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古代エジプト王国の歴史(7)
(BC1070〜BC525)

地に落ちた王の権威、王国の支配力の衰退は、再び混乱の時代を呼ぶことになり、エジプト王国には様々な人種が流れ込んで、国土は分裂、神官たちの反乱、南部の独立、王朝は乱立して、動乱と混迷の第三中間期の500年が始まりました。

下エジプトのテーベのアメン神官が独立勢力を築き、最後のラメセス11世の時期にそれに眼を付けた将軍ヘリホルがアメン神官と組みアメン大司祭の名前を貰ってテーベに独立政府を樹立しました。これがアメン神権国家です。この神権国家は下エジプトのテーベのみに支配を限ることでこれ以降の王朝と並存していきました。

ヘリホルが死後、息子ピアンキが将軍時代親しかった下エジプトの摂政将軍スメンデスに協力する形で、スメンデスが無力となった第20王朝を吸収し21王朝を建てました。 第21王朝とテーベの神権国家は相互扶助の形で、婚姻によって並存していきます。王としてもテーベのアメン神官の力は味方にしておきたいものですし、アメン神官の方も王の武力に守られていたわけです。

21王朝の最後の王プスセンネス2世が任命したリビア人将軍シェションクは、第21王朝の王女を妻とし第22王朝を建てます。21王朝と友好関係を保っていたテーベの神権国家を抑えるために、息子のイウプトをアメン大司祭として送り込み、これ以降テーベの最高権力者はリビア系の第22王朝となりました。

この第22王朝は200年ほど続きますが、その末期にテーベを中心にして下エジプトを支配する同じリビア系の第23王朝と並立していきます。その様子をヌビアのクシュ王国のカシタ王を継いだ息子のピイ王とリビア系の将軍テフナクトが虎視眈々と見ておりました。

まず、将軍テフナクトは上エジプトを支配してヌビアのクシュ王家に対抗しようというわけです。上エジプトの首都ヘラクレオポリスを陥落させました。ここには同じリビア系王朝がありましたがテフナクトはこれを追い出して23王朝を作ります。 一方、ピイ王はテフナクト王の嫌がらせに対抗して出兵すれば全エジプトを敵に回すことになるとして21年間慎重に構えた後、周到な準備の上出兵しテーベに楽に到着しました。

同じラー太陽神を信仰するヌビアです、テーベのアメン神殿で沐浴したピイ王は、そのままナイル川を下って上エジプトの首都ヘラクレオポリスを目指します。丁度ナイル川を上って来た23王朝群の軍と鉢合ったので打ち負かしてそのままヘラクレオポリスも占領し、更にメンフィスまで進軍を続けました。

メンフィスの抵抗及ばず、テフナクトがメンフィスから逃亡したのをキッカケに、ピイ王は海から一斉攻撃を仕掛けメンフィスもピイ王の手中に納めてしまいました。しかし、せっかく占領したエジプトに魅力を感じなかったのか、ピイ王はヌビアに帰還してしまいました。

邪魔なピイ王が居なくなったので服従を表明していたテフナクトが復活しました。留守に乗り込んでアレクサンドリアの近くサイスにて第24王朝を開始します。テフナクト王もピイ王も死去し、その息子同士の闘いとなりましたが、 テフナクト王の息子バッカリス王はピイ王の息子シャバカ王に破れ殺されてしまいました。

シャバカ王はテーベに新王都を建設しエジプトとヌビアを合わせた大王国の第25王朝を作りました。 ここに第21王朝から受け継がれたリビアの神権国家は終了しました。しかし、順風満帆かと思われた第25王朝も3代目タハルカ王の時にアッシリアの侵攻により壊滅的な打撃を受けタハルカ王は命からがらヌビアに戻ります。

アッシリア王エサルハドンは第24王朝の末裔でそのままサイスの司令官に任命されていたネコ1世をメンフィスの司令長官にして本国に戻ったのを見て、タハルカ王は勢力を持ち直して再びメンフィスを取り戻しました。ネコ1世の要請に応じエサルハドン王は救援に駆け付ける途中で急死したため息子のバニパル王が見事に救援を果たし再びアッシリアに帰ってしまいました。

タハルカ王の死後、息子タヌトアメン王は父の復讐を誓い再びメンフィスを取り戻しますが、またアッシリアの侵略を受け第25王朝は滅亡してしまいました。この戦いでネコ1世はタヌトアメン王と戦い相打ちで戦死していました。 そこで、バニパル王はネコ1世の息子のプサメティコスに上エジプトの統治権を与えて、アッシリアに帰りました。

後を任されたプサメティコスは、ふと南方のテーベにまだアメン女神官長として第25王朝の勢力が残っている事を思い出します。そこで下エジプト侵攻ついでに娘をアメンの最高女神官に就けました。これにより正統性を確保したプサメティコスはエジプト人による第26王朝誕生を宣言します。