−日記帳(N0.1223)2012年1029日−
ロシア旅行第2日(モスクワ市内観光)
−日記帳(N0.1224) 2012年10月30日−
ロシア旅行第3日(ウラジミール スズダリ)


赤の広場の風景

ウラジーミルのウスペンスキー大聖堂


昨晩、ホテルに着いたのは真夜中の12時を過ぎておりましたが、連泊ですのでスーツケースの整理などはせずに、しばし寛いでから風呂に入って2時過ぎに就眠しました。今日のホテル出発は9時半ですので7時過ぎに起床しても充分時間の余裕は有りました。今日は午前中、ウスペンスキー寺院、武器庫、聖ワシリー寺院、赤の広場、午後にアルバート通り、雀ヶ丘とモスクワ市内観光を予定しております。

モスクワは昨日、例年より2週間ほど早い初雪だったとのことでガイドさんによれば、雪の後に大雨が降ってモスクワの人たちは戸惑ったとのことでした。モスクワは世界一渋滞の激しい都市で、スノータイヤを装着しないまま走行したドライバーも多かったようでスリップ事故が多発し益々渋滞が激しくなることは容易に想像できます。実際、ホテルを出発したバスから渋滞の中、救急車のサイレンが聞こえ、道路の合流付近で強引に割り込むマナーの悪いドライバーが散見されました。

モスクワ市内の渋滞風景

クレムリンは城塞と言う意味ですからモスクワの他にもクレムリンは存在しますが、モスクワのクレムリンが最も有名です。モスクワのクレムリンには城砦に囲まれた中に大統領府等の政治、ウスペンスキー聖堂等の宗教、武器庫等の文化の夫々中枢施設があります。クレムリンに入るには入場料を払い所定の門からセキュリテーを受けて出入りしなければなりません。我々は下図の赤線で示すコースに従いクレムリンに出入りしました。

クレムリンの衛星画像

@赤の広場:クレムリンの城壁の外側に広がる広場でレーニン廟等が在る
A聖ワシーリー聖堂:16世紀、イヴァン4世がカザン征服を記念して建立
Bグム百貨店:1893年に完成し国有化を経て民営化され現在200店舗が営業
Cレーニン廟:1924年死去したレーニンの遺体が保存処理され安置されている建物
D国立歴史博物館:赤の広場にあるロシアバロック様式のロシア最大の博物館
Eクタフィヤ塔:クレムリンへの入城口で我々もここから入城
Fトロイツカヤ塔:クタフィヤ塔に続いており二重の関所の役割を果たしている
Gクレムリン大会宮殿:1961年完成の6,000人収容の大会議場をもつ近代的建築物
H武器庫:キエフ時代の代々ツァーリの豪華な日常生活用品が展示されてる博物館
I大クレムリン宮殿:かっての皇帝の宮殿で現在は外国要人の会見 国家祝典行事に
Jウスペンスキー聖堂:生神女就寝大聖堂で聖母マリア=生神女永眠を記録する聖堂
Kイヴァン大帝の鐘楼:81mで約400年間の全ロシア最高、クレムリンでも最高
L大砲の皇帝:口径890mm世界最大 1586年に作られが一度も撃たれたこと無し
M鐘の皇帝:重さ200t 1737年のモスクワ大火で冷水掛けられ破損 一度も鳴らされず
N大統領官邸:1934年完成 ソ連邦最高会議開催されていたが現在は大統領執務
P大統領府:大統領府長官等のスタッフが執務するところでエリツィン大統領創設

クレムリンの入城開始時刻9時半に合わせて入城口のクタフィヤ塔前で待機しました。やがて入城が始まりましたが、予想されたほど混雑しませんでした。実際の入城はクタフィヤ塔から城塞道路で繋がるボロヴィツカヤ塔で、ここで一人一人セキュリティーチェックを受けました。城内にはプーチン大統領等政府要人が居る大統領府等のロシア政府の中枢施設が有りますので当然の処置です。

クタフィヤ塔前で入城を待つ観光客

ボロヴィツカヤ塔を背後に大クレムリン宮殿の横を通るツアー一行

武器庫外観、ロマノフ王朝に伝わる名品が陳列されている博物館

武器庫に陳列のニコライ2世皇后のドレス(撮禁のためネットから引用)

