古代エジプト王国の歴史(6)
新王国時代(BC1565〜BC1070)

古代エジプト3000年の歴史の中でこの新王国時代の500年が最も華やかで最も多くの遺跡が残っていると思います。それだけに我々に語りかけるものが最も多く、今回の旅行の目的もそうした数々の遺跡、遺品をこの目で確かめることで往時を偲び事前に描いておいたイメージとの融合を図ることにあります。

異民族王朝ヒクソスを倒すために壮絶な死を遂げた父タア2世と兄カメス王を目の当たりに見ていたイアフメスは、ついにヒクソスとの戦いに勝利して仇を討ち南のヌビアも再征服してエジプト再統一に成功し王都をテーベに定めて第18王朝を興しました。近年、発見されたタア2世のミイラの頭部のX線写真には凄まじいばかりの傷痕が残っており、当時の王たちのヒクソス打倒に賭ける思いが偲ばれます。

テーベの王が全土を掌握したことからテーベの守護神アメン神が最高位の神になり、その巫女のイアフメスの王妃、ネフェルトイリが「アメンの神妻」という地位につき後々に大きな影響を与えます。 その子のアメンヘテプ1世は、アメン神の御座としてカルナック大神殿を造営に着手し、後の歴代のファラオたちがこの神殿の部分部分を次々と作り、最も偉大な礼拝堂として知られ、また付随する小さな神殿として、メンチュ神の神殿アメンの神・ムゥト女神の神殿、月の神でアメンの息子のコンスの神殿等とともに遺跡として残っております。

次のトトメス1世はヌビアの反乱を抑え、更に北シリアに勃興したミタンニを牽制するべくアジアに遠征し、両軍はユーフラテス河畔で遭遇しましたが、トトメス1世の優位に終わり、多くの戦利品をエジプトにもたらしました。王は遠征の成功をアメン神に感謝して、テーベのカルナック神殿に土地などを寄進し拡張工事を行いました。アメン神に遠征の成功を祈願し感謝して行われるこのような寄進と増改築工事は、以後慣例化し後にアメン神官団が強大になる一因ともなりました。

トトメス1世は、墓と葬祭殿とを分離させて、テーベ西岸のワディ(涸れ谷)の山ひだに隠すように王墓を造営しました。これが「王家の谷」の始まりで、以後この慣習は、新王国時代の終焉まで歴代の王によって踏襲されました。 ハトシェプストは、父トトメス1世の側室の子、つまり異母弟のトトメス2世の王妃でしたが、夫との子に恵まれないまま早死にしてしまいその揚げ句に夫の側室の子、つまり義理の息子がトトメス3世として即位することを快く思わず、トトメス3世が幼少であるのにつけこんで摂政として王権を握りました。

王権に拘る彼女は、夫の遺言を無視してトトメス3世の共同統治者として即位しエジプト史上唯一の女王として内政や、アフリカの対プント交易などを熱心に行い国力を高めました。そして自らの王位の正当性を説くために自分が彼女の母・イアフメスが夫トトメス1世の姿を借りたアメン神と交わって生まれた子であるとの神話を作らせ、如何にもファラオらしく見せるために男装した姿で肖像を描かせております。

彼女の死後の世界への関心が強く、存命のうちにデール・アル・バハリに壮麗な葬祭殿を作る程でしたが、1483年に没すると、トトメス3世が即位し、よほど彼女を憎んでいたの彼女の肖像や名前・記念物を破壊し王名表からもハトシェプストの名前を削除してしまいました。そしてハトシェプストの交易主義を撤回し対外戦争に乗り出し、主に西アジアに進出し、莫大な戦利品と広大な領土を獲得し、後世にエジプトのナポレオンと言われたように古代エジプトの領土は最大となり、後の更なる繁栄の基礎を築きました。

トトメス4世の治世の頃には、シリアにヒッタイト帝国が進出してきたため、エジプトとミタンニの間に同盟関係が成立し、以後、エジプトの後宮にミタンニなどから王女が迎えるようになりました。次のアメンヘテプ3世は遠征は1回だけで、婚姻と黄金の贈り物によってエジプトの権威と国境の保全をはかり、税収や臣属国からの貢ぎ物などを基盤にした財力で黄金時代築き上げるとともに建築活動を積極的に行いました。

アメンヘテプ4世は巨大な勢力に成長しつつあったアメン神官団に対抗して、アメン神に代わって、太陽神(特にアテン)崇拝を重視し、カルナック神殿の東側にアテン神殿を建立し、そこでアテン神のために王自身が祭祀を執り行って、アメン神官に対抗しました。

治世4年頃に、王はアケトアテン(現在のアマルナ)への遷都を決意し、新しい王都の建設に着手し、さらに自分の名前を、アクエンアテン(アテンに有用なるもの)と改め、アテン以外の神々の祭祀を禁じ、神々の名前まで削り取らせました。ここにいたって、王とアメン神官団との対立関係は決定的なものとなりましたが、アテン神の祭祀が王とその家族に独占されていたためにその信仰は一般のエジプト人達に浸透せず、結局このアマルナの宗教改革 は失敗に終わりました。

こうして、この新王国時代のファラオたちは先代達が築き上げた莫大な蓄財を惜しげもなく大規模な土木工事に注ぎ込み、貴重な遺跡を後世に残してくれましたが、こうした王族と神官団との確執は領土の支定力を弱体化させ、次代のツタンカーメン王の時から少しずつ陰りが見え始めてきたのです。

