの熊のおみやげ品を見て、冬場に雪に閉ざされて仕事が無い八雲の農民たちがこれを作って売ればいくばくかの収入になるのではと考え購入して持ち帰り、作ったものは買い上げると言って八雲の人々に木彫りの熊の製作を奨励したことがきっかけになって、木彫りの熊は北海道名物の土産物として定着し、今日に至っております。我が家の居間の木彫りの熊をそんな歴史が刻まれていたのかと見つめました。

・間違って伝えられた「虎狩りの殿様」の異名:
義親氏は蕁麻疹の持病を持っていたため、医師から転地療養を勧められ、1920年にシンガポール行きを決意したところ、朝日新聞記者が「熊狩りの殿様だから、虎狩りをしに行くんだろう」と「徳川義親侯爵、シンガポールへ虎狩りに」という見出しの記事を書きこの記事をさらに英字紙が転載したことから、シンガポールまで船に乗っている間に「虎狩りの殿様」で有名になってしまいました。義親氏は木彫りの熊を製作するために熊を観察する必要が有ることから北海道で熊狩りしたのは事実とのことでしたので、「熊狩りの殿様」までは事実ですが、「虎狩りの殿様」は発想の飛躍でした。転載記事を読んだジョホールのスルタン(国王)が「一緒に虎狩りと象狩りをしよう」と準備万端整えて待ち構えていたとのことでした。

・頼まれると断れない性格:
義親氏の肩書で面白いものが有ります。「理髪業組合会長」です。理髪業とは全く関係ないのに、理髪業組合から、「虎狩り→虎刈り」の連想から会長就任を頼まれ引き受けてしまったそうです。頼まれると断れない性格によるもので、「池袋観光協会会長」など多くの協会や団体の役員、会長などを務めております。

・徳川美術館の創設:
義崇氏が、この講演の中で最も熱を込めて語られたのが、義親氏による尾張徳川家伝来の収蔵品の散逸防止でした。 全国の大名家の収蔵品が廃藩後散逸、焼失していることを憂いた義親氏は戦前、尾張徳川家に残されている道具類、絵画、陶磁器、太刀、絵巻物等の重要文化財を所有地に徳川美術館を建てて保管・展示し、古文書類はその隣に蓬左文庫を建てて保管し、後に名古屋市に移管しております。戦後、戦災、華族制度の廃止、財産税課税等により、全国の大名家の収蔵品の散逸が加速した事実を考えると、義親氏の先見性がうかがえます。

・国宝「源氏物語絵巻」の画期的な展示・保存法:
義崇氏は、義親氏が徳川美術館収蔵品の保管・展示方法にも注力した事例として、国宝「源氏物語絵巻」について話されました。絵巻物は開ける時は内表面が延伸され、閉じる時は逆に収縮されるため、開閉によって疲労劣化が進んでしまいます。従って、 12世紀に作られ、その後当代最高の蒔絵師が可能な限りの技法を駆使して表装されたこの「源氏物語絵巻」を一般公開することは出来ません。これでは、宝の持ち腐れと考えた義親氏は、表装師の猛反対を押し切って大胆にも絵巻の場面ごとに切り離し、ケースに入れて公開に耐えうる保存方法を考案したのでした。これは、義親氏しか出来ない見事な方法だと思います。

・その他興味を覚えた話:
 スイス旅行の折りに、たまたまアインシュタインと同じ船に乗り合わせたこと
 虎狩りのお礼を兼ねて戦時中、ジョホールのスルタン救済に軍属として出掛けたこと
 その際、植物園等を戦火や略奪から守り抜き、戦後ほぼ無傷で返還したこと
 名古屋市長選で掲げた丸八が市章と同一とのクレームに徳川の略家紋と反論したこと
 廃藩置県で義親氏の祖父慶勝公が知事になった時の報酬が億単位で莫大だったこと
 義崇氏の葬儀が今では信じられないほどに大々的であったこと


「信楽陶芸村」のタヌキの陳列

会社のOB会の年間行事として、毎年日帰りバス旅行が企画されております。今年は、伊賀上野にあるINAXのユニットバスとタイルの工場を見学した後、リゾートホテルでの懇親会に参席し、「信楽陶芸村」を散策することになりました。昨日は、徳川義崇さんの講演を聴いた後、金山の「嘉文」で友人と会食してからカラオケスナックに立ち寄ったので多少疲れが残っていたものの、元気に出発地の名鉄半田駅前の雁宿ホール前まで自宅から歩いていきました。貸切バス2台でここを8時にスタートし、下図のコースをとって高速道(図中の赤線)を乗り継ぎ、途中トイレ休憩を2回とり、2時間半ほどで最初の目的地、伊賀上野に到着しました。