ウスペンスキー聖堂

大砲の皇帝と呼ばれる巨大な大砲、大き過ぎて発射できないとのこと

イヴァン大帝の鐘楼

鐘の皇帝と呼ばれる大鐘、一度も撞かれてないとのこと

大統領府

トロイツカヤ塔に向けてクレムリンから出場するところ

約3時間弱でクレムリン見学を終え、城塞の前に広がる赤の広場の見学を行いました。「赤の広場」の「赤」は日本共産党機関紙「赤旗」や戦後の1「レッドパージ」から共産主義の象徴と色と考え勝ちですが、「美しい」との意味で共産主義とは関係ないそうです。1493年、モスクワ大公国の統治者イヴァン3世が自らの居城であるクレムリンの前の市街地を広場として整理させたのが起源とされており、サンクトペトルブルグと違いここにはロマノフ王朝関連の施設は見当たりません。ロシアに来てはじめてのロシア料理「ビーストロガノフ」の昼食をとってから「赤の広場」の見学を行いました。

赤の広場

聖ワシーリー聖堂

グム百貨店の店内風景

赤の広場にあるレーニン廟

赤の広場にあるジューコフ元師騎馬像、元帥より馬の方が有名

赤の広場の見学を終えた4時過ぎの時点で、陽が沈むのが早いモスクワには既に夕暮れ状態になっておりました。次の見学予定のアルバート通り、雀ヶ丘では暗過ぎていい写真が撮れなくなるのではと心配しながら専用バスを待っておりました。ところが約束の時間を30分過ぎても来ません。バスが駐車違反を犯したのが遅延の理由でした。

この付近は左折禁止が多くバスが我々が待っているところに来るには大周りをせねばならず、むしろ我々が歩いてバスが停車している場所まっで移動した方が時間的に早いとのことでしたので20分ほどかけて移動しました。そんなことで40分以上遅れてアルバート通りに着きました。実はここにくるのが今回の旅行目的と考えている同行のツアー客の若い独身女性がおりました。

アルバート通り

私は知らなかったのですが、コーヒーショップのスターバックス専用のマイカップであるタンブラーを持参すると料金が割引きされるとのことです。そこで日本、いや世界各地のスターバックスからその地方独得の絵柄が描かれたタンブラーが販売されており、中でも下の写真に示すロシアのマトリョーシカタンブラーが世界一可愛いいとして人気が有り、日本でも大変な人気でガイドさんによれば5倍で売れるとのことでした。

世界一可愛いいマトリョーシカタンブラー

その独身女性は、職場の人たちから頼まれているので何としてもアルバート通りにあるスターバックスで入手したいとのことでした。ところが最初に立ち寄った1号店では売り切れて在庫が無いとのこと、2号店は今日は休日のため遠くの3号店まで行くしかないことが判りました。彼女はガイドさんに案内されて別行動をとって3号店に駆け付けていきました。集合時刻ぎりぎりに彼女はハーハーしながら到着しました。何とかお目当てのタンブラーを1個700円で14個買えたと喜んでおりました。

同行の女性がアルバート通りのスターバックス3号店で苦労して入手したタンブラー

アルバート通りの店先に陳列されている23個からなるマトリョーシカ

雀ヶ丘から望むモスクワオリンピックスタジアム

雀ヶ丘から望むモスクワ大学

こうして、ロシア旅行初日のモスクワ市内見学を終了してバスは夕暮れ泥む中ホテルに着きました。ホテルは下に示す凱旋門の右側に有り4つ星でした。部屋もスーツケースを開けて整理するには充分のスペースがあり風呂も空調も問題無かったのですが、テレビがアナログの上、韓国サムスン製のテレビの映りが悪く、更には日本語放送が全く無かったこと、湯沸かし器が無く持参のカップラーメンを食せなかったことが不満でした。

赤の広場

宿泊先のホテル イリス コングレスの外観

<ホテルの部屋の様子

ホテルを8時過ぎにバスで出発し、モスクワの東200kmの地にウラジーミル州の州都、ウラジーミルに行きました。ウラジーミルはロシアの古都の一つで、ウラジーミル・スーズダリ大公国の首都として栄えました。モスクワを東京、サンクトペテルスブルグを京都とすればウラジーミルやスーズダリは鎌倉や奈良のような存在です。東ロシア平原は日本の40倍以上もありますから、山の無い車窓からの風景は単純そのものです。

