プトレマイオス朝時代(9)
(BC332〜AD30)

マケドニア共和国と言っても日本では殆ど知られておりません。 バルカン半島南東部に位置する四国の1.4倍程度の国で、1991年に旧ユーゴスラビアから分離独立し、ギリシャ、ブルガリア、ユーゴスラビア、アルバニアに囲まれた小さな内陸国です。ところがこのマケドニアとギリシャは仲が悪いのです。その原因がかってギリシャ人が蔑んでいた隣国のマケドニアのアレキサンダー大王に自国が侵略され支配されたことが有るからだと言われているのです。

アレキサンダー大王はマケドニアのフィリポス二世の子として生まれ、13歳の時から3年間、高名な学者のアリストテレスを家庭教師として招き、ホメロスの詩篇、自然科学、政治学等を学んでいたことから、ギリシャの学問と芸術に誇りを持ち、この文化を広く世界に普及したいと熱望し、この思いが世界に帝国を広げる原動力になりました。

彼が20才の時、父王の突然の暗殺によりマケドニアの王となり、その2年後にマケドニア、ギリシャの連合軍約3万5千人を率いて宿敵ペルシア打倒のための大遠征に出発しましたが、この遠征には軍隊のほか民間人をはじめ自然科学の学者たちも多数従軍していて、まるで都市がそのまま移動しているような大がかりなものでした。

BC334〜323年の東方遠征により、古代オリエントを統一したアケメネス朝ペルシアを滅ぼし、ギリシアから西北インドにわたる世界帝国を建設し、東西の世界の文化融合政策を進めヘレニズム世界、ヘレニズム文化の成立のきっかけを作りましたが、大遠征からバビロンに戻りそこで熱病に罹り32歳の若さで死亡してしまいました。

僅か12年の間にヘレニズムの歴史を切り拓いていった英雄アレキサンダーの業績は賞賛されるべきものでした。そして約40年間の後継者戦争の末、大帝国を成していた地域は、ペルシア、メソポタミアから小アジアまでを領するセレウコス王国、エジプトのプトレマイオス王国そしてマケドニア王国の三つに分かれそれぞれの地でヘレニズム文化が育っていきました。

アレクサンダーの死後、エジプトの総督に任命された将軍プトレマイオスは帝国の後継争いに巻き込まれ元帝国の将軍達から攻撃され、特にBC306年にキプロス島を攻撃してきたデメトリオス艦隊との海戦に挑んだプトレマイオスは、壊滅的な打撃を受けて惨敗し、残ったわずか8隻の軍艦とともにエジプトに逃げ帰ります。しかしその後、後継者争いが一段落してプトレマイオスはエジプトの王となり、キプロス島を再占領して東地中海の制海権を獲得します。これによってエジプト王国はヘレニズム帝国中最大の富を誇る強国になりました。

プトレマイオス1世から3世までの治世は、国王が行政の頂点に君臨して、マケドニア人が、ギリシア人を地方行政官として派遣するという行政機構が整備され、厳格な土地政策のもとで、租税として納められた穀物が国庫を潤しました。特にエジプト産の小麦は安価なため、量に輸出され、首都アレクサンドリアは交易や文化の中心として栄華を極めました。

しかし、以前から東方における領土の回復を狙っていたシリア王とマケドニア王は、プトレマイオス4世の死後、宮廷におこった内紛に乗じて、ヨーロッパからアジアにかけてのエジプト領の分割に関する条約を結んでしまいました。そこは大きな利潤をもたらしていた地域だったため、エジプトにとっての痛手は大きく、エジプトがローマに支援を求めて、シリアとローマとの間に戦争が起こりました。

戦争はローマの圧勝に終わりました。これ以降もシリアのエジプト侵攻はありましたが、ローマの干渉によって挫折しました。 プトレマイオス朝の宮廷はその後も後継者問題で乱れました。特にプトレマイオス11世の治世は酷く、父がセレウコス朝と戦っている最中に財宝をコス島に持ち逃げしてしまいました。

しかし、そこでローマと戦っていたポントス王ミトラダテス6世に捕えられたものの、プトレマイオス11世は 4年後にローマ人のもとに逃亡し人質として更に3年間ローマで過し伯父のプトレマイオス9世が死ぬとローマの将軍スラの同意を得てエジプトに帰還し伯父の妃であった母クレオパトラ=ベレニケを妃とした共同統治19日目に彼女を暗殺したため、激高したアレクサンドリア市民の暴動で殺され、母子が死亡することでついに正当な直系が途絶えてしまいました。

プトレマイオス9世と愛人の子がプトレマイオス12世として即位しましたので、ここで始めてプトレマイオス王家の嫡子で ない王家が誕生しました。そして妹クレオパトラ5世と結婚し、BC65年にローマに媚びを売って60年にその王位を承認してもらいましたが、その親ローマ政策がアレクサンドリア市民の反感を買いBC58年エジプトから追放されローマに亡命してしまいました。

このプトレマイオス12世には5人の子供がおり、その2番目の子がクレオパトラ7世で、上に姉1人と妹1人、下に後に夫となる弟2人がいました。ところが長女が父プトレマイオス12世がローマに亡命している留守の間に、アレクサンドリアの人々によってベレニケ4世として女王に推挙され、前56年にポントス王国の王子と称していたアルケラオスと結婚して2人で国を統治しました。

しかしBC55年ローマのシリア総督ガビニウスの援助によりローマから派遣されたアントニウス将軍に支援されてベレニケ4世と戦って勝利し、娘のベレニケ4世を処刑してしまいます。多分この時姉ベレニケ4世の妹のクレオパトラとアントニウスが顔を合わせる機会が有ったはずでその時二人はいずれ恋に落ちることを予見していたのでしょうか。

