−日記帳(N0.1631)2009年010月日−
京都、奈良に日帰りバス旅行(1)
(天皇陛下御即位20周年記念特別公開の京都御所見学)
−日記帳(N0.1632)2009年10月日−
京都、奈良に日帰りバス旅行(2)
(奈良・興福寺の国宝特別公開2009による国宝・阿修羅像見学)


一般公開参観者の出入口の清所門

天皇陛下御即位20周年を記念して、これまでの恒例の一般公開で公開されている紫宸殿、清涼殿、小御所等に加え、通常非公開の皇后宮常御殿、飛香舎、若宮、姫宮御殿及び朔平門が公開されることと御即位に関連した展示等も実施されとのことでしたので、日帰りバスツアーで参加しました。地元の名鉄半田駅前で朝8時30分に乗車し、半田ICから知多半島道路に入り伊勢湾岸道路に乗り継いで終点の四日市ICから東名阪に乗り継ぎ、亀山ICから新名神に入って草津JCTで名神と合流、京都南ICから京都市内に入るコースをとりました。

予定としては昼食を、比叡山の麓の洛北にあるグランドプリンスホテルで京懐石料理でとった後、1時から2時まで御所見学してから奈良に移動して、特別公開中の興福寺・国宝阿修羅像の見学をしてから帰路に着くことになっておりました。心配されたのは、空模様と混雑でした。御所の一般公開は今日が初日の上、休日であること、国宝阿修羅像の一般公開は凄い人気で3時間待ちとの情報が伝わっており、その場合雨模様ですと厳しいことになるのではとの思いが有ったからです。幸い、空模様は御所見学の折りに一時的に降られましたが小雨程度、また御所の混雑は予想したほどではなく、また奈良にいどうしてからは晴れて風も弱く行列もさほど苦にはなりませんでした。

三方を山に囲まれた京都市内

京都御所

明治、大正天皇の即位礼等、公式行事が行なわれた紫宸殿

平安時代、天皇が日常の生活をされた清涼殿

16世紀以降、皇后や女御の生活の場となった皇后宮御殿

曲折した遣り水を流して土橋や石橋がが架けられた御内庭

皇子の元服、将軍との対面される場として使われた小御所

平安時代、天皇が日常の生活をされた清涼殿

正式に参内した者の控えに使われた諸大夫の間

皇子、皇女のお住まいで明治天皇が一時住まわれた若宮御殿




興福寺の国宝阿修羅像(特別公開のポスターより)

京都御所の見学を終えて、バスは京都から南50q先の奈良に向けて京奈和自動車道を南下していきました。途中、興福寺での阿修羅像見学の待ち時間が3時間との情報がツアーに同行している旅行社の添乗員さんの携帯に飛び込み、見学の締切時刻(午後6時)を気にしながらもバスは3時過ぎに、奈良市内に到着しました。結果として、時間的に遅かったこともあって2時間ほどの待ち時間で漸く会場の仮金堂に夕闇迫る4時半過ぎに入場できました。下の写真はその時の行列風景です。

興福寺・仮金堂周辺を幾重にも取り巻いていた見物客の行列

会場近くの行列(先方の建物が会場の仮金堂)

見学時間は約15分程度でした。通常、阿修羅像は、興福寺の国宝館内でガラス越しでしか拝観出来ないのですが今年は、来年が興福寺創建1300年周年に当たることから東京、福岡での公開に続けて、「帰山記念」とうたってホームの興福寺内の仮金堂で360度全方位から拝観できる配置にして公開されるに至ったわけです。今回のように、阿修羅像を含む八部衆像、十大弟子像の計14点の国宝、四天王像、2点の重文(重要文化財)の菩薩像を含む釈迦三尊像等からなる仏像群が同時に堂内に安置されるのは110年ぶりとのことで幸運でした。仏像群の配置は下図のとおりで、阿修羅像が仏像群の末席の最前列に配置されております。何故、主役のご本尊の釈迦如来像が重文ではなく十大弟子像、八部衆像など、末席に配置されている仏像群が重文を飛び越えて国宝に指定されているかについて以下、解説してみたいと思います。

当日、仮金堂での仏像群の配置図
(八部衆像の後方に配置されていた十大弟子像6体はここでは省略)