ウラジーミル、スーズダリとモスクワの位置関係

このように全く山岳地帯の無い東ロシアは9世紀以降、常に戦場となり群雄割拠しておりました。特に12世紀後半〜14世紀には10あまりの国に分裂しましたが漸く、このウラジーミル地方にウラジーミル・スーズダリ公国という強力な国家が誕生し、ロシアの首都の役割りを担うようになりました。このウラジーミル・スーズダリ大公国を理解するにはこの時代に至るまでのロシアの歴史を紐解く必要が有ります。以下に、ネットで知り合いのハシムさんのサイトの解説を引用させて頂きます。

1.キエフ・ルーシ(9〜12世紀)
ノヴゴロド(現在のサンクトペテルブルクの南約200q)地方にはスラブ人が居住しておりましたが統治能力に欠けていたため、リューリック(スウェーデンの豪族と思われる)を首領とするルーシ(RUS)と呼ばれるノルマン人たちがこの地を支配し862年にリューリック朝を創設しノヴゴロド公国と呼ばれました。この王朝は1613年のロマノフ王朝が誕生するまで750年間にわたってロシアを支配することになります。

その後の政変を経て、882年にリューリックの息子イーゴリと親戚のオレーグが現在のウクライナのキエフを支配し、キエフからノヴゴロドにわたる統一国家、キエフ・ルーシがが誕生しましたが、まだロシアという名称はありませんでした。しかしルーシ族はスラブ人と同化しルーシ(RUS)を語源として今日のロシア(RUSSIA) という言葉は生まれるようになります。また、ウラジーミル1世(980頃〜1015)が988年ビザンツ帝国の皇帝の妹と結婚しギリシア正教を取り入れました。

  2.分領制時代(12世紀後半〜14世紀)
 キエフ国家の力が衰え、10あまりの国に分裂しました。そのうちで最も有力になってくるのが、ウラジーミル・スーズダリ公国です。今回の旅行で訪れるウラジーミルとスーズダリがその中心でした。ウラジーミル・スーズダリ公国のユーリー・ドルゴルーキー公がスーズダリから約200q南西のモスクワで宴会を開いたことが年代記に記されています。これがモスクワが歴史の舞台に登場する最初でその年、1147年がモスクワの始まりとなっております。(1997年にモスクワ開市850年祭が行われました。)

3.「タタールのくびき」時代(1240年〜1480年)
 13世紀はモンゴルの世紀とも呼ばれています。チンギス・ハーンがモンゴル民族を統一し、中国から東ヨーロッパにまで及ぶモンゴル帝国を成立させます。分領制期のロシアはモンゴルによるロシアへの侵入を容易にしました。約240年間、ロシアの大部分はモンゴル人の支配下となります。この時代はロシアでは「タタールのくびき」時代と呼ばれています。

以上の歴史的背景のもとでウラジーミル・スーズダリ公国は繁栄しましたが、モンゴル民族によって破壊されてしまいました。しかし、幸いにもウラジーミルのウスペンスキー大聖堂、ドミトリエフスキー大聖堂、黄金の門、ス−ズダリのクレムリン、スパソ・エフフィミエフ修道院等の宗教施設の一部が残り、修復などされて「ウラジーミルとスーズダリの白亜の建造物群」の名称で世界遺産(文化遺産)に登録されました。

方解石(炭酸カルシウム)の多い石灰岩は真っ白になることから「白亜」と呼ばれております。ロシアには日本の面積の何倍もの広さの厚さが数qにも及ぶ石灰岩の地層が有ると言われております。この画像は、シベリアオビ川上流の風景で、石灰岩の地層が白く帯をなして露出している様子が認められます。石灰岩は水に溶けてアルカリ性を示すのでこの地域は穀倉化は困難な反面、建築資材の宝庫です。モスクワのガイドのボンさんは、ロシアの世界遺産のことを「セッカイイサン」ともじっていましたが、この「セッカイ」は「石灰」を意味しております。我々は、午前にウラジーミル、午後にスーズダリでこれらを観光しました。

