−日記帳(N0.1224)2012年10月31日−
ロシア旅行第4日(セルギエフ・ポサド)
−日記帳(N0.1225) 2012年11月01日−
ロシア旅行第5日(サンクトペテルスブルグ)


トロイツェ・セルギエフ大修道院内のウスペンスキー聖堂

エルミタージュ美術館内、大使の階段


私は貧乏育ちで、寒い時部屋に居ても厚着して過ごしているため冬でも室温を22度C以上にすることは滅多にありません。ところが、昨晩のホテルの部屋の室温は25度Cでした。この温度では汗が滲むほどに暑さを感じますので室温調整を試みたところ全く効きません。止むなく窓を少し開けて就眠したため夜中に何回か目を醒ましやや睡眠不足のまま6時半頃起床しました。

ホテルを専用バスで出発し、約200kmの道を4時間かけてウラジーミル、スーズダリ等とともに黄金の輪の一角をなすセルギエフ・ポサドの街に行きました。今日が今回の旅行で行動上で最も楽な日程となっており、これが高齢の私がこのプランを選んだ理由のひとつになりました。明日は待望のサンクトペテルスブルグに行くのですが、他の殆どのプランではモスクワから寝台夜行列車で行くことになっております。

モスクワ23時59分発、サンクトペテルブルグ翌朝8時00分着の寝台夜行列車「赤い矢号」は豪華列車で人気が有るようですが、やや不眠症気味の私は寝台夜行列車は苦手で、以前トルコ旅行で車両の振動で寝付けなかったことで懲りていることから、今回の空路のプランを選んだわけです。

モスクワ駅に停車中のサンクトペテルブルグ行き寝台夜行列車「赤い矢号」

この空路プランでは今日のセルギエフ・ポサドでの観光は僅か1時間程度にとどめ、午後から2時間かけてモスクワに戻り夕食をとってから8時15分発の国内便で今晩中にサンクトペテルブルグに着く高齢の身に優しい行程になっているからです。しかし、サンクトペテルブルグのホテルに着くまでに、これまで経験もしたこともないトラブルに遭遇することは知る由も有りませんでした。このことは後に触れます。

セルギエフ・ポサドでは首都モスクワから北東へ90kmの地点に在り、ロシア正教会において最も重要な聖地の一つでその建物もロシア正教の歴史的な建造物を代表しております。、その中心にトロイツェ・セルギエフ大修道院(聖セルギー三位一体修道院)が在ります。森の中から突如としておとぎの国が現れる感じで、例によって金色、青色の美しい葱坊主のウスペンスキー聖堂が印象的です。

モスクワに近いラドネジに住んでいたことからラドネシスキーと呼ばれた修道士が、より神に近づける平安の地としてマコヴェッツ丘の深い森を選び、ここに「トロイツェ=至聖三者」を記念して建立しました。彼の徳を慕って弟子入りする修道士が続出しやがてここに修道院が誕生するとその院長に選ばるなどしてロシア正教有数の指導者となりました。

ここで「至聖三者」とは、「父」と「子」と「聖霊」が一体となって唯一の神となるとの「三位一体」の正教での用語です。ラドネシスキーは、没後、聖セルギーと呼ばれるようになり、モスクワ大公国のイワン3世(大帝)とイワン4世(雷帝)等が、セルギエフ・ポサドに数々のロシア正教の建物を建設し結果、全長1.4km、高さ15mの防壁の中に、食堂付属セルギエフ聖堂、ウスペンスキー聖堂、トロイツキー聖堂、スモレンスカヤ教会や五重の鐘楼などを有するトロイツェ・セルギエフ大修道院が形成されました。

トロイツェ・セルギエフ大修道院内の五重の鐘楼

トロイツェ・セルギエフ大修道院内のトロイツキー聖堂

ウスペンスキー聖堂内の壮大なイコン

イコンのひとつ

大主教の棺

鳩の群れと戯れる親子

見学を終えて午後3時過ぎに、セルギエフ・ポサドの街に別れを告げてモスクワまでバスで約70kmの道のりを移動しました。実は、今日の昼食をセルギエフ・ポサドの街のレストランで摂った際、ちょっとしたハプニングが有りました。昼食のボルシチを食べ終えてトイレに向かう途中、下の写真にあるようにレストランのメニューが珍しく英語で書かれておりましたのでカメラに収めてからトイレに入りました。

