古代エジプト王国の歴史(2)
古王国時代(BC2686〜BC2181頃)

エジプト文明の基礎はこの古王国時代の第3王朝から第6王朝の500年間で作られたております。散在していた集落が中央集権制のもと一つに纏められ、王様が現人神になって多くのピラミッドが首都のメンフィス周辺に作られたのもこの時代です。その後の新王国時代の壮麗な繁栄、中王国時代の現実に根ざした堅実な繁栄とも異なった神話と現実の歴史との狭間に存在していた王国と言えます。

第3王朝の実質的な創始者はジェセル王で、最初のピラミッドとして「階段ピラミッド」を作ったことで知られております。その大きさは日本の国会議事堂に匹敵し、世界最古の石造建造物でもあります。第3王朝最後のフニ王の時代になると、ピラミッド作りが王のライフワークのようになり、フニ王の息子のスネフェル王はメイドュムに「崩れピラミッド」、ダハシュールに「屈折ピラミッド」「赤のピラミッド」を相次いで建設しております。

「崩れピラミッド」については諸説有りますが、ドイツの物理学者のクルト・メンデルスゾーンが1974年に発表した、一度として完成することなく工事の最終段階でピラミッドが崩壊したとの「未完成説」が有力のようです。 「屈折ピラミッド」は途中で四角錐の勾配が変わっていることに特徴が有り、複合説、重量過大説、工事期間短縮説、重合説等が有りますが定説は有りません。「赤のピラミッド」は完全な「正三角錐」の形を今に残す最も古いピラミッドで、勾配が他のピラミッドに比べて緩やかなのが特徴です。他のピラミッド建設の教訓を生かしてこのような緩やかな勾配になっている、というのが定説です。

しかし、本格的なピラミッドを建設したのはスネフェル王の息子のクフ王、孫のカウラー王、曾孫のメンカウラー王で、実に4代、100年にわたって6基のピラミッドが建設され、特にクフ、カウラー、メンカウラーによるものはギザの三大ピラミッドとしてエジプト観光の目玉になっております。この中で最大のクフ王のピラミッドは1日の入場者が300人に制限されているため、エジプト旅行する場合は予め観光の可否を確かめておく必要が有ります。今回は現地ガイドのコネで入場可能との言葉を信じ申し込んだのですが果たして入場できるでしょうか。

この三大ピラミッドは、いずれも重量で陥没しないように丘陵の削られた岩盤の上に、オリオン座の三つの星の位置、大きさに似せてその四角錐の角が東西南北になるように作られております。エジプトには80以上のピラミッドが有りますがやはりこの三大ピラミッドが大きさ、美しさで抜きんでており、その形と大きさは次の通りです。尚、クフ王のピラミッドの大きさを実感する例えとしてそこに使われている石材の総重量が日本全国民の体重の総重量にほぼ見合うと言う話が有ります。

 建設者   一辺の長さ  高さ  傾斜角   
 クフ王     230m     146.0m  51.5度
カフラー王    215m     143.5m    58.8度
メンカウラー王  109m      66.5m    51.0度
クフ王のピラミッドは現存するピラミッドでは最大かつ世界最大の石造建築です。パリのエッフェル塔ができるまでは現世界一の高さを誇る建造物でもありました。カフラー王のピラミッドはクフ王のピラミッドより高台に建てられておりますのでクフ王のピラミッドより高く見えます。保存状態がよく、傾斜が鋭く、化粧石が上部に残っていることもあって最も美しいピラミッドと言われます。尚、いずれのピラミッドも石灰岩を磨いた化粧石で覆われていましたがモスク建築のため持ち去られ、今ではカフラー王の頂上付近にわずかに残っているだけです。

メンカウラーのピラミッドだけが三つの中で抜きんでて小さい上に、他のふたつのピラミッドが稜線が同一延長線上にあるのに対して大きく外れていることが謎とされておりましたが最近の学説で解き明かされてきました。いずれにしてもピラミッドの謎を解くのにはピラミッドの建設目的を明確にしておく必要が有ります。

・公共事業説→雨期のナイル川氾濫による農地冠水の失業対策
・堤  防  説→ナイル川の洪水対策
・神  殿  説→イシス神の碑文が発見されているため
・天 文 台 説→4辺が正確に東西南北の方向を向いているため

そのいずれとしてもピラミッド建設に携わった人たちが労働を終えてからパンを食べビールを飲んだりしたことが記録に残っていることからして奴隷のように強制労働させられたことはないようなので、公共事業説が有力のように思います。 しかし、どうしてあのような大きな石を石切場から運び、現地で積み上げたかは依然として謎のままです。

ただ、石切は石に切り込みをつけてそこに木のくさびを打ち込み次にくさびを水で濡らすことでくさびが膨張して自然に石が割れる原理を応用していることが判っております。尚、昭和53年にゼネコンの大林組がクフ王の ピラミッドの建設を受注した場合の見積りを大型ヘリ、クレーン、トラックを駆使して順調に巨石群を運搬し設置したときの概算で、当時の金額で1250億円、工期5年としておりますので、現在ならまさに1兆円規模の一大事業になります。

この時代の王たちは太陽神宗教と強く結く一方で、太陽神宗団が勢力を増大し、王権と宗団の対立抗争が深刻化するなかでピラミッド建設全盛の第4王朝はその幕を閉じ、第4王朝に移行していきました。第5王朝のファラオはすべて「太陽の子」と称し、太陽神ラーの信仰は絶頂に達し、ヘリオポリスの神官は未曾有の繁栄を誇りました。

王たちは太陽神の神殿を造り莫大な寄進を行ったため資金不足から自らのピラミッドは著しく小さくなり、王たちの威信は低下していきましたが、第5王朝末から第6王朝にかけて、ピラミッドの内部の部屋や通路の壁にいわゆるピラミッド・テキストが描かれるようになりました。第6王朝になると、地方の豪族や知事が強力となって、最後には中央政府が崩壊し、エジプトは小国割拠の状態に再び戻り、第一中間期の暗黒の時代に向かっていくことになります。
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