キリスト教徒でない日本人が欧州を観光すると、やたらに聖堂、寺院、教会、修道院が多く街中に大規模に建てられているのに面食らうことが多々あります。特にロシアではその殆どの聖堂、寺院が玉葱ドームになっており、このウラジーミル・スーズダリ地区ではあちらこちらに玉葱ドームが見受けられます。その最たるものが本頁冒頭と下に掲載するウスペンスキー大聖堂です。

ウラジーミルのウスペンスキーウスペンスキー大聖堂

ウラジーミル1世が988年ビザンチン帝国の皇帝の妹と結婚しギリシア正教を取り入れて以来、ロシア正教の建物にビザンチン様式が取り入れられるようになりました。玉葱ドームの起源はピザンチン帝国時代の537年に完成したアヤ・ソフィア大聖堂です。ロシア正教では葱坊主は火焔を意味し、教会内での聖霊の活躍を象徴すると言われ類似の要素を異なるサイズで反復させることで絶妙な美しさを醸し出すことからドームの数を増やしたり形状を変えることが盛んに行われたようです。 ウラジーミルのウスペンスキーウスペンスキー大聖堂の葱坊主も当初の1個が5個になtっております。

以前、トルコ旅行した際にイスタンブールで撮ったアヤソフィア大聖堂

ウスペンスキー大聖堂は1158年に建造され14世紀までロシア大聖堂の最高位にありました。ウスペンスキーの日本語訳は、カソリックでは「生神女被昇天」ですがロシア正教では「生神女就寝」で、ここにも十字軍戦争以来反目しあっているカソリックとロシア正教との違いが垣間見られます。生神女は聖母マリアのことで、カソリック、ロシア正教に共通しております。

天使ガブリエルがマリアのもとに現れ、マリアが3日後に永眠することを告げます。永眠することは天に昇ることに通ずることから、カソリックでは「被昇天」としておりますが、ロシア正教ではマリヤが「死んだ」ことを強調しながら、しかしすでに復活が先取りされていることも強調します。「就寝」という言い方には、この「死」と「復活」の二つの意味が込められていると言われます。

下の画像は、ウラジーミルのドミトリエフスキー聖堂です。大聖堂ではないのでウスペンスキー大聖堂より格下で葱坊主も一つしかありません。12世紀末、ウラジーミル大公フセボロド3世により建造され、外部の白壁には聖人の伝説などを主題とするさまざまな浮き彫りが施されていることで知られております。

ウラジーミルのドミトリエフスキー聖堂

ドミトリエフスキー聖堂の外壁に彫られている聖人の伝説

ウラジーミルの街そのものは1108年にウラジーミル・モノマフによって創建されました。彼はロシアにキリスト教を受け入れた前述のキエフ公国ウラジーミル1世の曾孫にあたります。因みにウラジーミル・モノマフの子、ユーリー・ドルゴルーキーが1147年にモスクワを建設しているので、ウラジーミルはモスクワよりも古い街ということになります。

「黄金の門」は、ウラジーミルの正門です。「黄金の門」はユーリー・ドルゴルーキーの子、アンドレイ・ボゴリュプスキー公によって1158年から1164年にかけて建設されました。キエフにある黄金の門を基にして建てられました。門の上にはリゾパラジェーニエ礼拝堂があります。

ウラジーミルの黄金の門

ウラジーミルの観光を終えて、ボルシチの昼食をとってからウラジーミルの北40kmにあるスーズダリに向かいました。人口1万余の小さな街ですが、後に新興のウラージーミルに譲るまで11世紀にはロストフ・スーズダリ公国の首都として、北東ルーシ諸公国の雄として君臨しておりました。街の中枢となっていたのがクレムリンで、モスクワのクレムリンのように石やレンガの城壁ではなく下の写真のように土塁としてしか残されておりません。「夏草や強者どもの夢の跡」を思わせるような情景でもあります。

ス−ズダリのクレムリンの土塁と空濠の跡

スーズダリは、15世紀にモスクワ公国の一部となってからは宗教的中心地となり、50もの修道院、教会、聖堂等の宗教施設が建設されております。我々はこの中からスパソ・エフフィミエフ修道院、リザパラジェンスキー修道院(聖母生誕大聖堂)、ロヂェストヴェンスキー聖堂等を見学しました。あれだけの地域の中によくぞあれだけの数の教会、修道院、聖堂等が建てられたものと感嘆しきりでした。

スパソ・エフフィミエフ修道院の煉瓦の塀を外から観る

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