そして、BC51年にプトレマイオス12世は幼少の長男をプトレマイオス13世にしてに王国を譲り、自分はローマに行ってしまいました。当然、王位を譲られた幼いプトレマイオス13世は当然王位につけるものと思っていたところ直ぐ上の姉のクレオパトラが邪魔をして、強引に姉と結婚させられ共同統治と言う形で実権を奪われてしまいました。

しかし、プトレマイオス13世とその後見人達は姉クレオパトラの政治介入を嫌ったため、クレオパトラは政治の舞台から遠ざけられついに王座を剥奪されてしまいました。そんな折にある事件が起こります。三頭政治崩壊の後のローマで、ポンペイウスとカエサルの間で戦争が起こったのです。ポンペイウスはカエサルに敗れ、エジプトに逃げ込んできますが、プトレマイオス13世はカエサル有利と見るやポンペイウスを暗殺してしまいました。ポンペイウスを追ってアレクサンドリアにやってきたカエサルが休養をするつもりでしばらく滞在していたのです。

それに目を付けたクレオパトラは、自分の王位奪還を懇願するため、カエサルに直訴する事を考えますが問題は、如何にして弟陣営の者に悟られずにカエサルの居る宮殿に潜入するかでした。そこで、クレオパトラは自分が絨毯にくるまり、貢物を献上するという口実でカエサルの前に運んでもらうことを考え見事に作戦は成功しました。 驚くカエサルを前に自分の境遇を語り切々と協力を懇願します。

カエサルは、頭の回転が速く勇気のあるクレオパトラに次第に心を奪われ、王位をクレオパトラに返すようにプトレマイオス13世に命じます。その後カエサルとクレオパトラは深い仲になっていきました。しかし、プトレマイオス13世側もただでは引き下がりません。密かにポティノス等、プトレマイオス13世の側近達が戦いの準備を進め、カエサルに戦いを挑みました。

カエサルは直ちにプトレマイオス13世を軟禁し、ローマ属国に援軍の派遣を要請します。ポティノス側はアレクサンドリア港に停泊している船団を出航させようとします。それを阻止するため、カエサルは船団に火を放ちます。船団は全滅し、その火がアレクサンドリア図書館にも燃え移り、数々の重要な蔵書が焼失してしまいました。マネトのエジプト史もこの中にありました。そして、戦いの最後には、王宮から追放されたプトレマイオス13世率いる反乱軍はローマ軍に敗れ、プトレマイオス13世はナイル川で溺死してしまいます。

カエサルの力をかりて弟王プトレマイオス13世を滅ぼし、 BC47年アレクサンドリア戦争を経て,弟プトレマイオス14世を共同統治者とし、王位を確立。 BC46年カエサルを追ってローマにおもむき,おそらくカエサルの子と思われるカイサリオンを産みました。 一方、クレオパトラの妹のアルシノエはアレクサンドリア戦争でクレオパトラに抵抗してエジプト軍に加わったためローマ軍に捕えられ、カエサルによってローマに連行され凱旋行進で市内を引回された後 その後、小アジアのエフェソスのアルテミスの神殿に身を寄せておりましたがクレオパトラの要求によって.アントニウスによって暗殺されました。

BC44年カエサルが暗殺されたのでエジプトに帰国して弟のプトレマイオス14世を暗殺し、実子プトレマイオス15世カエサリオンを共同統治者とし、BC41年アントニウスの命でキリキアのタルソスにおもむき,そこでアントニウスの心をとらえた。 BC40年、アントニウスの子アレクサンドロス=ヘリオス、クレオパトラ=セレネの双子を出産。 BC33年にはアントニウスと正式に結婚。 アントニウスは彼女にフェニキア、ユダヤ、クレタ等のローマ領を贈りBC34年には『大プトレマイオス帝国の宣言』をし彼女を「諸王の女王」としました。

その間ローマではオクタウィアヌス(アウグスツス)が元老院でアントニウスを弾劾しクレオパトラに対し宣戦を布告しました。クレオパトラに現を抜かしてローマの財産を食い物にしているアントニウスに対して元老院も批判的だったため、 アントニウス打倒の布陣が出来上がっていったのです。

BC前31年のアクチウムの戦いに敗れ、翌年オクタウィアヌスにアレクサンドリアを占領され、クレオパトラ死亡との誤報に悲観したアントニウスは自殺、その自殺を伝え聞いてもはやこれまでと覚悟し、市内に引き回される前に毒蛇に自らの乳房を咬ませて自殺したと伝えられております。息子のカイサリオンも殺され、ここにプトレマイオス朝約300年間の支配は終わりを告げるとともに、5000年に及んだ古代エジプト王国は幕を閉じ、エジプトはローマ帝国の属領となりました。

以上で、エジプト古代史の解説を終了するに当たり、エジプト古代史はイシスの女神に始まって、クレオパトラ女王で終わったように思います。そしてその間に女王として権力を欲しいままにしたハトシェプスト女王、美しいが故に嫉妬に燃えて夫の側室でツタンカーメン王の母を暗殺したネフェルティティ王妃、父、祖父、叔父との近親結婚を強いられた薄幸の王妃アンケセナーメン、エジプト一の名王ラメセス2世に死ぬまで愛され続け死後も華麗な王墳、神殿を造営して偲ばれた絶世の美女のネフェルタリ王妃、そしてこのクレオパトラ女王、まさに女の歴史でもありました。

それにしても、このクレオパトラの姉弟5人は悲惨な生涯でした。本人は自殺、姉、妹と弟1人は処刑死、もう1人の弟は事故死、そして子供も処刑され完全にプトレマイオス朝の血縁は絶たれてしまいました。 あまりにも無惨な王国の終焉でした。

(BC36年に発行されたクレオパトラの肖像入りの貨幣)
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