仏像には、如来像、菩薩像、明王像、天部像の四つがあります。如来は実在の人物としてはお釈迦様だけを指しますが、信仰上では阿弥陀如来、薬師如来、大日如来等、大乗仏教の展開の中で想定された多くの如来がおります。如来の次の位の菩薩はお釈迦様の弟子に相当し、完全な悟りの境地に近づこうとしている人のことを指し、観音菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩等があります。

明王は、仏の教えに従順でない者たちを強引に教化するために憤怒形の恐ろしい表情をしており、不動明王、愛染明王、大威徳明王、孔雀明王等があります。そして4番目の最下位にある天部像には、阿修羅の他に梵天、帝釈天、吉祥天、弁才天をはじめ恵比須、大黒などの神仏習合による七福神があります。阿修羅像はこの天部像に属します。ここでの主役はご本尊の5代目釈迦如来坐像(江戸時代の1811年作の木造)で、両側に脇侍として菩薩像(重文でいずれも鎌倉時代の1202年作の木造、薬王菩薩立像、薬上菩薩立像)が控えており、この三仏を釈迦三尊像と称しております。更にその横に明王像の四天王像(いずれも重文(重要文化財)で鎌倉時代の1189年の木造)が控え、そしてその前に、天部像の八部衆像(いずれも国宝で奈良・天平時代の734年作の脱活乾漆造)が控えております。

阿修羅像はこの八部衆像の一つですが、その特異な表情故に絶大な人気が有ることから、当日は上図に示すように八部衆像のほぼ中央に配置されておりました。赤い点線で示す通路は、阿修羅像の正面近くでスロープになっているので、ほぼ大人の背丈の153センチの阿修羅像を同じ目線から眺めることができます。更に進んでいくと通路は阿修羅像の後ろに回り込んでおりますので前後左右、全方位から眺めることもできます。これだけ絢爛豪華な国宝級の仏像群をあらゆる方角から身近に拝観できることは、恐らく生涯二度とないことと思い、その情景を脳裏に焼き付けておきました。阿修羅像の真正面で足を止める見物客が多いため係員がしばしば前に移動を催促しておりました。ご本尊の釈迦如来坐像が重文でも国宝でもない反面、最下位の天部像の八部衆像等が国宝となっている理由はその古さに起因しております。

これら、釈迦三尊像、八部衆像、十大弟子像等の一連の仏像群は、1717年に焼失した西金堂に安置されていましたが、1180年の平重衡による「南都焼討ち」で八部衆像や十大弟子像以外の仏像のほとんどは焼失し、更にその後の度重なる大火でご本尊の釈迦如来坐像は焼失を繰り返し、現在の像は5代目で江戸時代の1811年に、定朝〜運慶の末裔、仏師の赤尾右京が造立したと言われております。従ってご本尊は造立後200年しか経過しておらず、歴史資産としての価値は、当初の造立当時のままの1300年経過している阿修羅像等の八部衆像よりはるかに低く、ご本尊でありながら重文にも指定されないことになったわけです。

それでは何故、八部衆像が8体とも焼失を免れてきたのでしょうか。阿修羅像にはここにも謎が秘められているように思われてなりません。私は一応、プラスチックスの専門家ですので、専門的な立場から考えると、阿修羅像の材質の脱活乾漆(だっかつかんしつ)は世界最古のFRP(繊維強化プラスチックス)と考えております。FRPは繊維に樹脂を含浸させて成形することで繊維と樹脂の特長を同時に発揮させて得られる強靭な複合材料のことで、浴槽、釣竿、小型ボートなどに採用されております。樹脂としてエポキシ、繊維としてガラス、カーボン等が使われております。

脱活乾漆では、樹脂として漆、繊維として麻が使われております。日本産の漆は2価のアルキルフェノールを基本構造とする、フェノール樹脂に似た樹脂で、モノマーに相当する液状のウルシオールが乾燥過程で重縮合反応を起こして強靭な樹脂に変化していきます。薄い被膜にすれば漆器に見られるように強靭で安定な状態が維持されますが、厚みのある成形体にすると脆くて実用に適しません。ところが、これを麻のような繊維に含浸させればカーボン竿のような強靭な複合材料が得られます。