セルギエフ・ポサドで昼食を摂ったレストラン

トイレ室に入り十字状の錠を水平に倒して扉をクローズにし、用足ししてからこの錠を垂直に戻して扉を開けようとしたのですが開きません。錠をいろいろな 位置にしてもビクともしません。やむなく身体ごと体当たりして錠を壊そうとしたのですがそれでもビクともしません。大声で喚く私の声を聞き付けたツアー同行の男性(上の写真で青い服の方)が店のヒトを呼んで下さり何とか脱出できました。私の錠前操作が不充分だったのか錠前が壊れていいたのか、今になっては判りません。トラブルはまだまだ続きます。

モスクワに着き夕食を済ませてから、シェレメーチエヴォ国際空港20:15発のサンクトペテルブルグ行きのアエロフロート・ロシア航空・国内便SU-026に搭乗すべくセキュリティーを終えて搭乗口でのパスポート検査を受けたところ、私のパスポートを睨みつけるように見ていた女性検査官が手の動作で横の通路に行くよう指示しました。すると別の女性が私を別室に案内しました。別室に入ると3人の男性が座っておりました。

彼等は微笑を浮かべながら何やらロシア語を話しておりましたがその語調と、案内した女性が部屋から出るような仕草をしていたことから無罪放免と理解し同行のみなさんがいる待合室に移動しました。添乗員さんに聞いたところ、「バウチャー制度」による抜き打ちの査察で、よくあることですから心配要らないとのことでした。それなら、そのような査察が有り得ることを事前に説明して欲しかったと言いかけましたが堪えました。

「バウチャー制度」は旧ソ連時代の名残りで、外国人のロシアでの自由旅行を妨げている悪名高い制度です。観光目的でロシアに入国するにはビザが必要で、ビザを取得するにはバウチャーと現地旅行会社からの「受入確認書」が必要となり、今回のようなツアー旅行では旅行会社が代行してくれます。この場合のバウチャーとは、ホテルや交通機関の予約とその支払証明書を指します。このバウチャーが正しいかどうかチェックするために今回のように抜き打ちの査察が行われたものと理解しました。

レストランでトイレに閉じ込められ、空港で強制連行されるなど、散々な目に遭いましたが、トラブルはまだまだ続きます。こうして漸くSU-026の搭乗ゲートに行くことができたのですが、周りに同行のツアーのみなさんの姿が見当たりません。ゲートの二桁の数字は間違っていなかったのですが次のアルファベッドのDを見落としておりました。改めてそこに行くとみなさんの姿が見られホッとしました。

ところが定刻になっても搭乗手続きが始まりません。添乗員さんが、このまま遅れ続けるとサンクトペテルブルグのホテルインが深夜12時過ぎになる恐れが有ると心配しはじめました。それでも、約1時間近く遅れてSU-026便は離陸しました。AIRBUS-A320の3-3席で、津売る側に妻、窓側に若いロシア人男子、私がその中央の席に座りました。1時間半の旅ですので、ほどなくドリンクサービスが始まりました。

3人ともコーヒーをオーダーし、飲み終えた妻がトイレで席を離れました。飲み終えた紙コップの回収にきたCAさんに3人分の紙コップを重ねて渡す際にCAさんが手荒に取り上げたため残っていたコーヒーが妻の座席に零れ落ちシートを濡らせてしまいました。しかし、そのCAさんは一言も発することなく平然と立ち去っていきました。少なくとも日本では絶対に有り得ないシ−ンです。

座席シートは安っぽいビニル製ですので拭き取れば済むことですが、当然CAさんが拭き取りにきてくれるものと思いそのままにしておきました。零されてから数十秒ぐらいして反対方向からきたCAさんに、隣のロシア人がこの様子に憤慨したらしく激しい口調のロシア語でビニルシート席を指差しました。CAの控室に戻ったそのCAさんが布巾で丁寧に拭き取ってくれましたが酷い対応です。座席にビニルシートを採用するのもこのような不手際への対策なのかも知れません。

結局、サンクトペテルブルグのホテルに着いたのは深夜の12時過ぎで、スーツケースを整理して入浴し、空腹を満たすべくカップ麺を食べてからヘネシーXOを飲みながら、ロシアに来て初めて視聴したNHKの国際放送を観て就眠したのは午前2時過ぎでした。酷い一日でした。


いよいよ、今日から待望のサンクトペテルブルグの観光です。サンクトペテルブルグはモスクワの北西約600qのバルト海に面するロシア第二の大都会で、かってはロシアの首都でもありました。第2次大戦でドイツ軍に包囲された当時はレニングラードと言われておりました。ピョートル大帝の治世下で街造りが本格的に行われ、エカテリーナ2世の治世下でエルミタージュ美術館等の豪華な文化施設が造られました。

