−日記帳(N0.302)2002年08月22日−
カレーライスの思い出

小さい頃、母の「今晩はカレーライスだよ」との声が未だに耳の片隅に残っているような気がするのです。 当時は食糧事情が悪くカレーライスは高嶺の花でした。私は田舎街に住んでおりましたから、当時近隣では唯一の百貨店だった静岡の松坂屋に両親に連れていってもらうことが楽しみのひとつでした。

そこの食堂で食べたカレーライスが美味しくて忘れられず、母にまた連れていってくれるようにせがんだのですが、年に1、2回しか行けないことが判っている母が何とか私にカレーライスを食べさせようとして、見よう見まねでカレーライスを作ってくれたのでした。

当時は、インスタントカレーは有りませんからカレー粉を何とか入手したもののスパイスも牛肉は入手できなかったらしくジャガ芋だらけの黄色っぽいルーに醤油をかけて食べたものですがそれでも私には大変なご馳走だったので、夕食がカレーライスと告げる母の声を聞くと嬉しくて気もそぞろだったからです。 以来、カレーには醤油をかけるものだと思い込みある時レストランで醤油をかけてコックさんに注意されたことを覚えております。

「貧乏人はカレーを食え」と放言して物議をかもした首相がおりましたが、私にはその意味が分かりませんでした。 ただ、かっては高級西洋料理だったカレーライスを大衆料理にしたのは、あの阪急電鉄や宝塚歌劇を創設した小林一三さんと言われております。

当時百貨店と言えば三越・高島屋・大丸等が有名でしたが元は呉服屋だったため高級店というイメージが有り、これらの老舗に対抗するため小林は思い切った大衆路線を取り、その一環として阪急百貨店梅田本店大食堂で手頃な値段で豊富なメニューを取り揃え一般庶民の来店を促したのでした。

この大食堂の目玉がカレーライスであり、他の一品料理類が三十銭だった時代にカレーライスは十銭だったためカレーライスは一気に大衆料理の仲間入りしたのでした。1929年の百貨店開店に先だって渡欧し旅の戦中で食べたカレーライスの味が忘れられなかったのがそのきっかけだったと言われております。 以来、カレーライスは大阪の名物料理になり、信じられない話ですが、内閣調査室の統計によれば、日本のカレー屋の63%は大阪府内に集中しているとのことです。

カレーには種々の肉・野菜・スパイスが使用されるため栄養素が幅広く含まれた完全食品ですから、食糧難だった第二次世界大戦でも敵国の食べ物だということで殆どの洋食が姿を消したのに軍用食品としてのカレー粉の製造は続けられ「辛味入汁掛飯」と呼ばれながら活躍したと言われます。

貧乏人にカレーライスを推奨した時の首相は安価にして栄養豊かなカレーライスを見抜いての発言と思えばそれほど悪い気もしません。ただ、残念なことにその阪急百貨店梅田本店大食堂が8月19日で73年の歴史の幕を閉じたことです。私は今でも黄色いルーに醤油をかけて食べた、母のカレーライスをもう一度食べてみたいと夢見ております。
−日記帳(N0.303)2002年08月23日−
日本海の名が消える?

来週の8月27日から10日間にわたって、第8回国連地名標準化会議が開催されます。 この会議がにわかに脚光を浴びるようになったのは、韓国側が「日本海」の呼称を「東海」に変えるよう求める議題を提出するのが確実なことが判ったためです。

韓国は、かねてから「”日本海”は日本の植民地政策の一環として押しつけられた結果、国際的に普及した名称で、「東海」と呼ぶべき」と主張しておりますが、海上保安庁は8月14日付けで、「日本海の名称は日本が鎖国していた19世紀前半には国際的に定着していることから、韓国の主張は歴史的に誤っており「東海」の名称は認められない」としております。

世界の海峡、湾、岬等、海に面している地理の名称はその海を介して複数の国々が関与するため、その名称を巡って国際問題になる場合がありますので、国際水路機関(IHO)がこれを調整しており、この「日本海」についても、韓国側の提訴を受けて、手引き書から「日本海」を抹消し正式名称は日韓で政治的に決着すべきとの最終案を加盟72カ国に提示し、郵便による投票(平成14年11月30日〆切)によってその是非を問う意向をしめしております。

これに対して、海上保安庁は加盟72カ国に対し、最終案に賛成しないよう働きかけており、今回の会議にもこの方針に基づき代表団を派遣して徹底的に争う構えですが、この会議には呼称問題の裁定権はないもののここで勧告決議されると上記の国際水路機関の最終案の投票に大きな影響を与えますので日本にとっても正念場になりそうです。

日本海と言う名称は、古くはイエズス会の宣教師が作成した古地図に記載されており、国際的に日本海の呼称が明確に記されたのは1737年発行の「世界大地図帳」に収録されているマチアス・ソター編の日本地図で、日本海には「MER DU NORD DUJAPON」とあります。

以後世界周航の途次日本海を探検して宗谷海峡(ラペルーズ海峡)に名前を残したフランスの探検家ラペルーズの1787年の「日本周辺図」、1792年の司馬江漢による「地球全図」、また、1806年の奉使日本紀行の「世界総図」に「日本海」の呼称がみられます。

日本海の呼称が広く世界に通用するようになったのはロシアの提督クルゼンシュテルンが1815年に出版した「世界周航記」の中で日本海が「ヤポンスコーエ・モーリエ」と記されてからと言われております。 1863年発行のイギリス海図には「日本政府の公認資料により編集された」と注記されて、日本海には「SEA OF JAPAN」の記入があります。

以上の歴史は、韓国の言う日本の植民地支配が及ぶ以前であるのは明確で、教科書問題で真実の歴史の重要性を訴える韓国らしくない歴史錯誤と思われます。日本海の範囲は北界をサハリン西岸の南端から対岸のロシア東岸に引いた線、南界は九州西岸から済州島をとおり朝鮮半島西岸端に引いた線で、ユーラシア大陸と日本列島に囲まれた海域としておりますので、日本海に接する海岸線の総延長線は日本が最大となりこの点からも日本海は妥当な呼称と思います。

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