脱活乾漆の製造プロセス概念図

「脱活」は「張子の虎」のように内部が空洞であること「乾漆」は「漆」が乾いて堅くなっていることを意味しております。その製造プロセスを例えば、菱形の立方体を例にして説明すると凡そ上図のようになります。まず塑土で塑像(型)を作ります。この表面に漆が含浸された麻を張り付け(この工程がFRPのハンドレイアップに相当)てから漆の硬化に適した温度と湿度に調節された漆風呂(FRPの硬化炉に相当)に入れて乾燥を促進させることを数回繰り返して硬化させてから坐像の場合は底、立像の場合は背中を切って塑像を崩して取り出し、空洞になった像内に木枠の心木を納め、像と心木を釘で固定して漆の収縮による変形を防止します。そして最後に木の粉や繊維くずなどを漆にまぜた木屎漆を塗り付けて凹凸を作り微細に彫刻を施してから漆箔や金箔を張って完成させます。

脱活乾漆像は天平時代に多く作られましたがその後は殆ど作られておりません。その理由は、脱活乾漆には世界最高品質の漆、それも当時金より高価だった高純度の漆を大量に使用することにあったものと思われます。日本以外でも脱活乾漆像作られていると思われますが、日本産の高品質の漆は日本以外では入手困難と思われますので、多分、天平時代の脱活乾漆像が世界最高品質でかつ世界最古の強化プラスチックスであると大胆な仮説を立てたわけです。そして、興福寺が過去何回も火災に遭いながら、阿修羅像をはじめ八部衆像だけが焼失を免れてきたのは、脱活乾漆像だったが故に強靭で軽量(阿修羅像は僅か15kg)だったため僧たちがいち早く運び出すことが出来たからと私は推論しました。

今年、東京、福岡での公開に当って、強靭とは言え、張り子の虎の阿修羅像等の脱活乾漆像を少しの損傷を与えないで、奈良、東京、東京、福岡、福岡、奈良に長距離輸送することは大変なことでした。そこで、 この運送を担当した日通運輸の美術運送専門チームはプロジェクトを立ち上げて事に当たりました。その様子は、NHKが今年の4月28日の「プロフェッショナル:不安の先に、光明はある」で特集して放映しておりました。このチームのチーフは、美術品梱包輸送で初めて「現代の名工」に選ばれた海老名和明さんが担当しました。彼は、朝日新聞社によってX線CTスキャンされた下の阿修羅像の画像を観察してから、梱包のしかたを検討されたとのことでした。ただ、注意を要するのは、阿修羅像は金属ではなく脱活乾漆による有機物で主成分の漆は天然高分子であるが故に、紫外線、X線等の放射線によって劣化が加速されますので、X線照射やフラッシュ撮影は極力避けるべきと考えます。

阿修羅像のCTスキャン画像
(九州国立博物館提供)

阿修羅像の搬送上の問題点は、軽量、空洞構造、細長い6本の腕にあり、共通の課題は走行中の振動を如何に阿修羅像に伝えないようにする防振にありました。そこで、チームは腕と腰を薄葉紙などで厳重に保護した後、このような内箱に立ったままの状態で台座以外一切の支え無しで収納し、6本のワイヤロープを螺旋状に巻いた防振装置を介して外箱に収納し、微振動たりと言えども阿修羅像に伝わらないようにして、トラック荷台の最も振動の少ない場所に置き、同時に上下振動を軽減するためにダミーの重りを積み、更に警察の許可を取り付けてタイヤの空気圧を半減し、奈良・興福寺から5時間かけて、東京・上野博物館に搬送したとのことでした。

阿修羅像の東京出展は今回で2度目で、1度目は昭和27年(1952年)2月、日本橋三越で開かれた『奈良春日興福寺国宝展』で、3週間足らずの会期中、50万人が押し寄せたとのことですから、阿修羅像は既に半世紀以上も前から人気が有ったようです。尚、この時の搬送は、当時の国鉄奈良駅から汐留駅まで深夜の東海道線で時速4qの超ノロノロ運転で4日間かけて運び、汐留駅から日本橋三越までは武装警官の立会のもと警視庁の特別手配によりノンストップで入ったとのことです。以上で、阿修羅像が何故、造立以来、幾多かの火災を免れて1300年間無傷の状態で存在し得たかについての推論を終え、次に阿修羅像が何故あのように憂いを含んだ凛々しい美少年のような表情をしているかについて推論してみたいと思います。