サンクトペテスブルグの衛星画像

サンクトペテルブルグはバルト海を隔てて当時の強国、スウェーデンに面しており、スゥエーデンと対戦する際には重要な戦略拠点でありここに港湾や要塞を作る必要性が有りました。また、ネヴァ川を辿ることで白海、ドニエプル川、ヴォルガ川と結ばれ黒海、カスピ海にも通ずることからも交通の要所でもあり、どうしてもここに 街造りすることはこの地域を支配する者にとって宿命的課題となっておりました。

モンゴルの脅威の次の脅威は西側のヨーロッパの強国からの侵略、特にスウェーデンに対してはピョートル大帝がデンマーク、ノルウェー、ザクセン、ポーランド等と反スウェーデン同盟を組んで大北方戦争(1700年-1721年)を起こし、少なくとも東方、北欧からの脅威を解消しロシア帝国は東ヨーロッパで確固た地位を築いたものの、1917年の2月革命によって栄華をを誇ったロマノフ王朝は幕を閉じることになります。

その過程で、このサンクトペテスブルグでは多くの歴史的事件が起こりました。今日はその歴史的事件に関与した建物や史跡を巡る観光をすることになりました。昨日は酷い目に遭った上、ホテル到着が深夜になり就眠が午前2時でしたが、今朝のホテル出発が9時と遅かったので充分休養をとることが出来ました。バスで青銅の騎馬像、聖イサク寺院、カザン聖堂、デカブリスト広場、血の上の教会を観光しました。

サンクトペテルブルグ観光スポット

ネヴァ川左岸の元老院広場(ソビエト時代のデカブリスト広場)にピョートル大帝の騎馬像が建てられております。エカテリーナ2世の命により1770年に開始され、おもにフランスの彫刻家エティエンヌ・モーリス・ファルコネによって作られ、1782年に完成しました。台座の右側にラテン語で“PETRO primo CATHARINA secunda MDCCLXXXII”左側にロシア語で“ПЕТРУ перьвому ЕКАТЕРИНА вторая л?та 1782”と彫られております。“ピョートル1世へ エカテリーナ2世 1782年”の意味です。

青銅の騎馬像

この偉大なピョートル大帝の崩御は意外でした。1724年11月頃、大帝はネヴァ川河口に乗り上げた船の救出に自ら参加して体調を崩し重い膀胱炎を患い、その結果 尿閉塞を起こしました。翌1725年1月23日、英国人医師が穿刺法による手術で2リットル近い尿を取り出して一命を取り留めたものの、1月28日冬宮の広間で元老院と宗務院の議員、廷臣、近衛士官、海軍士官等に見守られながら53歳の生涯を閉じました。

ピョートル大帝は1698年、妻のエヴドキヤ・ロプーヒナをスーズダリの女子修道院に幽閉し、ドイツ人でスウェーデンの竜騎兵と結婚し大北方戦争でロシア軍の捕虜となりロシアの将軍の召使いだったエカテリーナを気に入り1707年に内妻、1712年に結婚し皇后としました。大帝の死は時間の問題でしたのでその跡目を巡って、有力大貴族が推す大帝の孫と新興勢力が推す皇后エカテリ−ナが対立しておりました。

大帝が崩御した当日、皇后側についた近衛部隊が元老院を押さえ、皇后は同日中にエカテリーナ1世として即位しましたが2年後の1727年に崩御すると跡目を巡った大帝の孫がピョートル2世として12歳で即位しました。大貴族たちは幼い皇帝を傀儡にして実権を握っているうちに、ピョートル2世は悲運にも1730年結婚前夜、天然痘で崩御し14年の短い生涯を閉じました。

実権を握る大貴族たちは大帝の姪アンナを帝位を継がせた結果、ロマノフ王朝の男系男子の血統は絶えました。アンナは治世中、軍隊の支持を受けるピョートル大帝の娘エリザヴェータに帝位を奪われるのではと脅威を抱き、1740年8月に姪が長男イヴァンを出産すると、父イヴァン5世の直系に帝位を伝えるために1740年この新生児をイヴァン6世として帝位に就かせてしまいました。

しかしアンナがその年肝臓腫瘍で死去するとエリザヴェータは幼児イヴァン6世を廃位し自らが帝位に就きました。この結果、アンナの父イヴァン5世の直系に帝位を伝えようとした夢はもろくも崩れ去りました。エリザヴェータには嗣子が居なかったため再び帝位を父の大帝の血統に復活させえるべく、プロイセンに嫁いだ姉アンナの子ホルシュタイン公ピョートルを養子とし、ドイツの一貴族の娘で14歳のゾフィーと1745年に結婚させました。