当時、エジプトと同盟関係にあったミタンニ王国にネフェルティティと言う美しい王女がおりました。 アメンヘテプ3世がこの国をを訪れた時、彼女の美しさに惚れ込み6年もかけてミタンニ国王に頼み込み膨大な黄金を積んで15歳の彼女を側室として迎えたものの、その2年後にこの世を去ってしまいました。

この時アメンヘテプ3世の第一王妃として君臨していたティイの計らいで、ネフェルティティは後継者のアメンヘテプ4世の妃になります。アメンヘテプ4世は、女好きの父と違い堅物でしたが彼女との間にメリトアテンとアンケセナーメンと言う美しい姉妹をもうけました。ところが11才の愛娘アンケセナーメンを妃にして間もなく世を去ってしまいました。

一方、アメンヘテプ3世と側室の子に、スメンクカラーとツタンカーメンと言う二人の兄弟がおりました。 アメンヘテプ4世は義弟のスメンクカラーを愛娘のメリトアテンと結婚させて義弟を共同統治者としてのファラオにしましたが義弟スメンクカラー王が早死にした翌年世を去り、ここにきて王位継承問題が起こりました。

再び寡婦となったネフェルティティは息子に恵まれなかったこともあり3才の頃から愛娘のアンケセナーメンともども我が子同然に可愛がっていた義理の弟のツタンカーメンをアンケセナーメンと婚姻させることで王位継承させることを宰相アイの協力を得て画策して実現させ、ツタンカーメンの即位2年目にその波乱の生涯を37歳で閉じました。

こうしてツタンカーメンはわずか9才で即位したものの、周囲には強大なアメン神官団そして老獪な宰相アイが目を光らせており何もできないまま18才で世を去り再び王位継承問題が起こりました。そのような訳でツタンカーメンは殆ど無名のファラオで王名表からもその名が消されていたため、1922年にカーターによって未盗掘のままその王墳が発見されるまではその存在すら知られておりませんでした。

しかし、こんな名も無いファラオの王墳に2000点を超えるあれだけ豪華な埋葬品が有ったわけですから、トトメス3世、ラメセス2世等の実力ファラオだったらどれだけ凄かったか・・・盗掘が惜しまれてなりません。ツタンカーメンの場合は無名だったからこそ、盗掘を免れたと思われますから皮肉なことです。今でも王家の谷に眠っているツタンカーメンのミイラから親子関係を特定するためのDNA鑑定等が昨年エジプト政府の意向で中止になったのは残念です。

ツタンカーメンの後継者になるためには王位継承権を持つアンケセナーメンと結婚が絶対条件であったため、後継ファラオを狙っていた宰相アイと軍司令官のホルエムヘブはアンケセナーメンを巡って対立しますが、アンケセナーメンは母方の祖父のアイを苦渋の選択の結果夫に選びました。彼女は実父のアメンヘテプ4世、年下の叔父のツタンカーメンに次いで3回目の近親結婚をしたことになります。ツタンカーメンの棺に彼女が好きだった矢車菊が供えられてあったことからツタンカーメンと過ごした10年間が一番幸せだったと思います。

しかしそのアイも老齢のため在位4年で去り、ホルエムヘブがアメン神官団の支持を得てその後継ファラオになり、 アメンヘテプ4世による宗教改革の痕跡を徹底的に払拭するため前の王たちに関係ある建造物から王たちの名前を削除し、ツタンカーメンの業績は全て自分のものとして書き換えておりますが、彼をもって第18王朝は幕を閉じます。

ホルエムヘブの部下だったパラメセスはホルエムヘブの推挙により第19王朝の初代王として即位し、名をラメセスと改めその後繁栄を極めたラメセス王朝の開祖となりましたが、即位時すでに高齢のため治世第2年に息子セティ1世を共同統治者に任じております。

セティ1世の子ラメセス2世はエジプト史上第2の在位期間67年を記録しラメセス王朝の黄金時代を築きました。 若くして父王セティ1世と共同統治を行い、シリアのヒッタイトと戦いましたが決着がつかず世界最初の国際的な和平条約を結んでおります。 彼は100歳近くまで生き多くの女性を側室としておりますが正妃のネフェタリをこよなく愛し、彼が築いたアブシンベル神殿内には彼女のためのハトホル神殿が作られ、また王妃の谷にあるネフェルタリの墓は絢爛豪華なことで知られておりますが、今回の旅行では残念ながら見学出来ません。

最後はミイラとなって王家の谷に葬られ、後に墓泥棒たちによって本来の墓所から運びだされ、狭苦しい墓泥棒の隠し場所である共同墓所に、セティ1世、アメンヘテプ1世、トトメス3世等のミイラとともに放り込まれていましたが、1881年にこの隠し場所が発見され現在はカイロのエジプト博物館に保管されております。

メルエンプタハ以降、第19王朝は次第に衰えだ後にセトナクトが王位を継承して第20王朝をたてました。その息子ラムセス3世は、侵入してきた「海の民」やリビア人を撃退しましたが給与遅配によるストライキも記録され、また王の暗殺未遂事件が起きるなどして内政は乱れていきました。ラムセスという名前の王は第11代まで続きますが、往年の栄華は再び回復することなく、王権は衰退の一途を辿っていきました。
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