以前、NHKテレビで「阿修羅のごとく」というドラマが放映されたことがありました。このドラマのテーマ音楽が「チャンチャカチャーン」という、オスマントルコの軍歌「ジェッディン・デデン」で、何とも言えない独得のメロディーの上、このドラマの原作者の向田邦子さんが事故死した台湾の台中上空を飛行した経験が有るだけに忘れられないドラマとなっております。ドラマでは、父に浮気相手と隠し子がいたことを知った四姉妹の間の葛藤を描いており、外面はよいの内面に猜疑心を煮えたぎらせて他人の悪口を言い合う姉妹の様子を阿修羅に例えたことからこの題名が付けられております。激しい戦いの場を「修羅場」ということは知っておりましたので、阿修羅は戦いの権化と私は考えておりました。

ところが、2005年にアンコールワット遺跡を訪れた時に見学した第一回廊の内壁の有名なレリーフ「阿修羅との戦い」が、ヒンズー教の三神のひとつのヴィシュヌ神と当時悪神とされていた阿修羅との戦いを描いていることを知り、阿修羅がヒンズー教では悪神とされていたことを知りました。インド神話では、正義の神アシュラと力の神インドラがおり、美しい娘をインドラに略奪されて怒ったアシュラが戦いを挑み続けたものの力の神に勝てる訳もなくアシュラは敗け続けて怒りの権化に化したことからインドラによって神々の世界である天界から追放されております。「阿修羅との戦い」の近くに「乳海攪拌」というレリーフが有り、この中でヒンズー教での阿修羅の位置付けを理解することが出来ます。

ヴィシュヌ神が不死をもたらす霊薬を取り出すために海を撹拌することを考え、その動力源として天界を追放されて悪神となったアシュラと善神が反目しあって綱を引っ張り合うことで生ずる力を利用することを思いつき、このレリーフにその様子が描かれております。仏教はこの神話に基づいて敗北者となったアシュラを「阿修羅」と読んで魔神、勝利者のインドラを「帝釈天」と呼んで護法の神とし、その抗争を通して仏教の道を教えていると言われております。

自分の愛娘を略奪されたことを怒って帝釈天と戦うのは正義、略奪した帝釈天の行為は不正義と考えられます。しかし、略奪された愛娘は帝釈天の妃になって幸福になったことを考えれば、正義にこだわり続けて何時までも戦い続けようとする阿修羅の心の狭さの方が帝釈天の行為よりもっとよくないと仏教では教えております。つまり、自らの正義ばかりを主張して相手の立場を考えないような正義は魔類の正義とし、仏教はそのような正義にこだわるなと教えているようです。

上述のように、阿修羅は帝釈天と戦いながら他の悪神とともに戦いの世界におりました。そこにお釈迦様が現れ悟りを開いて平和な社会づくりを目指されました。平和は悪神にとって不都合ですから悪神たちは挙ってお釈迦様の説法を妨害しようとしました。阿修羅も妨害の輪に加わるのですが、その前にライバルの悪神たちを排除しようとするのですが、その間にお釈迦様の説法が耳に入ってしまいました。そして、いつのまにか大衆と一緒にその説法を聞き入ってしまったとのことです。その瞬間、阿修羅の表情はそれまでの鬼のような恐ろしい形相から少年のような優しい表情に変わったことと思います。

このことは、阿修羅には恐ろしい形相をして戦い続けるという本来の悪神のイメージとは別に、上述のように仏教に帰依して悪神から仏になる過程で優しい表情で人を説くイメージも有ることを物語っております。従って、阿修羅の造立の過程で製作者、もしくは製作を依頼した発願者にこのイメージが脳裏に過ったのではないでしょうか。そこで、阿修羅像の製作者と発願者に触れてみたいと思います。

阿修羅像の製作者は昭和8年に、寺社建築に関する研究の第一人者の福山敏男氏の研究によって、正倉院文書の中の西金堂造営経緯を詳しく記した「造仏所作物帳」が見い出されれ、阿修羅像等の八部衆や等の脱活乾漆像の製作者は百済から渡来した仏師・将軍万福であったことがほぼ判明しております。一方、発願者は、父藤原鎌足が壬申の乱の時、敵方近江朝の中枢にあったため、天武朝では朝廷の中枢から外されていたものの文武朝になってその擁立に功績が有ったことから復権した次男、藤原不比等の三女、藤三娘(またの名を安宿媛、後に聖武天皇の正妃、光明皇后)と判明しております。