夫のピョートルは、ゾフィーにとって母方の又従兄にも当たり、お互いにドイツ育ちのためドイツ語で存分に会話できることから格好の夫婦と思おわれたのが、夫はロシア語を覚えようとしないなどロシアに同化しようとしなかったのに対し、妻のゾフィーh名前をロシア風のエカテリーナに改め、ドイツ語を習得し、ロシア正教に改宗するなどロシアに同化に努めたことからロシアの貴族・国民に支持されるようになりました。

一方夫ピョートルはその後もドイツ風にこだわり続けて周囲の反感を買い、更にはインポテのため結婚後も長期間夫婦関係が無かったことから、子種を心配した姑の女帝エリザヴェータはエカテリーナの浮気を黙認する姿勢を示し、半ば公然とエカテリーナは多くの男性と関係を持っていました。漸くインポテの手術が成功して夫婦は関係をもうけて1754年に後の皇帝となるパーヴェル1世を出産(但し父親は浮気相手)しました。しかし、お互いに浮気しあい、性格、趣味の不一致などから夫婦生活は破綻しておりました。

そんな中、1762年にエリザヴェータ女帝が死去すると、夫はピョートル3世として即位、エカテリーナは皇后となりました。ピョートル3世は、母国のプロイセン王フリードリヒ2世の信奉者だったことから七年戦争でロシア軍がプロイセン領内に侵攻してフリードリヒ2世を追い詰めたのに講和条約を結んだり、皇后エカテリーナを廃し、愛人のヴォロンツォーヴァを皇后に据えようとしたり、自らがルター派信者だったためロシア正教会に弾圧を加えたりしたため、ロシア全土から怨嗟の声が高まり、エカテリーナ待望論が巻き起こりました。

1762年7月エカテリーナは、近衛連隊やロシア正教会の支持を得てクーデターを敢行したところ、近衛連隊以外の軍隊、反ピョートル3世派の貴族等がはエカテリーナ側に付いた上、ピョートル3世側の重臣達を咎めなかったことからクーデターはほぼ無血で成功しました。ピョートル3世は僅か半年で廃位・幽閉され、間もなく妻のエカテリーナ黙認のもとで何者かに暗殺されてしまいました。

本来なら、ここで即ちに女帝エカテリーナ2世誕生といくところでですが、ロマノフ王家の血統を引かないどころか、ロシア人の血を引かないエカテリ−ナの女帝即位には疑問の声も有りましたが、早くからロシア風土に同化し正教に改宗しかつクーデターで男勝りの底力を示したエカテリ−ナを評価する声が高まり、結局1762年9月、モスクワで盛大な戴冠式が行われエカテリーナ2世が誕生しました。モスクワのクレムリンの武器庫観光でエカテリーナ2世が戴冠式で着たドレスを観ております。

エカテリーナ2世の誕生でロマノフ、ピョートル大帝からピョートル3世まで続いてきたロマノフ王家の血統は完全に途絶え、ロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ2世に至るまでエカテリーナ2世の子孫が帝位に就いたため、エカテリーナ2世以降のロマノフ王朝はロマノフ王家とは言えません。しかし、エカテリーナ2世は女帝の中で唯一大帝の称号が冠せられるほどにロシアの国力高揚に貢献しており、ロシアが女帝エカテリーナ2世を選択したことは正解でした。

エカテリーナ2世は積極的に外交を進めオスマン帝国との露土戦争、ポーランド分割などを通じてロシア帝国の領土を大きく拡大し、ボリショイ劇場、冬宮など新旧の宮殿と合わせてエルミタージュ美術館を建設して公開し世界最大の美術館にするなど多くの文化遺産を残し、ロマノフ王朝の中では在位期間はピョートル大帝に次いで34年に及び波乱万丈の生涯を送った女性でもありました。

エカテリーナ2世の肖像画(ウイキペディアより引用)

ただ、エカテリーナ2世にとって不本意だったのは、殆ど愛情を注がなかったとは言え第一子のパーヴェル1世の背信行為と暗殺死だったと思います。彼は母、エカテリーナ2世の政治を全面否定し生涯を通して憎しみ続け、皇帝ではなくピョートル3世の皇后として母の葬儀を行うなどその背信行為は凄まじいものがありました。そうした背信行為は皮肉にも近衛将校たちによるクーデターで暗殺される結果を招きました。