今回のバス旅行のコース

@(半田IC)←→A(大府IC)  =知多半島道路
A(大府IC)←→B(四日市JCT)=伊勢湾岸道路
B(四日市JCT)←→C(亀山IC)=東名阪高速道路
D(亀山IC)←→E伊賀上野 =名阪国道
F(信楽IC)←→G(亀山JCT) =新名神高速道路

以上五つの高速道路を乗り継ぐことが出来るため効率よく移動出来ました。特に、伊勢湾岸道路の開通によって知多半島道路から直接、四日市JCTから東名阪高速道路に乗り入れることができるのは大変便利です。以前、四日市方面にに行くには名四国道か国道1号線しかなく、いずれも渋滞が激しく大府から1時間半程度を要しましたが、現在ではこの乗り継ぎで30分程度で済みます。また、亀山から伊賀上野までは無料の自動車専用道路の名阪国道を利用できること、更に信楽からは信楽ICから昨年開通したばかりの新名神高速道路に入り、亀山JCTから東名阪高速道路に乗り継ぐことで往路と同じコースで帰路に着くことが出来るのも便利です。

伊賀上野では、ユニットバスを製造しているINAXの伊賀上野工場を見学しました。ここでは、ポリエステル樹脂にガラス繊維を配合した硬化前のロール状のFRPプリフォームを大きなプレス成形機に自動送りし、成形と同時に硬化させて取り出し、バリ取りしてから組み立て工程に送っているところを見学しました。ユニットバスは、工場で予め天井・浴槽・床・壁などを成形しておき、現場に搬入後に組み立てる浴室のことで、東京オリンピックを控えて突貫工事の内装を迫られたホテルニューオータニで初めて採用されて以来、日本では広く普及しております。現地に大きな組立部材をトラックで搬送するため輸送費が嵩むことから、同社では拠点工場を全国3ケ所に配置して搬送移動距離を短縮しており、この工場は名古屋以西をカバーしているとのことでした。

次に、近くにある上野緑工場を見学しました。ここでは、個々に製造された複数のタイルが接着剤が塗布された基板に自動的にセットされ加熱炉を経て製品として取り出され、更に壁、床等に組立られておりました。このうち、我々はタイルの製造工程と基板への接着工程を見学しました。私が興味を抱いたのは乾式のタイルの製造工程でした。当然、フィルタープレス等で作られ脱水ケーキからプレスによる湿式で成形されるものと考えていたところ、スプレードライヤーで粉末化された材料にPVA等の有機バインダーを配合した後、乾式で自動プレス成形していたからです。この方法はファインセラミックスの成形に採用されている手法ですから、このようなところにも時代の進歩が感じ取られました。

見学を終えてから、リゾートホテルでの懇親会に参加しました。このホテルは、今年5月に厚生年金振興財団系列の「ウエルサンピア伊賀」が閉鎖されヒルホテル系列として「ヒルホテルサンピア伊賀」として生まれ変わったとのことでした。これまでのバス旅行では、幹事さんが懇親会の前に走行中のバスの車内で缶ビールなどを振舞って宴会での酒量を節約するのが常でした。ところが、この日は工場見学のためバス車内では禁酒だったため懇親会の宴席での最初のビールは久しぶりに美味しく頂けました。 その後、信楽町の陶芸村にバスで移動し、窯元で信楽焼の説明を聞いてから陶芸村を散策しました。信楽焼は、日本六古窯(常滑焼、瀬戸焼、備前焼、丹波焼、越前焼、信楽焼)のひとつで、滋賀県甲賀市信楽町を中心に作られる伝統陶磁器、b器で、狸の置物で知られております。その特長は、土中の鉄分による赤色、灰が降り掛かる、灰かぶりなどの自然降灰釉の付着や薪の灰に埋まって黒褐色になる「焦げ」など、炎が生み出す独特の焼き上がりにあると言われております。

従って、登り窯による製品に信楽焼の特徴が発現されますが、最近は登り窯の代わりにガス窯や重油釜が使われるようになったため、伝統陶磁器が減り、植木鉢、食器、建築用タイル、陶板、タヌキ、傘立て、花器、茶器、庭園陶器など生活に根ざした陶器に代わりつつあるとのことでした。ここでしばしの間、散策した後に、信楽ICから昨年開通した新名神高速の入り、亀山JCT経由で東名阪、伊勢湾岸、知多半島の高速道を乗り継いで1時間半弱で出発地の名鉄半田駅前に到着しました。


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