将軍万福についてはその出生は不明ですが、かって朝鮮半島の王国で隣国の新羅と唐によって滅ぼされた百済からの難民で、優れた彫像技術を持っていたことから光明皇后をはじめ朝廷、藤原一族に重用された名工であったことは間違いない事実のようです。一方、藤三娘は仏教に深い知識を持ち能書家としても知られ、実兄の藤原四兄弟の権謀術数によるものの皇族以外で初の皇后になり、慈悲と仁愛に満ちて聡明でかつ光り輝くほど美貌だったことから「光明子」とも呼ばれております。

以上の経歴からして、この二人の関係は、単に仏像の発願者と製作者であったとはどうしても思えません。二人は、この工事の顧問役で在唐17年の高僧・道慈に引き合わされて仏像の製作現場の造仏所で会っております。藤三娘は立后して光明皇后になって4年後の733年1月に母・橘三千代が逝去したため藤原家三代目の正嫡として、母の菩提のために藤原家の氏寺の興福寺内に、翌734年1月の1周忌に間に合うように西金堂を建立しその中にお堂を荘厳する仏像群を完成させることを発願していたのでした。この仏像群の中に八部衆像のひとつとして阿修羅像が含まれておりました。

僅か1年の間に西金堂と仏像群を完成させることは困難を極めました。西金堂の建立には人手を掛ければ何とかなりますが、仏像群のうち十大弟子像、八部衆像14体は全て脱活乾漆像でしたので、既述したように大変手間が掛る上、棟梁仏師の将軍万福の手に頼る工程が多いため、いくら人手を掛けても直ぐに捗るわけにはいきまません。西金堂の建立には5万以上の人を動員することで目途が立っておりましたが、仏像群については、造仏所の最高責任者の小野牛養からまだ目途がたっていないとの報告を道慈は受けておりました。そこで、道慈は万福を鼓舞激励してやる気を起こさせる以外に方策は無いと考え、敢えて雲上人である光明皇后を造仏所に招き、万福に引き合わせようとしたことは想像に難く、事実、「造仏所作物帳」にその記載が有ると言われております。

このことについては、Mother Lotus 編集同人のあんどうよしみさんが、彼女のウエブサイトの「Web Mother Lotus」の随想「阿修羅幻想」で詳しく書かれております。彼女は、阿修羅像の表情がモナリザに匹敵するほどに謎に満ちながら憂いと凛々しさを表現しているのは、 万福の脳裏に光明皇后のお姿が過って離れなかったのではと述べておられますが、私もその思いに同調します。以下、その思いに馳せながらその下りをフィクションにして物語風に述べてみたいと思います。

・・・・・その日、彼は朝からは緊張しながら、日本のトップレディーであるとともに実質的に日本の最高実力者でもある、天皇の妃、光明皇后が造仏所にお越しになるのを待っておりました。そして、数日前、日頃より尊敬していた高僧・道慈との次のような会話を改めて心に刻むべく思い出しておりました。