ピョートル大帝の誕生日の聖人である修道士聖イサク・ダルマツキーを祀ってロシア正教の聖イサク教会が建設され、1717年にデカブリスト広場に移設されましたが落雷により焼失してしまいました。 エカテリーナ2世の勅命で再建事業が開始されましたが未完成に終わり、パーヴェル1世が事業を引き継いで現在の聖イサク大聖堂がアレクサンドル1世の時代に建造されました。世界で3番目に大きく高さは100mに及び1万人以上収容できると言われます。

聖イサク寺院

18世紀後半のエカテリーナ2世時代、農民たちは貴族によって奴隷同然に扱わおりました。しかしその貴族の将校たちの中にナポレオン戦争で外征した際に農民出身の兵卒から農奴の悲惨を知る一方、基本的人権が唱えられ自由主義の西欧人々の生活を目の当たりにし、農奴制と専制政治を廃止して祖国ロシアを改革する運動を起すデカブリストと言われる将校たちが居りました。

1825年皇帝アレクサンドル1世が崩御すると嗣子が居なかったため帝位継承を巡って次弟のコンスタンチン大公と次の弟のニコライ大公(後のニコライ1世)の間で争われ、デカブリストはコンスタンチン大公に忠誠を宣誓し、ニコライへ大公への宣誓を拒否して、世に言うデカブリストの乱を起こしました。そこで、新帝についたニコライ1世は自ら政府軍を率いて反乱の鎮圧に当り、勅使として兵卒に人気のあったミハイル・ミロラドヴィチ伯爵を派遣したのに狙撃され落命するに及んで政府軍の投入しデカブリストの反乱を一日で鎮圧しました。

そのニコライ1世が1855年に崩御し、後を継いだ息子のアレクサンドル2世は農奴解放を行いましたが次第に反動化し、やがて当時ナロードニキと呼ばれていた社会運動家のテロの標的にされ、1881年3月1日行幸先から運河に沿って帰る途中、御料車に手榴弾が投げ込まれました。2人のコサック衛兵は負傷したものの皇帝は無事でした。

ところが、現場を見るために御料車を降りた皇帝の足許に別のテロリストが爆弾を転がし爆発させました。皇帝は瀕死の重傷を負って冬宮殿に担ぎ込まれましたが一時間後に崩御してしまいました。次帝のアレクサンドル3世は先帝の父のを弔うため終焉の地のグリバエードフ運河の河畔に教会をロマノフ家の資産と一般の献金によって建設を計画し13年後のニコライ2世の治世に入って完成しました。まさに、爆発で血塗れになった地上に建っていることから「血の上の教会」と呼ばれております。

血の上の教会

エカテリーナ2世が寵愛した孫のアレキサンドル1世の最大の功績は1812年のナポレオンによるロシア遠征軍に勝利したことでした。この勝利を祝ってカザン聖堂が建てられました。半円状に弧を描くコリント式列柱の回廊からなるこの聖堂はサンクトペテルブルクのロシア正教会の首座教会として観光スポットになっております。こうして、サンクトペテルブルグの歴史地区の観光を終えて昼食を挟んで待望のエルミタージュ美術館の見学に移りました。

カザン聖堂

午後、3時間かけて広大なエルミタージュ美術館を見学しました。1764年エカテリーナ2世は祖国ドイツから美術品を買い取り、1775年に展示室を造ったのがエルミタール美術館の起源となりました。1863年に一般公開され、1917年のロシア革命後は貴族から没収した美術品が加わり1918年には冬の宮殿も統合する計画が決定され第二次大戦後にこの計画が完了しロマノフ王朝歴代皇帝の宮殿からなる建物と300万点を超える所蔵作品が見事に調和する現在の世界最大のエルミタージュ美術館が完成しました。

見学の対象は16世紀から20世紀のヨーロッパ絵画ですが見学時間の3時間を有効に使うために終始ガイドさんに附いて見学しました。フラッシュ禁止の上、後方の灯りが反射したりして良好な画質が得られませんでした。残念ですが自分で撮った画像をアップするのことを断念しウイキペディアの「エルミタージュ美術館」をお借りすることにしました。

後方の光が反射して映っている(私のデジカメ画像)

以上の事情から、私が見学した作品の画像をウイキペディアから引用、掲載させて頂きコメントを付記させて頂きました。名画に接した感動を忘れないように記録するため、日記として相応しくありませんが敢えてこのようなアップをさせて頂きました。どうぞ、ご容赦下さい。

名画集(1)ダ・ヴィンチ、ラファエロの作品計4点 
名画集(2)ティツアーノ、レンブラント、ゴヤの4点
名画集(3)モネ、ゴッホ、セザンヌの6作品

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