・「万福よ、阿修羅像はどこまで出来あがっているのかな?」
・「はい、漆風呂で乾燥している段階で、あと2回で乾燥が終わります」
・「そうか、ところでお主は阿修羅をどのように造るつもりじゃ?」
・「はい、道慈様からもお教え頂いておりますように、阿修羅様は四天王様にお仕えして
 如来様をお守りする八部衆の神様で、その中でも阿修羅様は戦うことでお守りされると
 聞き及んでおりますので、戦うお姿で表現したいと思っておりまする」
・「それは、至極もっともな考えじゃが。だがな、阿修羅はお釈迦様の説法を聞いて感動し
 仏に帰依したのじゃが、わしが唐の国から持ち帰った「金光明最勝王経」という経典に
 はその時の阿修羅の表情は童心に帰ったようだったと記されておるぞよ、お主はこのこ
 とを存じておるかの?」
・「はい、存じておりまする。私が仏師の修行をしている時に師匠や仲間たちとそのことで
 話し合ったこともございます。私も、仏師である以上、それなりの考えをもって心をつくし
 てお造りしたいと考えておりますので、何卒お任せ頂きたくお願い申し上げまする」
・「おおそうか、それなら私から言うことはない」
・「ところで道慈様、何ゆえ、数ある像のなかで阿修羅像にお触れになるのでしょうか?」
・「よくぞ申した、そのことでお主に折り入って頼みたいことがある、実はな今回の菩提を
 を発願なさったお方は、やんごとなき皇后さまにあらせられるが、内親王様、お父上様
 に続き昨年お母上様を亡くされた上、4年前にはお兄上さまたちと争って長屋王様など
 お知り合いの皇族の方々が自害されるなどのご不幸が続き、悲しみにくれる日々を
 お過ごしなされて、仏にすがるお心強く、恐れ多いことに拙僧を何度か召され仏の道の
 教えを請われたのじゃが、その中でさきほど話した「金光明最勝王経」についてお話し
 申し上げたところ、阿修羅が仏に帰依する下りに大変ご関心を持たれ今回の阿修羅像
 についてお尋ねが有ったのじゃ」
・「さようでございましたか、それでどのようなことをお尋ねになられたのでしょうか?」
・「うむ、それじゃが、どのようにして造るのか、どのようなお顔なのか、じゃった」
・「それで、道慈様はどのようにお答えになられたのでしょうか」
・「唐伝来の夾紵の技でお造りし、その技を使うことで我が国で並ぶものなしと言われる
 お主が棟梁として指揮をとっているとお話し申し上げたところ、皇后様はことのほかお
 喜びになられたのじゃが、お顔の方はまだ造られていないので申し上げようもないとお
 答えしておいのじゃ」
・「それは、それは恐れ多いいことで身に余る光栄でござりまする、ところで私への頼み
 とは何でございましょうか?」
・「阿修羅像とそれを作る技の夾紵にご興味を持たれた皇后さまが、是非その工房を見
 た上でお主に会ってみたいと申されたのじゃ、このこと引き受けてもらいたいのじゃ
・「滅相もないことで、身が縮む思いですが、こんな私のような者でよろしければ、何時
 でもよろしゅうございます、ただ、せっかくご覧頂くなら木屎漆でお顔の形を整えた後
 の方がよろしいかと存じまする、それにはあとひと月ほどお待ち頂きたく存じまする」
・「そうじゃな、仕上げには間も有ろうからそのぐらいでよかろう、では頼んだぞ」

そして、それからひと月ほど経ったある日、光明皇后一行が道慈に案内されて、万福等が恭しく待ちうける造仏所に行啓されました。ひれ伏していた万福は道慈の声に促されて、頭を上げ目前の光明皇后を見上げました。その瞬間、その名のとおりの輝くような美しさに圧倒され呆然と言葉も無く見入るばかりでした。やがて、皇后からねぎらいの言葉をかけられて「恐れ多いことでございます」と小声で答えて再びひれ伏すのがこの場での精一杯の万福のしぐさでした。

仏師は、あくまでも仏の立場から、人の苦しみの声をやさしく聞き入れて人のこころを癒される仏のお姿を念じて造仏していくのが正道で、人の立場から仏に向けてお姿を念ずるのは邪道とされております。当然、万福もこのことは充分心得ておりましたが、阿修羅像の造仏工程が最終の仕上げ段階になり、乾燥した木屎漆を細かく削ってお顔の表情を形造っていく時、あの日見たの光明皇后のお姿が脳裏を過るのを抑えることができませんでした。

彼は、道慈が立場上敢えて言葉には出さなかったものの、敢えて光明皇后を彼に引き合わせ、光明皇后が身内を亡くされてこころを痛めていることを口にしたのは、阿修羅像に光明皇后のこころを癒す面を形造って欲しいとの願いが込められていることを悟っておりました。これを具現させることは勿論、邪道であり仏師としてあるまじきことであるとしてその思いを振り払って一心不乱に木屎漆を削っていきました。

こうして、細かく削られた木屎漆に更に土漆が掛けられて阿修羅像の形造りが終わり、漆箔を張り付けることで、天平5年11月のある日、阿修羅像は完成しました。それから数日後、西金堂の造営の現場を行啓された光明皇后は、造仏所に立ち寄られ、完成した阿修羅像に対面されました。その瞬間、光明皇后は阿修羅像に両手を合わせ頭を下げました。この様子を見守っていた万福には、二対の阿修羅像が相対しているように思えたのでした。・・・・・

以上は、阿修羅像が何故あのような表情に造られたのかの答えを私なりに引き出そうとして想像を逞しくして作り上げたフィクションで何の根拠も有りません。万福は意図して光明皇后をモデルにしたわけではなく、時には常に慈悲のこころをもって貧しい人たち、病める人たちに救済の手を差し伸べていた光明皇后の顔が、時には仏に帰依して喜びのあまり童のようになった阿修羅の顔が、時には如来様をお守りする厳しい顔が、万福の頭を過り、優しい表情、喜びの表情、厳しい表情が自然に刻まれていったのでしょう。


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